第1話「鬼武蔵、小火を起こす」
第1話「鬼武蔵、小火を起こす」
【東暦一五七〇年・令正八年 四月某日】
私、森蘭丸にとって、兄の森長可は絶対に敵わない存在だった。
地元では『鬼武蔵』などという物騒な異名で呼ばれるほどの不良であり、喧嘩負け知らず。どんな困難も腕力と根性でねじ伏せてしまう、絶対に折れない鉄のような人だ。
だから私は、兄上には敵わない場所などこの世に存在しないと本気で信じていた。
――あの日、父に連れられて、あの『狂った喫茶店』の扉を開けるまでは。
「おう信長先輩、ちわっす! 今日もいつもの頼むわ!」
愛知県清須市のオフィス街にひっそりと佇む、レトロな純喫茶『本能寺』。
カランコロンと涼やかなベルの音を響かせて入店するなり、父・森可成はカウンターの奥に向かって気安く声をかけた。
私と兄上は、父の背後で居心地悪く立ち尽くしていた。
「おう、可成か。相変わらず声がでけぇな」
厨房の奥から現れたのは、黒いエプロンに身を包んだ鋭い眼光の男――この店のオーナー、織田信長だった。
父とは高校時代からの先輩後輩の仲であり、父自身も常連客としてこの店に足繁く通っているらしい。
信長は鋭い視線を私と、そして不機嫌そうにポケットへ手を突っ込んでいる兄上へ向けた。
「で? その後ろのガラの悪いのが、最近手を焼いてるっていう長男か」
「ええ、そうなんスよ。長可のやつ、地元じゃ鬼武蔵なんて呼ばれて毎日喧嘩ばっかりで。少しは社会の厳しさを学ばせねぇとダメかと思いましてね」
父の言葉に、長可は「チッ」と舌打ちをした。
「喧嘩売ってくる奴らを返り討ちにしてるだけだろ。大体、社会の厳しさってなんだよ。こんな古臭い喫茶店で何が学べるってんだ」
「ほぅ」
信長の口角が、凶悪に吊り上がった。
「威勢がいいな、長可。なら、今日一日だけうちの店で働いてみるか? 社会勉強だ。もちろんタダ働きとは言わん。時給は相場の倍出してやる」
「……マジかよ。喫茶店のバイトだろ? スマホいじりながらコーヒー運ぶくらい、楽勝だぜ」
時給の良さに釣られた兄上は、不敵な笑みを浮かべてその提案をあっさりと呑んだ。
私も父も、「まあ、鬼武蔵と呼ばれる兄上なら喫茶店のバイトくらい問題ないだろう」と高を括っていた。
この店の本質を、まだ何も理解していなかったのだ。
◆
一時間後。
客席から厨房の様子を見ていた私は、信じられない光景に絶句していた。
「すいませーん! Bセットまだ!?」
「こっちお冷や!」
「ホットサンド三つ、持ち帰りで!」
ランチタイムのピーク。
店内には怒涛のオーダーとクレームが飛び交い、まるで戦場のような有様になっていた。
「長可! 3番テーブルのバッシング! 終わったらすぐに持ち帰り用のQRコード決済と洗い物だ! 急げ!」
血走った目で的確な指示を飛ばすのは、店長の明智光秀だ。
当初、「なんだこの店……」と舐めきっていた兄上だったが、凄まじい客の圧力と光秀の怒号に、持ち前の『鬼武蔵』の意地で食らいついていた。
「うるせぇ! 今やってるだろうが! 俺を誰だと思ってんだ!」
怒鳴り返しながらも、凄まじいスピードで食器を片付け、洗い物をこなし、ホールを駆け回る。
並の高校生なら開始十分で逃げ出しているだろう運動量だ。
やっぱり兄上はすごい。
どんな環境でも戦えるんだ。
私がそう感心していたのも束の間――後半戦に入り、事態は急変した。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ……待て、なんだこの店は……」
兄上の動きが、目に見えて鈍り始めたのだ。
体力だけが原因ではない。
この店を包む異様な『プレッシャー』と、理不尽なまでの業務量に、肉体も精神も同時に削り取られていたのだ。
「長可! 4番テーブルの会計だ! ……おい、そっちの奥の設備には絶対に触るなよ! 特別な調理機器だからな!」
「あぁ!? なんだよ、触るな触るなって威張り散らしやがって!」
光秀に強く釘を刺され、不機嫌さを露わにする兄上。
その時、客席側からけたたましい怒号が上がった。
「ちょっと! さっきからオーダー間違えてるじゃないの! どうなってるのこの店は!」
「申し訳ございません! すぐにお取り替えいたします!」
激しいクレーム対応のため、光秀は厨房を離れて客席へ向かわざるを得なくなった。
厨房に残されたのは、荒い息を吐く兄上ひとり。
ふと、兄上の視線が厨房の奥に置かれた特注の『本能寺オーブン』へと向けられた。
ガスも電気も通っていない異様な鉄の塊。
兄上は忌々しそうに吐き捨てた。
「けッ……触るな触るなって言ってたのはこれかよ。感情エネルギー技術……こんな古臭ぇモン、まだ使ってる奴がいたのか」
知識としては知っていた。
だが、実際に生体エネルギー炉を見るのは初めてだった。
そして――。
光秀から「触るな」と子供扱いされた屈辱。
理不尽な業務量への苛立ち。
そして何より、たかが喫茶店のバイトで不甲斐なく消耗している自分自身への怒り。
兄上の胸の奥で、それらが一つに膨れ上がっていく。
――ふざけるな。
俺が。
たかが喫茶店の仕事ごときで。
こんなにも追い詰められている?
「……クソッ!!」
その瞬間だった。
ガガガガガガガガッ!!
「……なっ!?」
本能寺オーブンが突然、唸り声を上げた。
鉄板が血のような深紅に発光し、狂ったような熱風を吹き出し始める。
「なんだこれ!? 熱いとかそういう問題じゃねぇぞ!?」
松永久秀が構築した第一世代システム。
【怒り】だけに特化し、安全制御の未完成だった狂気の機構が、鬼武蔵の破格の怒りを一気に吸収していた。
「くそっ!」
パニックに陥った兄上は、火力を抑えようと無我夢中で手近なレバーやダイヤルを力任せに回した。
だが、その焦りと苛立ちすらも、オーブンの燃料となっていく。
――ボッ!!
凄まじい音と共に、オーブンから真っ赤な火柱が上がった。
小火の発生である。
「うわああああっ!?」
尻餅をつく兄上。
客席からは悲鳴が上がり、店内は一時騒然となった。
「……申し訳ありません、信長先輩! まさか初日で小火を起こすなんて……修繕費は必ず私が全額払いますので!」
営業が一時ストップした薄暗い店内で、父・可成が青ざめた顔で頭を下げていた。
兄上もすっかり意気消沈し、煤まみれになった顔を俯かせている。
あの『鬼武蔵』が、完全に心が折れていた。
「……」
私は、息を呑んで信長の反応を待った。
これほどの失敗だ。
どれほど激しく罵倒されても文句は言えない。
兄上はきっと、こっぴどく怒られるだろう。
しかし――。
信長は静かに煙草の煙を吐き出すと、父の肩にポンと手を置いた。
「不要だ」
「え……?」
「俺の厨房で起きた事故だ。俺が片付ける」
「信長先輩……」
信長は俯く兄上へ歩み寄った。
「長可」
「……」
「怪我はねぇか?」
「……ねぇ」
「そうか」
信長はそれだけ確認すると、今度は焼け焦げたオーブンへ視線を向けた。
その目が、わずかに細くなる。
「……なるほど」
「?」
「怒りだけで、ここまで火力が出るのか」
その声には、怒りも驚きもなかった。
そこにあったのは――純粋な料理人としての興味だった。
「面白ぇな」
「信長先輩!? そこじゃないでしょう!」
父のツッコミを無視し、信長は再び長可を見る。
「火を出したことを褒めてるんじゃねぇ」
「……」
「この状況で、最後まで厨房から逃げなかった。その根性は認めてやる」
兄上の顔が、わずかに上がった。
「それに……」
信長はニヤリと笑った。
「あれだけ怒りを燃やせるなら、料理に使える火も出せそうだ」
「……ッ」
兄上の目が大きく見開かれた。
「成人して、それでもうちで働く気があるなら、その時は歓迎してやる」
「……」
兄上は何も言えなかった。
ただ、拳を強く握り締めていた。
私も、信長のその姿から目が離せなかった。
強い。
私が今まで「強さ」だと思っていたのは、腕力で他人を屈服させることだった。
しかし、目の前にいるこの男は違う。
他人の圧倒的な失敗を許し、将来まで否定することなく、料理人としての可能性まで見抜いてしまう。
これこそが、本当の『強さ』なのだ。
(……この人のそばで、働いてみたい)
私の胸の奥に、不思議な憧憬の念が芽生えた。
その時だった。
「信長様ァァァッ!!」
厨房の奥から、ところどころ煤けたエプロン姿の光秀が血相を変えて飛び出してきた。
「どうした光秀」
「どうしたではありません! まだ火が完全に消えていません! 信長様、消火器がありません!!」
「チッ、買い忘れていたか」
信長は平然と舌打ちすると、カウンターの隅に無造作に置かれていた一升瓶を指差した。
「仕方ねぇ。そこにある清洲城信長『鬼ころし』を使え」
「!?」
その言葉に、一番過剰に反応したのは兄上だった。
「お、俺を殺す気か!?」
「違う! お前ではない! 火を消すんだ!」
光秀が渾身のツッコミを入れた直後、ハッと気づいてさらなる絶叫を上げた。
「いや、酒で火を消すなァァァァァッ!!」
「料理なら酒で火を入れることもあるだろう」
「料理と消火を一緒にするなァァァッ!!」
光秀の常識的なツッコミも虚しく、信長の威圧に負けた光秀は、紙パックの日本酒『鬼ころし』を赤熱したオーブンへ向かって強引にぶち撒けた。
――ボォォォォォッ!!!
鬼武蔵の怒りを限界まで溜め込んでいた第一世代本能寺オーブンが、アルコールと光秀の悲鳴に凶暴に反応する。
先ほどの小火とは比べ物にならない。
景気よく、大火柱が上がった。
「ぎゃああああああっ!!」
悲鳴を上げる光秀。
その横で、信長は腹を抱えて大笑いしていた。
「ガハハハハハハッ!! すげぇ火だ! これなら焼き物が一瞬で仕上がるぞ!」
「料理の心配をしてる場合かァァァッ!!」
真っ赤に燃え上がる厨房。
その狂気に満ちた光景を見つめながら、私は静かに心に誓った。
――明日から、この店に通おう。
この日、私は初めて知った。
本当に強い男とは、他人を倒す男ではない。
失敗した料理人を見捨てず、その失敗すらも「次の料理」へ変えてしまう男なのだと。
――そして私はまだ知らなかった。
この店では、火事が『事故』ではなく――日常になることを。




