第4話「明智光秀編・成長の代償」
第四話「明智光秀編・成長の代償」
「……計算が、合わない」
深夜の喫茶『本能寺』バックヤード。
閉店作業を終え、くたびれたポロシャツ姿の店長・明智光秀は、タブレットに表示された今月の経営資料を前に、青ざめた顔で固まっていた。
SNSでのバズをきっかけに、本能寺は連日長蛇の列を作っている。
秀吉の超効率オペレーションによって、殺到する客をなんとか捌き続けてはいた。
売上高――過去最高。
粗利益――過去最高。
営業利益――黒字。
数字だけを見れば、店は絶好調だった。
だが――。
現金残高――過去最低。
「……なんでだ」
光秀は震える手で胸ポケットからチュアブルタイプの胃薬を取り出すと、水なしでガリリと噛み砕いた。苦味と清涼感が喉を刺す。
タブレットの画面には、信じがたい支出の数々が並んでいた。
・異常過熱を繰り返す『第一世代本能寺オーブン』の修繕費
・客数激増に伴うコーヒー豆や食材の仕入れ増
・秀吉を含む従業員への特別手当
・新型焙煎機の前払い金:五百万円
光秀は、画面の数字を何度も見比べた。
帳簿の上では、店は確かに儲かっている。
だが、仕入れ代金は先に支払わなければならない。オーブンの修繕費も待ってはくれない。そこへ五百万円の設備代まで前払いしてしまった。
利益が出ていることと、明日使える現金があることは、まったく別の話だった。
「……また、やったな」
その時だった。
「光秀!」
バックヤードの扉が勢いよく開いた。
オーナーの織田信長が、上機嫌な顔で姿を現した。その手には、純金箔で縁取られた巨大なカタログが握られている。
「今月も客がよく入ったな!」
「……信長様」
光秀の声が低くなる。
「この『新型焙煎機・前払い金五百万円』というのは、一体何ですか?」
「ん? ああ、これか」
信長はカタログを広げて見せた。
「新しい焙煎機だ」
「五百万円もするんですよ!?」
「そうだ!」
「なぜ今なんですか!?」
「今だからだ!」
信長は当然のことのように即答した。
「客が増えた。ならば、今まで以上に美味いものを出さねばならん!」
「……!」
光秀は一瞬、言葉を失った。
その理屈自体は、分からないでもない。
客が増えれば、料理を提供する機会も増える。ならば、一皿一皿の完成度をさらに高めたい。料理人として考えれば、むしろ自然な欲求なのかもしれない。
――だが。
「それは分かっています!」
光秀はタブレットを信長の眼前に突きつけた。
「私だって、この店の料理やコーヒーを不味くしろと言っているわけではありません!」
「なら、何が問題だ?」
「現金です!!」
光秀の叫びが、狭いバックヤードに響いた。
「売上も利益も増えました! ですが、それに比例して仕入れの支払いも増えた! オーブンの修繕費も即座に出ていく! 秀吉たちへの手当も払わねばならない!」
光秀は画面の最後の項目を血走った目で指差した。
「そして――あなたが、手元に残しておくべき現金まで、次の厨房設備に突っ込んだんです!」
「当たり前だろう」
信長は眉一つ動かさなかった。
「せっかく料理で稼いだ金だぞ?」
「だから何です!?」
「ならば、その金でもっと美味い料理を作る」
信長の目がギラリと鋭く光った。
「金庫に入れて眺めていても、料理は美味くならん」
「……!」
「新しい焙煎機なら、今まで引き出せなかった豆の香りを極限まで引き出せる。コーヒーが劇的に美味くなる」
信長は子供のように目を輝かせた。
「さらに、この豆なら俺の新しいフレンチトーストにも合う。苦味と甘味のバランスを――」
「話を料理に戻さないでください!」
「料理の話をしているのだが?」
「今は経営の話です!!」
「俺にとっては同じことだ」
「同じじゃありません!!」
光秀は頭を抱えた。
「……信長様。店には運転資金というものがあるんです。明日の仕入れも、従業員の給与も、設備の修理も、すべて現金が手元になければ払えないんですよ」
「分かっている」
「なら――」
「だから、もっと美味い料理を作って客に食わせる」
「…………」
「美味い料理を作れば、客は喜ぶ」
信長は真顔で言い切った。
「客が喜べば、また食べに来る。そうすれば料理を作る機会が増える。実に素晴らしい循環ではないか」
「その循環が回る前に現金が尽きたら、店は潰れるんです!」
「明日また稼げばいい」
「だから、その明日を迎えるための現金が必要なんです!」
「では借りればいい」
「借金を増やすんですか!?」
「料理をさらに良くするために必要ならな」
「…………」
光秀は額を押さえた。
どうしてこの男は、ここまで話が通じないのか。
いや。違う。
話が通じていないのではない。
信長の中では、本当にそれが完璧に筋の通った真理なのだ。
金を増やすために料理を作っているのではない。料理をもっと美味くするために、金を使う。そしてその結果として、客が増える。
光秀にとっては手段と目的が転倒している。
しかし信長にとっては――それこそが当たり前なのだ。
「……もういいです」
光秀は深いため息を吐いた。
「私がなんとかします」
「そうか。頼むぞ」
信長は何一つ悪びれる様子もなく頷いた。
「ところで光秀」
「……なんですか」
「この焙煎機、明日の朝までに搬入できるか?」
「今その話をしますかァァァッ!!」
光秀の怒声が、夜の帳に虚しく響き渡った。
「……このままじゃ駄目だ」
信長が去った後。
光秀は一人、タブレットの数字を睨みつけたままでいた。
店は儲かっている。
客も増えている。
料理の評判も上がっている。
それなのに、手元に現金が残らない。
原因は明白だった。店が稼いだ現金を、信長が次々と料理の研究や設備投資につぎ込んでいるからだ。
「秀吉の努力だけでは、この店は救えない」
光秀は呟いた。
「信長様の情熱を止めることもできない……ならば、あの情熱を止めずに店を守る仕組みを作るしかない」
明日の仕入れに必要な金。
従業員に支払う給与。
オーブンの故障に備える修繕費。
それらをあらかじめ別口座に振り分け、何があっても手をつけない運転資金として確保する。
そのうえで、残った資金の範囲内で、料理の研究や厨房設備への投資を行う。
「……経営そのものを変える。信長様の情熱を、店の破綻につなげないために」
光秀は、空になった胃薬のアルミシートを力任せに握り潰した。
その覚悟を嘲笑うかのように、廊下の奥からドタドタと勢いのある足音が近づいてきた。
「光秀ェ!」
「……今度は何ですか」
振り返った光秀の目に飛び込んできたのは、妙に生き生きとした表情で手帳を掲げる信長だった。
「閃いたぞ!」
嫌な予感しかしない。
「……何を、ですか?」
「フレンチトーストを、さらに香ばしくする方法だ!」
信長は、手帳に殴り書きされた怪しげな設計図をビシッと光秀の眼前に突きつけた。
「表面のキャラメリゼだ。砂糖を一瞬で焦がし、香ばしさを最大限に高める。だが、市販のガスバーナーでは火力が生ぬるい。到底足りん。そこでだ!」
信長の瞳が、狂気的な熱を帯びて爛々と輝き出す。
「あの『本能寺オーブン』を設計した技術者、松永久秀を覚えているな? あいつに頼んで、人間の『怒りの感情エネルギー』で稼働する新型バーナーを特注開発してもらおうと考えている!」
「……は?」
光秀の思考が、音を立てて完全に凍結した。
「松永なら間違いなく形にできる! 人間の怒気をダイレクトに燃焼力へ変換する画期的な機構だ! 見ろ光秀、お前がさっきから俺に向けているその凄まじい苛立ち、その怒りのボルテージ――あれを燃料に変換すれば、砂糖など一瞬でガラス状の飴となり、究極の焦がし香が生まれるに違いない!」
「それはもはや火炎放射器です! やめてください!!」
光秀の絶叫が、深夜の本能寺に響き渡った。




