第0話「是非もなし」
【東暦一五七〇年・令正八年 六月二日】
『ゴォォォォォォォォォッッ!!!!』
激しい爆風とともに、深紅の炎が喫茶『本能寺』の厨房を突き破り、天井へと一気に燃え広がっていく。
ダクトを通じて油と焦げた匂いが充満する店内に火の手が回り、火災報知器がけたたましい警報音を響かせていた。
「火事だぁぁぁッ!? 避難してください!!」
店長・明智光秀がホールへ飛び出し、叫ぶ。
悲鳴を上げてガラス扉から外へと一斉に逃げ出していく客たち。
バイトリーダーの羽柴秀吉は煙に巻かれながら必死で消火器を噴射するが、一度解き放たれた炎は、メラメラと本能寺全体を飲み込んでいった。
「社長! 逃げてください! 店が……本能寺が燃えます!!」
光秀が煙の奥に立つ信長の腕を掴もうとした。
だが――。
激しい炎と黒煙に包まれる厨房の中心で、オーナー・織田信長は逃げようともせず、ただじっと立ち尽くしていた。
火の粉が舞い落ち、蒸気が吹き荒れる絶望的な炎上の中、信長が見つめているのは手元の皿だけだ。
そこには、十二秒だけ焼き上げられた黄金色のフレンチトーストが鎮座している。
信長は静かにフォークを伸ばし、一口分を切り取って口へ運んだ。
熱々のパンを噛み締める。
表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。濃厚な甘みが舌の上に広がる。
十二秒。
これが、完成形だった。
メラメラと燃え上がる厨房の炎を背に、信長は静かに目を閉じ、その味を確かめた。
信長は、しばらく何も言わなかった。
やがて――ゆっくりとまぶたを開けると、炎に照らされた口元に不敵な笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「……是非もなし」
「是非もなしじゃないでしょうがぁぁぁッ!!」
光秀の決死のタックルによって、信長と秀吉は間一髪で非常口から外へと転がり出た。
直後――
『ドォォォォンッ!!』
凄まじい爆発音とともに、喫茶『本能寺』の屋根が崩落した。
――この惨劇が起きる、数週間前。




