第5話「徳川家康編・リスクを取る者と拾う者」
第五話「徳川家康編・リスクを取る者と拾う者」
「ですから! 新しい設備を開発するだなんて、先立つものがありません! キャッシュがないと言ったばかりでしょう!」
喫茶『本能寺』のバックヤード。
店長の明智光秀は、空になった胃薬のシートを握りしめながら、オーナーである織田信長に向かって絶叫していた。
前日の夜、手元資金が過去最低水準にまで落ち込んでいるという、絶望的な資金繰りの状況を説明したばかりだというのに、信長の口から飛び出したのは――。
「感情エネルギーで動く、新型のバーナーを開発するぞ!」
という、さらなる狂気だった。
「だいたい、開発費用はどうするおつもりですか!? オーブンだけでも手に負えないのに、今度は特注のバーナー!? 銀行だって、手元資金に余裕のない店に機材開発の融資なんて簡単にはしてくれませんよ!」
「案ずるな光秀!」
信長は腕を組み、豪快に笑った。
「金がないなら、金持ちから引っ張ればいいだけのことだ!」
「どんな理屈ですか! そんな金持ちどこにいるんですか!」
「――お呼びでしょうか、信長殿」
バックヤードの扉が静かに開き、落ち着いた声が響いた。
そこに立っていたのは、スリーピースのスーツを隙なく着こなした恰幅の良い男だった。
手には重厚な革のアタッシュケース。
怒号の飛び交うバックヤードには似つかわしくない、洗練されたビジネスマンの雰囲気を漂わせている。
「来たな、家康!」
「お久しぶりですね、信長殿。相変わらず無茶なことをしているようだ」
「お前も相変わらず細かいことばかり気にしておるな!」
「幼い頃から変わりませんね。あなたが勢いで突っ走り、私が後ろから転ばないように付いていく」
二人の気安すぎるやり取りに、光秀が目を白黒させて割り込んだ。
「えっと……お二人、どのような間柄ですか?」
「何を言う、幼馴染だぞ!」
信長が豪快に胸を張る。
家康は苦笑しながら、光秀に向かって恭しく名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、株式会社今川義元・新規事業開発室の徳川家康と申します」
「株式会社今川義元……あの大手外食チェーンの!?」
「ええ。本日は仕事として会社の新規事業開発のために参りましたが……信長殿がまた無茶をして困っていると聞き、幼馴染として放っておけなかったのも事実です」
家康は柔らかな笑みを浮かべたまま、アタッシュケースをテーブルに置いた。
「単刀直入に申し上げましょう。先日、私は客としてこの店を拝見しました」
家康は静かに続ける。
「あの羽柴くんという優秀な従業員が構築した、注文からわずか十五秒で焼く手前までの下拵えを完了させるという神業のようなオペレーション……実に見事でした」
「はあ……」
「あれは、単なる飲食店の仕込みではありません」
家康の目が鋭くなる。
「パンのカット、特製アパレイユへの超音波浸透、鉄板への配置まで――作業の無駄を極限まで削ぎ落とし、再現可能な形にまで整理された『仕組み』です」
光秀が息を呑む。
「そこで、信長殿にご提案があります」
家康はアタッシュケースから契約書を取り出した。
「その『十五秒下拵えオペレーション』と、フレンチトーストの基本レシピ。我が社の国内店舗で利用する非独占的な利用権を、一千万円で取得させていただきたい」
「ま、待ってください!」
光秀が慌てて割って入る。
「非独占的な利用権……ですか?」
「ええ。本能寺が今後も自由に使えることはもちろん、我が社も自社店舗で利用できる。双方が使える契約です」
家康は契約書を指先で軽く叩いた。
「羽柴くん本人を引き抜くつもりもありません。彼の能力が並外れていることは認めますが、我が社が買いたいのは、彼がいなくても再現できる仕組みです。一人の天才に依存するのではなく、マニュアル通りに動けば一般の従業員でも一定の速度と品質を維持できるようにする。それがチェーン展開の基本です」
「……なるほど」
「店舗運営には固定費もかかりますし、予測不能なトラブルも起こります。今回の契約には、本能寺の設備や現場運営に関する問題は含まれません。感情エネルギーを利用した特殊設備や、その出力制御も対象外です。我が社が引き受けるのは、買い取った技術を自社店舗へ導入し、従業員に教育するリスクだけです」
「いくらだ?」
信長がニヤリと笑う。
「一千万円」
家康は即答した。
「今回買い取るオペレーションを我が社の既存店舗へ落とし込んだ場合の回転率向上と収益性。そして、あなた方の現在の財務状況。これらを総合的に試算しました。一千万円なら我が社にとっては十分に回収可能な投資であり、本能寺にとっても当面の運転資金を確保できる」
「……そこまで調べたんですか?」
「投資する相手の財務状況を調べるのは当然のことですよ、明智殿」
家康は契約書を信長へ向けた。
「社内決裁と送金の手続きはすでに整えてあります。条件に合意していただけるなら、すぐに指定口座へ一千万円を振り込みます」
「ガハハハ! 交渉成立だ!」
信長は豪快に笑い、ペンをむんずと掴むと、迷うことなく契約書に署名・捺印した。
「しゃ、社長!? 即決ですか!」
光秀が慌てて信長の腕を掴む。
「秀吉が血眼になって作ったオペレーションですよ!? 大手チェーンが同じ速度で出してきたら、強力なライバルになるんですよ!?」
「構わん!」
「ですが!」
「本能寺の強みが漏れるとでも言いたいのか?」
信長は鼻で笑った。
「そんなもの、また新しく作ればいいだけの話だ!」
「……え?」
「俺は、今ある仕組みを守りたいんじゃない」
信長の目がギラリと輝いた。
「もっと美味い料理を作りたいんだ!」
「……!」
「秀吉が十五秒で下拵えを終える仕組みを作ったなら、次は仕上げだ! 極厚のトーストを一瞬で、かつ芯まで完璧に焼き上げるには、普通のガス火じゃ足りん!」
信長は契約書をバンと叩いた。
「その一千万円で、感情エネルギーを極限まで収束させる『新型バーナー』を開発する! 人間の情熱と怒りをそのまま直火に変える、とびきりの火力装置だ!」
「開発資金に全額突っ込む気ですか!?」
「当たり前だ! 十五秒で準備ができるなら、焼く時間も極限まで縮めねば釣り合わんだろうが!」
「させませんよ!!」
光秀は鬼気迫る表情で割って入った。
「前日申し上げたはずです! 手元資金をすべて使い切る経営は絶対に改めると! 今回の一千万円は、手に入ったからといって好き勝手に使っていいお金ではありません!」
「なにぃ!?」
「まず、直近の固定費の支払いに必要な現金を確保し、さらに最低三ヶ月分の運転資金を別口座にガッチリ確保します! そのうえで、残った余剰金の範囲内でしか開発費の予算は組みません!」
「……つまり?」
信長が怪訝そうに眉をひそめる。
「予算の査定が終わるまで、バーナーの発注は全面保留です!!」
「光秀ぇぇぇ!!」
二人の怒号を余所に、家康が静かに笑った。
「……信長殿。相変わらずですね」
「何がだ?」
「普通は、得た一千万円をどう残し、どう安全に運用するかを考えるものです。明智殿の仰る通りにね」
「金を持っているだけで、料理が美味くなるのか?」
信長は不思議そうに首を傾げた。
「……いいえ」
「なら、使うしかないだろう」
家康は一瞬だけ黙り、小さく息を吐いた。
「……なるほど。昔から変わりませんね」
家康はスマートフォンを取り出し、画面を数回タップした。
数秒後、光秀のポケットの中でタブレットが『ピコン』と鳴った。
画面には、
『指定口座へ 10,000,000円の入金がありました』
という表示が浮かび上がっている。
「……本当に入った」
光秀が息を呑む。家康は穏やかに微笑んだ。
「明智殿。利益が出ていることと、現金が手元に残っていることは別です。何かあったときに店を守れるだけの現金は、どうか死守してください」
「……はい! 何があっても社長には一銭も渡しません!」
「おい光秀! 俺の金だぞ!」
「店の売上です!!」
家康は契約書をアタッシュケースへ収め、静かに立ち上がった。
「では、商談成立ということで。この下拵えオペレーションは、株式会社今川義元・新規事業『江戸屋モーニング』として、私の方で安全かつ確実に全国展開させていただきます」
一礼を残し、家康は静かにバックヤードを去っていった。
あとに残されたのは、一千万円の入金が記録されたタブレットを抱きしめて死守する光秀と、すでに工業用バーナーの分厚いカタログを開いて目を輝かせている信長。
「このノズル……感情エネルギーの収束率があと三十パーセントは跳ね上がるぞ……」
「信長様。絶対に予算オーバーの特注品なんて発注させませんからね」
「ケチケチするな光秀! 俺はただ、究極の火加減を求めているだけだ!」
「その情熱で店を燃やされたら困るんです!!」
◆
「……さて」
本能寺を出た家康は、駐車場に停めた愛車の運転席に乗り込んだ。
ドアを閉めると、先ほどまでの人当たりの良い柔らかな表情がすっと消える。
タブレットを開き、買い取った『十五秒下拵えオペレーション』の作業工程データを確認した。
「確かに、仕組みとしては極めて優秀だ」
厨房の動線。
食材の配置。
注文処理から十五秒で焼き台へ送り込む段取り。
「これを我が社の既存店舗へ落とし込めば、ピーク時の回転率は劇的に跳ね上がる」
家康は静かに呟いた。
だが、問題はその先にあった。
タブレットをスクロールすると、ネット上に拡散された動画や来店時の観察記録をもとに自社の調査班がまとめた、本能寺の提供メニューに関する分析資料が並んでいた。
同じレシピ。
同じ材料。
同じ下拵え。
それにもかかわらず、厨房の緊迫度が高まった場面では、焼き上がりのクオリティまで跳ね上がっている。
調査班の報告書には、動画の撮影時刻と提供メニュー、厨房の状況を照合した記録が並んでいた。
第一世代本能寺オーブンが発する異常な排熱。そして、従業員の怒りや焦燥に呼応するかのような出力の変動。
「……下拵えの仕組みは買えても、あの狂気の火力までは我が社には真似できない。いや、真似してはならない領域だ」
家康はバックミラー越しに、遠ざかる本能寺の看板を見つめた。
「信長殿」
微かに口元を緩める。
「あなたが追っているのは、効率化の先にある狂気ですね。……ならば私は、その手前にある『安全な果実』だけを拾わせてもらいましょう」
アクセルを静かに踏み込み、黒塗りの車は、街の喧騒へと滑り出していった。
◆
同刻――。
静まり返った、洗練された書斎。
男は、PC画面に映る記事と動画を凝視していた。ルイス・フロイスがネット上に投稿したものだ。
『喫茶本能寺――怒りを燃料として利用する、狂気の厨房』
男は静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
机の上には、かつて狂気の科学者・松永久秀に依頼して試作させた「感情蓄電装置」の古びた設計図が広げられている。
「出力そのものは……確かに高い」
眼鏡の奥の瞳が、冷徹に細められた。
動画の中で、青白い熱気を放ちながらフレンチトーストを爆発的な勢いで焼き上げ続ける、無骨な本能寺オーブンの姿。
「……怒り、か」
男の口元に、冷ややかな、しかし深い知的好奇心を湛えた笑みが浮かぶ。
「なるほど。使い方が、私とは違う……」
男は古びた設計図を滑らかに畳むと、ゆっくりと立ち上がった。
「一度、織田信長に会ってみる必要がありますね」
男の名は――本願寺顕如。




