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喫茶厨房本能寺 ―織田信長、感情のままに喫茶店を運営中―  作者: 本能寺
第六章 エピローグ、本能寺の日常三度(みたび)

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第59話「哀愁のインセンティブと加圧の幕開け」

第59話「哀愁のインセンティブと加圧の幕開け」



【東暦一五七三年 八月下旬・非営業日の喫茶厨房本能寺】


清洲会議によって精鋭十品の野菜ソース候補が選定され、厨房奥の『超高耐久仕様・平蜘蛛』が獲物を待つ怪獣のように重低音を響かせる中、信長が腕まくりをして咆哮した。


「よし! では第一号の試作にかかるぞ! 光秀、平蜘蛛の前に――」


「――お待ちください、信長様」


割って入ったのは、几帳面に眼鏡の位置を直した丹羽長秀であった。


長秀は手元の革鞄から、ずっしりと厚みのある茶封筒の束を取り出し、作業台の上に整然と並べた。


「実戦試作に入る前に、まずは本日の予定通り、スタッフへの夏の賞与を支給いたしましょう。士気を極限まで高めてから作業に臨むのが、兵站の観点からも合理的です」


「おお、そうであったな!」


信長が豪快に笑う。


元来、織田信長という男は、手元に金を残すことに一切の執着がない。


稼いだ利益は厨房設備へ突っ込むか、現場で汗を流す部下たちへ惜しげもなく配る性分であった。


かつて本能寺炎上を経験してからは、光秀と長秀が必死に内部留保を確保するようになったが、それでも本能寺の賞与水準は一般的な飲食店の常識を遥かに超えていた。


まして今回は、あの清須市全域を巻き込んだ『本能寺の変』による圧倒的な知名度爆発に加え、店頭に鎮座する『にゃん丸君招き猫』の凄まじい客寄せ効果によって、売上も純利益も過去最高を記録している。スタッフ一同の期待も自然と高まっていた。


「皆の者、受け取りなさい。これが今期の賞与です」


長秀から一人ひとりに手渡された封筒の厚みに、まずは秀吉が目を輝かせた。


「うひょぉ! さすがは社長、今年は想定以上ですわ! これだけあれば寧々ちゃんとの新生活の貯金が一気に潤います!」


「すげえッス! 想像以上に分厚いッスよ!」


利家も胸を叩いて歓喜する。


スタッフたちが「やっぱり本能寺のボーナスは多い!」と大いに喜んでいた――その時だった。


「……何をその程度で浮かれておるのだ、たわけどもが」


信長が腕を組み、鼻で笑った。


「長秀、次を出せ」


「承知いたしました」


パサッ。 長秀が革鞄から、先ほどとまったく同じ厚みの二通目の封筒を取り出し、全員の手元へ滑り込ませた。


「「「えっ……!?」」」


秀吉たちの動きが止まる。


「しゃ、社長……? こ、これ、さっきのと同じ金額入ってません……!?」


「二通目だ」


信長はニヤリと口角を吊り上げた。


「『本能寺の変』までの間、必死に現場を支えてきた働きへの特別加算だ!」


フロアが騒然となった。


「に、二通だと……!? まさかの二段構え……!?」


「うおおおおッ! 倍だァァァッ!!」


利家と秀吉が抱き合って飛び跳ね、成政も「この資金があれば、秋の仕入れの雪壁を一気に越えられる……!」と震え上がっている。


スタッフたちのテンションが最高潮に達し、全員が万歳三唱を叫ぼうとした――まさにその刹那。


「まだだ」


信長の瞳の奥に、不敵な炎がギラリと灯った。


「長秀、トドメを撃ち込め」


「御意」


ドサリ。


長秀が無表情のまま鞄の底から引きずり出したのは、さらに一回り分厚い、黄金色の特製封筒――三通目であった。


「「「ぎゃあああああああッッ!?!?」」」


店内に絶叫が轟いた。


「な、ななな、なんですかこれぇぇぇぇッ!? まさかの三通目ぇぇぇッ!?」


「三段撃ちだァッ!!」


信長が机をドカンと叩いて大爆笑した。


「本能寺を立て直し、にゃん丸君の奇跡を掴み取った貴様らへの全軍突撃ボーナスだ! 稼いだ金なんぞ手元に残してどうする! 汗を流した分だけ全部持って行けィッ!!」


「「「信長社長ォォォォォッ!! 一生ついていきますッッ!!」」」


秀吉は床に額を擦り付けて号泣し、利家は雄叫びを上げ、成政は「これが……これが社長の器量……!」と合掌した。


本能寺のフロアは、狂乱と歓喜の渦に包まれた。


そして――店長・明智光秀に手渡された、三通の特厚封筒。


そこに印字された三段撃ちの合算額を目にした瞬間、光秀の思考が真っ白に染まった。


(……え? 嘘……これ、全部私の……?)


現在の所持金、わずか四百二十円。


直近の株式投資でバランスファンドを強制売却され、底なしの赤字にあえいでいた男の口座に、天文学的なキャッシュが転がり込もうとしていた。


(こ、これだけの現金があれば……借金の穴埋めどころか、手元にまとまった資金が残る……! この金を握りしめて、夜行バスに飛び乗れば……犬山どころか、関西へでも逃亡して新しい純喫茶を開業できるのでは……!? ワンチャン、この地獄からの逃避行が成功するのでは……!?)


光秀の胸の奥に、あまりにも眩い希望の光が差し込んだ。


凍りついていた胃袋の激痛がスッと引き、顔色に数か月ぶりの血色が戻っていく。


「……ふぅ。生きていて、本当によかった……」


光秀が至福の安堵に包まれ、ふわりと穏やかな笑みを浮かべた――その時だった。


『……シュルルルル……』


厨房の奥から、情けない空気の抜ける音が響いた。


黒光りする『超高耐久仕様・平蜘蛛』の中央に備え付けられた巨大な圧力メーター。


先ほどまで危険域の手前でビンビンに張り詰めていた針が、スルスルとゼロ側へ滑り落ち、目盛りを大きく割り込んでしまったのだ。


「ぬ……? なんだこれは!」


信長が眉を吊り上げ、平蜘蛛のボディをドカンと叩いた。


「おい光秀! なぜ急に出力が落ちた! 貴様の底なしの【哀しみ】はどこへ行ったのだ! これでは豚の角煮の繊維を穿ち抜くどころか、生ぬるい温めすらできんではないかッ!!」


「えっ……あ、あれ……?」


光秀がまばたきをする。


平蜘蛛の動力源は、周囲の人間――とりわけ光秀の放つ特級の【哀愁】である。


三段撃ちボーナスの巨額な数字に歓喜し、「逃げられるかもしれない」と安心したことで、光秀の胸中から哀しみのエネルギーが綺麗さっぱり揮発してしまったのだ。


「ええい、鬱陶しい! 常に深い哀愁に包まれていたのが貴様の唯一の取り柄だろうが!」


信長が苛立ちを露わにし、腕を組んで唸る。


「これでは使い物にならん! どうにかしてあのネチネチした哀しみを取り戻させろ!」


信長が光秀の胸倉を掴み上げようとした、その刹那。


すっと冷徹に前に進み出たのは、電卓をパチリと鳴らした丹羽長秀であった。


「――信長様。明智店長に対する、追加の処遇をご提案いたします」


「ああん? なんだ長秀」


長秀は感情のこもらない声で、淡々と信長へ進言した。


「明智店長は、犬山・如庵での一か月に及ぶ特訓を経て、平蜘蛛の圧力を肌感覚で調律する技術を体得いたしました。これは店舗運営において極めて希少な技能です。ゆえに――今後の平蜘蛛の稼働実績および新メニュー開発の進行に応じ、明智店長へ特別な【成果給(インセンティブ)】を別途支給されてはいかがでしょう」


「成果給だと?」


信長は首を傾げた。


なぜ哀しみが足りなくなっている男に、さらに金を上乗せするのか。


料理狂の信長には長秀の意図がさっぱり分からなかったが、眉を寄せて豪快に手を振った。


「ふん、俺は料理が最高になりさえすれば金などいくらでも出す! 構わん、平蜘蛛を回した分だけ、光秀にたんまり成果給を上乗せしてやれ!」


「信長様のご裁可をいただきました」


長秀はクルリと振り返り、光秀の目の前に一枚の特製業務契約書を突きつけた。


「……明智店長。お聞きになりましたね。貴方の平蜘蛛調律業務には、今後、莫大な成果給が加算されます。稼働時間と試作回数に完全連動する、青天井の出来高制です」


「えっ……成果給……!? やった、さらに金が――」


光秀が破顔しかけた、まさにその瞬間。


光秀の優秀な頭脳が、その契約書が意味する「真の地獄」を瞬時に弾き出した。


(……待て。成果給がつくということは……?)


(平蜘蛛の稼働時間と試作回数に比例して給与が増えるということは……?)


(私の今後の業務のほとんどが……あの爆発寸前の危険な圧力鍋の前に拘束されるということ

じゃないか……!?)


電撃のような戦慄が、光秀の背筋を駆け抜けた。


(嫌だ……! 私はあんな危険設備、視界に入れたくもないのに……! 喉から手が出るほど欲しい現金を稼ぐためには、私自身が率先して平蜘蛛にしがみつき、毎日超高圧の恐怖に怯えながら哀愁を搾り取られ続けなければならない……ッ!?)


逃げたい。


近寄りたくもない。


だが、金を稼ぐためには、その悪魔の炉と添い寝するような日々を送らねばならない。


逃げるために必要だった金が、逃げ道そのものを完全に塞いでいく。


光秀の胸の底から、先ほどまでの希望を黒々と塗りつぶす、特級の【哀愁】がゴボゴボと湧き上がってきた。


「う……ううぅぅぅっ……! なぜだ……金をもらえるというのに……私の人生は一歩もこの地獄から抜け出せないのか……ッ!!」


『ギチチチチチッ――ドォォォォォンッ!!』


凄まじい地鳴りとともに、平蜘蛛の八本の鉄脚が床を削った!


光秀から噴き出した超高密度の哀愁を吸い込み、圧力メーターの針がギュンッと跳ね上がり、レッドゾーンの手前でピタリと安定した!


「おおッ! 戻ったぞ、あの素晴らしい哀しみの圧が!」


信長が歓喜の声をあげ、長秀の肩をバンッと叩いた。


「ガハハハ! よく分からんが、さすがだな長秀!」


「当然の計算です」


長秀は眼鏡を直しながら、冷ややかに呟いた。


「よし貴様らッ! 圧は完璧に整った!」


信長が厨房の中心でギラギラとした瞳を輝かせ、吠えた。


「試作順を決める! 第一号は一益、お前の案からだ! 豚バラ肉を放り込め! 成政、調味料をセットしろッ!」


「了解! 試作第一号――『完熟香味野菜の超高圧オニオンピューレ』、投入します!」


一益が神業のような手際でチャンバーへ食材を滑り込ませ、成政がパッキンをロックする。


「光秀ッ! 最初のソースだ! お前のその極上の哀愁を読み切り、玉ねぎの細胞を破砕する最適圧へ調律しろォッ!!」


「人の人生を出汁にするなァァァァッ!!」


光秀の魂の叫びとともに、超高圧仕込みの十連試作という名の、長き宴の火蓋が切って落とされた。



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