第2話「異邦人と火柱の喫茶店」
第2話「異邦人と火柱の喫茶店」
【東暦一五七〇年・令正八年 五月某日】
ルイス・フロイスは、ポルトガルにある日本の自動車メーカーの現地法人から、日本本社へ出向してきた優秀な会社員である。
平日は愛知県名古屋市のオフィスで真面目にエクセルと睨み合い、休日は一眼レフカメラを片手に街へと繰り出す。
彼の最大の趣味は、母国ポルトガルでは決して見ることのできない、日本独自の「喫茶店巡り」であった。
「オーウ……ワンダフル。今日もエキサイティングですネ」
フロイスは、目の前に置かれた強烈なビジュアルの皿を見て、感嘆の息を漏らした。
太めのスパゲティの上に、たっぷりの抹茶パウダーがかけられ、その中央に巨大な小倉あんが鎮座し、さらにホイップクリームがトッピングされている。
名古屋が誇る奇食、『抹茶小倉スパ』である。
フロイスはパシャリとシャッターを切ると、手慣れた手つきでスマートフォンのSNSアプリを開き、写真をアップロードした。
アカウント名は『本日の名古屋喫茶文化』。
《本日は抹茶小倉スパゲティ。甘さと苦さと炭水化物の暴力。日本の喫茶店は本当に独創的で素晴らしいデス》
投稿ボタンを押しながら、フロイスは満足げに頷いた。
天井近くまで脚立に登ってコーヒーをドリップするマスターがいる店。
コーヒーを頼んだだけなのに、トーストとゆで卵とサラダと茶碗蒸しが無料でついてくるモーニング文化。
来日して以来、彼はこの狂気的とも言える愛知の喫茶店文化の虜になっていた。
「次はどんなクレイジーな店に行きましょうか……おや?」
フロイスは、喫茶店のテーブルに置かれていた地方紙『天下布武新聞』の小さな見出しに目を留めた。
そこには、写真付きでこう書かれていた。
【清須市】店内で定期的に火柱が上がる喫茶店――『本能寺』。店側は「通常営業です」と説明。
「…………通常営業?」
フロイスは目を丸くした。
火柱が上がるのに通常営業。
意味が分からない。
マジックショーでもやっているのか。
それとも、フランベを極めた凄腕のシェフがいるのか。
どちらにせよ、彼の「SNS映えアンテナ」が激しく反応していた。
「……これは、撮らなければなりませんネ」
フロイスは抹茶小倉スパを綺麗に平らげると、店を出て愛車のハンドルを握った。
日本の自動車メーカーに出向している彼にとって、やはり休日の移動も自社製の最新ハイブリッド車に限る。
フロイスは快適なエンジン音を聞きながら、一路、清須市へと向かった。
*
カランコロン、と涼やかなベルの音を鳴らし、フロイスはレトロな純喫茶『本能寺』の扉を開けた。
時刻は午前十一時。
モーニングのピークが過ぎ去り、ランチタイムにはまだ早い。
本能寺にとっては、珍しく客足の落ち着く時間帯だった。
「いらっしゃいませ……お好きな席へどうぞ……」
出迎えたのは、白いコックコートを着た細身の店長だった。
ひどく疲れた顔をしており、目の下には深いクマができている。
胸元のネームプレートには『明智』と書かれていた。
「サンキュー。では、こちらに」
フロイスは厨房がよく見えるカウンター席に陣取ると、周囲をぐるりと見渡した。
金屏風や和傘が飾られているという奇妙な内装ではあるものの、店内は極めて静かだった。
数人の客が新聞を読みながらコーヒーを啜っているだけで、どこにも危険な気配はない。
当然、火柱など上がっていない。
(……普通ですね)
フロイスは少しがっかりした。
メニュー表を開き、一番上に書かれていた名物の『特製本能寺ホットサンド』とブレンドコーヒーを注文する。
数分後、運ばれてきたホットサンドは、表面が美しいきつね色に焼き上げられていた。
一口かじると、サクッとした食感とともに、濃厚なチーズとハムの旨味が口いっぱいに広がる。
「うん。普通に美味しいですね」
確かなクオリティだ。
コーヒーも深いコクがあって素晴らしい。
素晴らしいのだが――彼が求めていた「狂気」はない。
ただの優良な純喫茶である。
「火柱というのは、やはり何かのイベントの時だけなのでしょうか。残念デス」
フロイスが肩を落とし、帰る準備をしようと席を立ちかけた、その時だった。
『カァァァァァァン!!』
突如、店内の時計が十二時を告げる鐘を鳴らした。
瞬間、喫茶『本能寺』の空気が、文字通り「一変」した。
「いらっしゃいませェェェ! 2名様ご案内ィィィ!」
「すいませーん! ホットサンド三つとコーヒー!」
「こっち水のおかわりまだ!?」
オフィスの昼休みを迎えた猛烈な数のサラリーマンたちが、雪崩を打って店内に押し寄せてきたのだ。
フロイスは目を見開いた。
ホールを凄まじい残像を残しながら駆け回る小柄な店員。
ネームプレートには『羽柴』とある。
そして、先ほどまで静かにグラスを拭いていた店長・明智の顔から、急速に余裕が消え去っていく。
「秀吉! 3番テーブルのオーダーまだか! もっと早く動け!」
「無理言わないでくだされ明智殿ォ! こっちは一人でホール回してんですよォォォ!」
従業員たちの怒号が飛び交い、店内の空気が物理的にピリピリと張り詰めていく。
その直後だった。
『ゴォォォォォォォォッ!!』
「オーウ……!?」
フロイスは思わずカメラを構えた。
厨房の奥にある巨大な鉄板――否、異様な形状をしたオーブンから、突如として真っ赤な火柱が噴き上がったのだ。
フランベなどという生易しいものではない。
まるで工場の溶鉱炉のような、暴力的な熱気。
「秀吉! いいぞ! もっと怒れ! その火力なら、まだ焼ける!」
「ふざけるなブラック企業ォォォォッ!!」
秀吉の悲痛な叫びとともに、オーブンの炎がさらに赤く、激しく燃え盛る。
「……いい火だ!」
厨房の奥から、黒いエプロン姿の信長が飛び出してきた。
その手には、焼き上がったばかりのホットサンドを挟む大型のトング。
信長は燃え盛るオーブンの前に立つと、まるで芸術作品でも鑑賞するかのように炎を見つめた。
「この火だ。この瞬間火力なら、パンの表面だけを一気に焼き固められる!」
信長はホットサンドを鉄板へ滑り込ませた。
ジュウウウウウッ!!
猛烈な熱がパンの表面を一気に焦がしていく。
「外側はカリッと。だが、中まで火を通しすぎればチーズの水分が飛ぶ!」
信長は秒単位で焼き加減を見極め、ホットサンドを裏返す。
「だから火力を落とす!」
ガコンッ!
レバーが操作されると、赤々と燃えていた炎が一瞬で弱まった。
「……そして、最後にもう一度だけ叩き込む!」
ガァンッ!!
再び炎が跳ね上がった。
「ここだッ!」
信長がホットサンドを取り出す。
表面は完璧なきつね色。
包丁を入れると、内部から熱々のチーズがとろりと流れ出した。
「完成だ」
信長は満足そうに笑った。
「最高の火力を、最高のタイミングで使う。それだけで料理は変わる」
「……アメイジング」
フロイスは思わず立ち上がっていた。
先ほどから目の前で繰り広げられている光景が、もはや喫茶店の調理風景には見えない。
まるで、巨大な火を自在に操る職人の実演だった。
「エクスキューズミー!」
フロイスは興奮した様子で厨房へ近づく。
「信長さん! あのオーブンは一体何なのですか!?」
「お前、そこが気になるのか?」
「もちろんデス!」
信長はニヤリと笑った。
「なら、よく見ていろ」
「エ?」
信長はフロイスの目の前で、再びオーブンを操作する。
「この炉には、電気もガスも通っていない」
「……やはり!」
フロイスの目が輝く。
「この構造……まさか、大昔に廃れた古代の【感情エネルギー技術】ではありませんか?」
「ほう。貴様、よく知っているな」
「教科書で一般教養として習った程度デス。現代では効率が悪すぎて、誰も使わなくなった幻の旧式技術ですから」
「その通りだ」
信長は頷いた。
「松永久秀っていう狂った技術者がな。こいつを【怒り】だけで動くように作り変えやがった」
「【怒り】だけに……?」
「そうだ」
信長は厨房の奥で怒鳴っている光秀と秀吉を親指で指差した。
「忙しい昼時になれば、あいつらは勝手に怒る。その怒りが炉に入る」
「なるほど……!」
フロイスは夢中でカメラを構える。
「では、このオーブンは従業員の感情を燃料としているのですネ!」
「まあ、そういうことだ」
信長は再び鉄板へ食材を置いた。
「だがな」
ジュウッ!
肉が鉄板に触れた瞬間、凄まじい音を立てる。
「俺が気に入っているのは、そこじゃねぇ」
「……エ?」
信長は炎を見つめながら笑った。
「怒りが火になる。それだけなら、ただの珍しい技術だ」
「…………」
「だが、その火でしか作れねぇ味がある」
信長は鉄板の上の肉をひっくり返した。
肉汁が弾け、炎が一瞬だけ高く跳ねる。
「強火で一気に焼くことでしか閉じ込められない肉汁がある。瞬間的な高温でしか出せない香ばしさがある」
信長の目が輝く。
「だったら、使うしかねぇだろう?」
フロイスは言葉を失った。
「危険な古代技術だから使うのではない」
信長は火を見つめたまま続ける。
「料理が美味くなるから使うんだ。」
「……!」
その瞬間、フロイスは理解した。
この男は、喫茶店を経営しているのではない。
料理を作るために、喫茶店をやっている。
信長にとって、店も、設備も、感情エネルギーも、すべては料理のための道具なのだ。
「あなた、とてもクレイジーな人ですネ……」
「ガハハハハッ!」
信長は豪快に笑った。
「今さら気づいたか!」
しかし、その直後だった。
『ゴバァァァァァァン!!』
厨房の奥で、秀吉が客から理不尽なクレームを受けたらしい。
「ふざけるなァァァッ!」
秀吉の怒声。
次の瞬間、本能寺オーブンが凄まじい勢いで【怒り】を吸い上げた。
「おおッ!」
信長の目が輝く。
「まだ火力が上がるのか!」
「信長様! 喜んでる場合じゃありません!」
光秀が叫ぶ。
オーブンの炎が一気に膨れ上がった。
『ゴォォォォォォォォッ!!』
「素晴らしいッ!」
信長は叫びながら、鉄板の上の料理を一気に仕上げていく。
「この火なら……いける!」
ガァンッ!!
肉をひっくり返す。
ジュワァァァッ!!
「あと十秒!」
「信長様! 火力が限界を超えています!」
「あと五秒!」
「信長様ァァァッ!」
「三秒!」
「もう無理ですってェェェ!!」
「二秒!」
『ゴバァァァァァァン!!』
オーブンから巨大な火柱が噴き上がった。
「一秒足りねぇッ!」
信長が悔しそうに叫んだ。
炎は換気扇のフィルターへ燃え移り、小さなボヤ騒ぎが発生する。
「お館様! 火が! 火が燃え移りました!」
光秀がパニックになって叫ぶ。
しかし信長は火柱を見ながら、なぜか満足そうに笑った。
「……いい火だった」
「そこを褒めてる場合じゃありません!!」
信長は棚を指差した。
「慌てるな光秀。そこにある清洲城信長『鬼ころし』を使え。ぶっかけて消火しろ」
「酒で火を消すなァァァァァッ!!!」
光秀の常識的なツッコミも虚しく、信長の威圧に負けた光秀は、紙パックの日本酒『鬼ころし』を赤熱したオーブンの吸気口へ一気にぶち撒けた。
極限状態まで熱と【怒り】を溜め込んでいた第一世代本能寺オーブンが、アルコールと光秀の悲鳴に凶暴に反応する――。
『ボォォォォォッ!!!』
一瞬だけ、先ほどとは比べ物にならない巨大な火柱が上がり、バックヤードの天井を激しく舐めた。
あまりの熱量と閃光に、光秀の絶叫が厨房に響き渡る。
しかし幸い、燃料が一気に燃え尽きたのか、巨大な火柱はすぐに収まった。
「オーウ! ワンダフル! ファンタスティック!!」
フロイスは歓喜の声を上げながら、炎を大きく捉えるローアングルで、黒焦げになった厨房と絶望的な顔で頭を抱える光秀の姿を激写しまくった。
フラッシュの光が、くすぶる煙と交差する。
「……これは、小火ですか?」
シャッターを切りながら、興奮冷めやらぬフロイスが尋ねる。
「そうだ」
燃え盛る炎を背にした信長は、平然と答えた。
「本能寺では、これくらい小火だ」
「最高ですね!」
これこそが、フロイスが求めていた『エクストリーム・ジャパニーズ・カフェ』であった。
「おいフロイス。いい写真は撮れたか?」
「はい! 最高です!」
フロイスは液晶画面を確認しながら親指を立てた。
「なら、その写真を見て『この店の料理を食いたい』と思った奴がいるなら、連れてこい」
「分かりました。ハッシュタグをつけて拡散しますヨ。店名は?」
「喫茶『本能寺』だ」
「よし!」
フロイスは嬉しそうに頷いた。
信長も上機嫌に笑う。
「美味い料理を食いたい奴なら、何人来ようが構わん。俺が全部、最高の料理を食わせてやる!」
その足元で。
煤まみれになった光秀だけが、絶望の涙を流しながら胃薬を噛み砕いていた。
「信長様ァ……! これ以上、客を増やすんですかァァァ……ッ!?」
「当然だろう!」
「なぜですかァァァッ!?」
「俺の料理を食いたい奴が増えるんだぞ!?」
「そこだけ聞けば正論なのが腹立つんですよォォォ!!」
かくして、狂気の喫茶『本能寺』に、また一人。
この店の料理と火柱に魅せられた、強烈な常連客が誕生したのである。




