第61話「朝餉の天下布武と燻香の布石」
第61話「朝餉の天下布武と燻香の布石」
【東暦一五七三年 八月下旬・非営業日の喫茶厨房本能寺】
床に突っ伏したままピクピクと痙攣する明智光秀をよそに、厨房のロの字型長机では、なおも熱気を帯びた評定――『清洲会議』が続いていた。
「……さて、信長様」
長秀が電卓を小脇に抱え、手帳をめくった。
「平蜘蛛による豚角煮と五大野菜ソース、そして光秀店長が持ち帰った五種の珈琲『漆黒の涙』。これにより、本能寺モーニングにおける【哀(超高圧)】の主軸は完璧に定まりました。残る枠の一つ、セットを彩る【楽】の料理をどう組み込むかです」
本能寺の厨房を支える感情エネルギー設備。
光秀の【哀愁】を動力とする『平蜘蛛』。
そして、客やスタッフの【快楽・娯楽】を煙へと昇華させる自動燻製装置『楽市楽座』である。
「うむ!」
信長が腕を組み、顎を撫でた。
「朝のフレンチトースト、そして平蜘蛛の角煮と珈琲……。これに合わせる【楽】の燻製料理だな! ……む、待てよ?」
信長の瞳の奥に、再び怪しげな料理狂の炎がメラメラと灯り始めた。
「昨夜から今日にかけて、平蜘蛛の料理を突き詰めたことで、俺の料理脳が限界を超えて活性化しておる! 『楽市楽座』の燻製料理も、角煮と同じく数種類……いや、十種類ほど試作して選べるようにした方が、客の朝の選択肢がさらに広がるのではないか!?」
「ぬわああああっ!?」
床で倒れていたはずの光秀が、上半身だけガバッと跳ね起きて絶叫した。
「しゃ、社長ォォォッ!? もう勘弁してください! これ以上メニューを増やしたら仕込みで死人が出ますッ!!」
「軟弱者ッ!!」
すかさずドカンと机を叩いて立ち上がったのは、胸筋を盛り上がらせた柴田勝家であった。
「某は社長の意見を全力で支持いたしますッ! 燻製料理が十種類あれば、客は毎日来ても飽きぬ! 煙など気合で吸い込み、寝る間を惜しんで燻煙し続ければ全て解決いたしますッ!!」
「柴田殿ぉぉぉッ! あなたは本当に黙っていてくださいィィィッ!!」
光秀が頭を抱えてのたうち回る。
信長が「やはりそう思うか勝家!」
とニヤリと笑いかけた、その刹那――。
「――お待ちください、信長社長」
冷静沈着に長机へ両手をついて割って入ったのは、厨房担当の佐々成政であった。
「……成政か。お前も何か言いたいことがあるのか?」
「はい! 登頂ルートを無闇に増やすのは遭難の元です! 仕入れという標高を抑え、最高峰の味を安定供給するためにも、【楽】の燻製料理は一品に絞るべきです!」
成政は胸ポケットから仕入れ台帳を取り出し、真剣な眼差しで信長を見据えた。
「我ら本能寺には、あの北近江・浅井農園との特別なパイプがございます! ここで浅井農園と更に深く縁を結べば、よりお市さまと浅井長政殿との縁が進展する可能性もございます! あの高品質な食材を活かし、両家の絆を強めるためにも、燻製料理は浅井農園直送の『極上燻製ゆで卵』か、もしくは『朝引きハーブ鶏の燻製』のどちらか一点に絞り込み、集中投下するべきです!」
「市と長政の縁だと……!?」
信長がピクリと眉を跳ね上げた。 妹・お市を巡る浅井長政との関係を持ち出され、信長は腕を組んで深く唸る。
超一級品の食材であることはもちろん、身内の縁談に関わるとなれば無下には退けられない。
そこへ、すかさずホール担当の前田利家が身を乗り出した。
「社長! ホールの現場から言わせてもらえば、ここは絶対に『燻製ゆで卵』ッスよ!」
「ほう、利家。なぜ卵だ?」
「客の認知度が桁違いッス! モーニングといえば名古屋の定番はゆで卵! しかも本能寺の『楽市楽座』で燻したゆで卵は、すでに通常営業でも常連客から『黄身がねっとりしてスモーキーで最高だ』って圧倒的な支持を受けてる看板メニューッス! これをモーニングの皿に乗せない手はないッスよ!」
利家の現場感覚あふれる力説に、信長が「むぅ……確かに常連のウケは抜群だったな」と唸る。
だが――一度湧き上がったインスピレーションの奔流を、そう簡単に手放せる信長ではなかった。
信長はスケッチブックを抱え込み、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。
「……だが! 俺の頭の中には、すでに燻製チーズ、燻製ナッツ、ベーコンにソーセージと、楽市楽座で燻すべき至高のアイデアが湯水のように溢れ返っておるのだ! 卵一つに絞り込むなど、この溢れる情熱を捨てろというのか! 惜しい、あまりにも惜しすぎるぞッ!!」
料理狂としての情熱が暴発寸前となり、再び「全品試作」へと舵を切り直そうとする信長。
その時、羽柴秀吉がニヤリと策士の笑みを浮かべて前に進み出た。
「社長! その溢れるアイデア、捨てる必要なんて全くありませんよ!」
「なに? 捨てぬだと? だが店内のモーニングで十品も出せば現場がパンクすると騒ぐではないか」
「ええ、店内の皿に乗せるモーニングはオペレーション最速の『燻製ゆで卵』一つに絞ります。ですが社長――『作り置きのテイクアウト』だけなら、メニューを増やしてもレジで即座にお渡しできるので現場は十分に回せます!」
「……ほう?」
信長がピクッと眉を動かした。
秀吉は手振りを交えて熱弁を振るう。
「『楽市楽座』で仕上げた燻製料理は、薫香が奥深くまで染み込むため、風味を保ったまま営業前にまとめて仕込めるという強みがあります! 朝の営業前にまとめて燻してパック詰めしておけば、お客様から注文が入ってもレジでサッと手渡すだけ! 追加の調理時間はほぼゼロです! 客席の回転も厨房の動線も一切邪魔しません! つまり……社長のスケッチブックにある大量のアイデアのうち、テイクアウトに転用できるものなら、いくらでも試作して店頭に並べられるということです!」
「な……なにィッ!?」
信長がガタッと立ち上がり、身を乗り出した。
「店内でモーニングを堪能したお客様が、レジ横に並んだ社長特製の燻製ナッツや燻製チーズを見て、『これも美味しそうだから家族へのお土産に』と買い足していく! モーニングのセットに加えて、お持ち帰りの売上まで二重に総取りできる……これぞ社長のアイデアを全方位で活かし切る、本能寺の兵站戦略ですよ!」
「おお……! おおッ!!」
信長の瞳に歓喜の輝きが戻った。
アイデアを捨てることなく、むしろテイクアウトという新たな武器として解き放つ秀吉の鮮やかな提案。
長秀が電卓を高速で叩き、冷ややかに弾き出す。
「……秀吉殿の提案通りにテイクアウト枠を独立運用した場合、客単価はさらに一・三倍。仕込みの空き時間を利用した一括燻製であれば、人件費も増えません。米十俵分以上の追加利益が見込めます」
「米十俵……ッ! しかも俺の燻製アイデアが、テイクアウトの棚を埋め尽くして客の家庭まで侵略するか……ッ!」
信長は作業台をドカンと叩き、豪快に吠えた。
「決まりだァッ!! 店内の【楽】の料理は、浅井農園の恵みを凝縮した『楽市楽座・極上燻製ゆで卵』に集中する! そして、俺の閃いた燻製メニューはテイクアウト専用として次々と試作し、レジ横に山積みにして売り払えィッ!!」
「「「おおおおおッ!!」」」
歓声が厨房を揺らした。
光秀は胸を撫で下ろし、床に額を擦り付けて「よかった……店内のモーニング試作が増えなくて本当に良かった……」と安堵の涙を流した。
長秀が手帳にサラサラとペンを走らせ、眼鏡を押し上げる。
「これで主役のフレンチトースト、平蜘蛛による角煮と五大野菜ソース、五種から選べる珈琲、そして楽市楽座の燻製ゆで卵が揃いました。モーニングセットの骨格はほぼ固まりましたね」
「うむ! 思った以上に順調だな!」
信長はギラギラとした瞳を滾らせ、不敵に笑いながら長机の中央をバシッと叩いた。
「予定以上にテンポよく、早くメニューが決まっておるぞ! 昨夜の計画では角煮の五大ソースを絞り込むだけで手一杯かと思うていたが、こうもサクサク決まるならば話は別だ! 予定にはなかった『楽市楽座』の燻製料理だけでなく――この勢いのまま、残る最後の一柱も決めてしまうぞッ!!」
「えっ……? の、残り……?」
床から立ち上がろうとしていた光秀の足がピキリと凍りついた。
信長は厨房のさらに奥――普段は堅牢な暗幕で覆われている、金碧輝く特殊区画を親指でビシッと指し示した。
「本能寺の感情エネルギーの要、残る最後の一柱……! 俺の滾る歓喜を注ぎ込むあの設備――『黄金茶室』を忘れてもらっては困るぞッ!!」
「ぎゃあああああッ!? 黄金茶室ッ!?」
光秀が両手で頭を抱えて叫んだ。
「朝の天下を締めくくるにふさわしい、至高の和の逸品! 俺の歓喜を極限まで滾らせる『黄金茶室』を使った料理の選定へと移るぞ! 長秀、次の議題に入れェッ!!」
「畏まりました。予定外の進捗ではありますが、勢いがあるうちに詰め切るのも兵站の理です。――では、最終議題『黄金茶室による喜の料理選抜』を開始いたします」
淡々と手帳の新たな頁を開く長秀の横で、信長が凶悪な笑みを浮かべ、スタッフたちが身構える。
光秀の安息の願いを無慈悲に粉砕し、狂乱の『清洲会議』は、黄金に輝く未知の領域へと突入しようとしていた。




