喫茶厨房本能寺編 第二章:サプライチェーン防衛戦 第四話「奪われる仕入先と、忍び寄る巨大資本」
第一部:喫茶厨房本能寺編
第二章:サプライチェーン防衛戦
第四話「奪われる仕入先と、忍び寄る巨大資本」
商店街の喧騒から完全に切り離されたかのように、喫茶『本能寺』の店内は静まり返っていた。
「……見事なまでに、誰も来ませんね」
カウンターの奥で、明智光秀は深くため息をついた。
隣の敷地で華々しくオープンした『本願寺カフェ』は、連日満員御礼。
圧倒的な店舗面積、洗練された内装、そして資本力を背景にした低価格メニューにより、本能寺の客は文字通り根こそぎ奪われていた。
「光秀様! 嘆いている暇はありませぬぞ!」
厨房から顔を出したバイトリーダーの羽柴秀吉が、空の保存容器を掲げて叫んだ。
「客が来ないのは百歩譲って我慢するとして、在庫がありません! コーヒー豆も、パンを焼くための小麦粉も、紅茶の葉も、見事に底を突きました。早く発注をかけてくだされ!」
「わかっている。だが、おかしいんだ」
光秀は手元の帳簿とスマートフォンを交互に見比べた。
「昨日の朝から、浅井農園にも、朝倉ファームにも、武田茶園にも連絡を入れている。だが、誰も電話に出ない。折り返しもない」
「はあ? あの三社がですか?」
秀吉が訝しげに首を傾げる。
浅井長政、朝倉義景、武田勝頼。
彼らは『本能寺』が小さな個人店だった頃から付き合いのある、絶対の信頼を置く仕入先だった。
彼らが発注を無視するなど、これまでは一度もなかった。
「……嫌な予感がする」
光秀はエプロンを外し、ジャケットを羽織った。
「秀吉、店は任せた。私は直接、生産者のところへ行ってくる」
「えっ、ちょっと光秀様!? 客がゼロの店内で私に何をしろと!?」
秀吉の悲鳴を背に受けながら、光秀は店を飛び出した。
単なる通信トラブルであってくれ。
そう願いながら、光秀は最初の目的地である『浅井農園』へと急いだ。
【品質と誠実のコーヒー豆:浅井農園】
郊外のなだらかな丘陵地帯に広がる浅井農園。
美しく手入れされたコーヒーの木々の間で、農園主の浅井長政は複雑な表情で立ち尽くしていた。
「浅井殿!」
息を切らせて駆け込んできた光秀を見て、長政はビクッと肩を揺らした。
「み、明智殿……」
「何度電話しても繋がらないので、直接参りました。いつもの特焙煎豆を急ぎでお願いしたいのですが」
光秀が発注書を差し出すと、長政は気まずそうに目を逸らした。
「……申し訳ありません、明智殿。今季の豆は、まだお渡しできないのです」
「何故です? 樹を見る限り、今年の出来は最高ではないですか」
「ええ。最高の出来です。だからこそ……」
長政が言い淀んだ、その時。
農園の奥から、仕立ての良いスーツを着た男が現れた。
その手には、不釣り合いなほど立派な数珠が握られている。
「だからこそ、我々『本願寺カフェ』が、適正な価格で買い取らせていただくのですよ」
「本願寺……!」
光秀の顔が強張る。
数珠を持った男は、慇懃無礼な笑みを浮かべて名刺を差し出した。
「本願寺カフェ、購買部代理の者です。顕如様より、浅井農園様の素晴らしい豆を『全量』買い取るよう申し付かっておりまして」
「全量だと!?」
「はい。もちろん、本能寺さんが提示されている買値の『倍額』で。しかも、向こう五年の長期契約。初回納品時に全額前払いです」
光秀は絶句した。
倍額。
全量。
前払い。
個人経営の喫茶店が太刀打ちできる条件ではない。
「明智殿……」
長政が苦しげに口を開いた。
「私は、明智殿や信長社長の店を信頼しています。本能寺さんなら、私の豆の良さを最大限に引き出してくれると。しかし……農園の経営を考えると、この条件はあまりにも……」
「浅井殿……」
光秀は言葉を失った。
長政は義理堅い男だ。
だからこそ、条件面での圧倒的な差と、昔からの情との間で板挟みになり、電話に出られなかったのだ。
「まだ契約書に判は押していません。ですが、明智殿……」
「……分かりました。少し、時間をください」
光秀は深く頭を下げ、浅井農園を後にした。
背中を冷たい汗が伝う。
これは単なる「顧客獲得競争」ではない。
本願寺は、本能寺の命綱である『サプライチェーン』そのものを、金の力で断ち切りに来ているのだ。
【人情と怠惰の小麦:朝倉ファーム】
「あー、明智殿。よく来られましたな。まあ、麦茶でも一杯どうですかな」
次に訪れた『朝倉ファーム』では、農園主の朝倉義景が縁側でのんびりと団扇を仰いでいた。
目の前には、黄金色に輝く見事な小麦畑が広がっている。
だが、収穫作業をしている様子はない。
「朝倉殿! 麦茶を頂いている場合ではありません! 小麦です、小麦! 今年の小麦は予定通り納品していただけるのでしょうか!?」
「ええ、ええ。今年の小麦も最高の出来ですぞ。たぶん、大丈夫ですかな」
「たぶん!?」
「いやぁ、実は先ほど、隣にできたという大きな喫茶店の者が来ましてな」
光秀の心臓が跳ねた。
ここにも本願寺の手が回っている。
「今年の小麦を全部売ってくれと言うのです。しかも……」
義景は麦茶をすすり、悠然と続けた。
「明智殿のところへ納品した『去年の小麦の未払い分』、それも全部肩代わりして払ってくれると」
「なっ……!?」
「いやぁ、本願寺殿は太っ腹ですなぁ。明智殿のところ、去年の十一月からお支払い、止まっておりますでしょう? 経理のやり繰りも大変でしょうし、いっそ本願寺殿にお任せしてはどうですかな?」
悪気の一切ない、純粋な善意からの提案。
それが光秀の胃壁をゴリゴリと削り取っていく。
朝倉義景は商売が下手でのんびりしている。
だが、それゆえに「未払い」という本能寺の財務的な弱点を、最も正確に突かれてしまっていた。
「……朝倉殿。去年のツケは、必ず、近日中にお支払いします。だから、本願寺との契約は少しだけ待ってください!」
「ふむ? まあ、私は急ぎませぬが……」
光秀は逃げるように朝倉ファームを飛び出した。
資金力。
圧倒的な資本の暴力が、本能寺の首を真綿で絞め始めている。
【重圧と誇りの茶葉:武田茶園】
最後の希望を胸に、光秀は地域最大の規模とブランド力を誇る『武田茶園』へと車を走らせた。
広大な敷地に、幾何学模様のように整然と並ぶ茶畑。
そこでは、茶園の若き主・武田勝頼が、従業員たちに声を張り上げていた。
「列が乱れている! 剪定の角度が甘い! 先代の時代には、こんな隙のある茶畑は作らなかったぞ! 『武田の茶』のブランドに泥を塗る気か!」
勝頼の悲痛なまでの叫びが響く。
彼は偉大すぎた先代・武田信玄の後を継ぎ、常に周囲からの「親父ならもっと上手くやった」という無言のプレッシャーと戦っていた。
「武田殿!」
「おお、明智殿か。すまないな、今季の茶葉の件だろう」
勝頼はヘルメットを脱ぎ、疲れた顔で光秀をプレハブの事務所へ招き入れた。
机の上には、分厚い契約書の束が置かれている。
表紙には燦然と輝く『株式会社 本願寺』のロゴマーク。
「……やはり、ここにも」
「ああ。顕如の使いが来た。『武田の茶葉を、本願寺カフェのプライベートブランドとして独占契約したい』とさ」
勝頼は自嘲気味に笑った。
「条件は破格だ。武田茶園の生産ラインをフル稼働させても追いつかないほどの大型発注。そして、莫大な設備投資の援助。……これを断れば、先代の遺したこの巨大な茶園を、俺の代で縮小させることになるかもしれない」
「武田殿、しかし本能寺は……」
「分かっている。本能寺は、俺が代替わりして最初に『美味い』と茶を買ってくれた恩人だ。武田の茶を安売りするつもりはないし、お前たちを見捨てるつもりもない」
勝頼は契約書の束をドンッと叩いた。
「だが、明智殿。情や誇りだけで、この巨大な生産網を維持できるほど、現代の商売は甘くない。本願寺なら買うと言っている。ならば、俺は本願寺に売るのが経営者としての責任だ」
「…………」
光秀は反論できなかった。
勝頼の言う通りだ。
金だけでは仕入先は守れない。
だが、金がなければ仕入先は生きていけないのだ。
「明智殿。三日だ。三日だけ、返事を待ってやる。本願寺と同等とは言わん。だが、俺が従業員を納得させられるだけの『対案』を持ってこい」
「……分かりました」
光秀は小さく頷いた。
【本能寺の決断と、狂気の購買担当】
夕暮れ時。
手ぶらで喫茶『本能寺』に戻ってきた光秀は、オーナーである織田信長の前に立っていた。
「……以上の通りです」
光秀の報告を聞き終えた信長は、カウンターでエスプレッソを啜りながら、ピクリとも眉を動かさなかった。
「浅井、朝倉、武田。我が店の命綱とも言える仕入先が、すべて本願寺の資本力によって囲い込まれようとしています。これはもはや、客を奪い合う『商戦』ではありません。兵糧攻めです」
「ふむ」
「このままでは、三日後には豆も小麦も茶葉も入らなくなります。店は終わりです」
信長はカップを置き、ふっと笑った。
「ならば、本願寺よりも高く買えばよいだけのことだろう」
光秀の額に青筋が浮かんだ。
「ですから! その『資金』がないと申し上げているのです! 朝倉殿への去年の支払いすら滞っている状況なんですよ!?」
「金がない? ならば、安く買えばよい。当たり前のことだ」
「だーかーら! 向こうは倍額を提示しているんです! 安く買い叩くなんて物理的に不可能……」
「光秀」
信長の鋭い眼光が、光秀の言葉を遮った。
「誰か、安く買える奴はいないのか?」
「……は?」
「交渉だ。情でも脅しでも何でもいい。本願寺の札束を叩き落として、1円でも安く、確実に仕入れをむしり取ってくる『購買』の専門家が必要だと言っているのだ」
信長が指を鳴らす。
すると厨房の奥の勝手口から、一人の男がヌッと姿を現した。
全身黒ずくめのスーツ。
神経質そうに整えられた前髪。
そして、獲物を狙う鷹のような冷たい目。
「お呼びでしょうか、社長」
「うおおっ!? 誰ですかあなたは!」
秀吉が驚いて後ろに跳び退いた。
「紹介しよう。今日から我が喫茶本能寺の『購買部』を担当する、佐々成政だ」
「購買部……?」
「そうだ」
信長はニヤリと笑い、佐々成政に命じた。
「成政よ。浅井、朝倉、武田の三社へ行け。そして、本願寺との契約を阻止し、向こうの提示額よりも『安く』仕入れてこい」
「承知いたしました」
佐々成政は表情一つ変えずに一礼した。
光秀は頭を抱えた。
「いやいやいや! 無理に決まってるでしょう!? 倍額出されてる相手に、値引き交渉なんて!」
「やりますよ」
佐々は淡々と言った。
「社長の命令が『1円でも安く』であれば」
そして、アタッシュケースを手に取る。
「購買とは、商品を安く買う仕事ではありません」
佐々の目が、冷たく光った。
「相手に『これ以上は安くできない』と言わせる仕事です」
「…………」
「たとえ血を吐こうとも、1円単位でむしり取ってご覧に入れます」
本願寺の巨大資本――札束に対する、本能寺の対抗策。
それは、資本力でも、店舗規模でもない。
狂気の値下げ交渉。
札束と値札の戦争という、あまりにもブラックな泥仕合の幕が、今まさに上がろうとしていた。




