第57話「漆黒の解像度と絞られた加圧」
第57話「漆黒の解像度と絞られた加圧」
【東暦一五七三年 八月下旬・深夜の喫茶厨房本能寺】
静まり返った客席フロアに、珈琲の芳醇で濃厚な香気が静かに立ち込めていた。
一か月に及ぶ犬山・如庵での過酷な特訓から生還した明智光秀が持ち帰った、五本の耐熱ボトル。
その封が解かれ、カウンターの上に並んだデミタスカップへ順に注ぎ分けられていく。
「……では、試飲を始めます」
光秀の手つきには、かつての迷いは微塵もなかった。
有楽斎の冷徹な指導のもと、自らの胃痛の深さを察知し、指先の感覚で豆の量を微調整して平蜘蛛の抽出圧を着地させる「哀愁調律」。
その過酷な反復によって研ぎ澄まされた所作で、漆黒の液体が満ちていく。
「ほう……! 同じ平蜘蛛、同じ超高圧抽出でありながら、これほど香りと口当たりが違うか!」
カウンターに身を乗り出した織田信長が、熾火の瞳をギラつかせて唸る。
その横には、腕を組んだ佐々成政、ストップウォッチを片手にメモ帳を構える滝川一益、そして几帳面に眼鏡を押し上げる丹羽長秀が並んでいた。
「はい。有楽斎様と共に、私の哀愁出力を読み切り、平蜘蛛の圧を調律して仕上げた五つの銘です」
光秀は掠れた声で、カップを順に指し示した。
「まずは最も軽快で、高圧によって酸味の角を丸く抜いた『漆黒の涙』。
次に、華やかな香気と苦味が黄金比で調和する『漆黒の涙』。
そして、深いローストのコクが舌に絡みつく『漆黒の涙』。
常人の胃壁を抉る濃厚な苦渋の極致『漆黒の涙』。
そして最後に……エスプレッソの概念を吹き飛ばす超高密度原液『漆黒の涙』です」
「どれ、いただこう」
信長が迷わず中央の『イタリアン』を口に含み、成政が『アメリカン』、一益が『メキシカン』、長秀が『ネオ』を味わう。
その瞬間――店内を濃密な沈黙が支配した。
「……………………ッ!」
最初に呻き声を漏らしたのは成政だった。
カップを握る手がワナワナと震え、目頭を押さえてカウンターに額を突っ伏す。
「なんという……透明度だ……! 苦味の先に、登頂した瞬間の風がある……!」
「……深煎りのコクだけを極限まで引き出し、エグ味を切り捨てている」
一益も手帳をめくりながら目を細めた。
「手作業では再現できない、機械と哀愁の完全調和……完璧です」
そして、信長は空になったデミタスカップをじっと見つめ、静かに息を吐き出した。
「……フン。あの気取り屋の長益め、やはり珈琲にかけては化け物だな」
信長は静かにカップを置いた。
「先夜完成させた俺のフレンチトースト――あの極薄キャラメリゼの甘みとスフレの口溶けに、この『イタリアン』の苦味が真っ向から噛み合う。甘みを殺さず、苦味が舌を洗い流し、次の一口を呼ぶ……。長秀の言う通りだ。珈琲の輪郭が見えたことで、このセットが目指すべき『朝餉の天下』の解像度が完全に上がったぞ!」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
長秀が手帳にペンを走らせながら、淡々と頷いた。
「珈琲の軸が定まったことで、ワンセットの全体像はほぼ掴めました」
「おう! わかっておるぞ長秀!」
信長はガハハと豪快に笑うと、作業台の上に置かれていたあの凶悪な特大スケッチブックをバシッと叩いた。
「珈琲の解像度は上がった! ならば次の仕込みでは予定通り――このスケッチブックに描き殴った平蜘蛛メニュー四十八品、片っ端から全品試作して至高の一皿を厳選するぞッ!!」
「ひぃぃぃぃっ……!」 光秀が喉の奥で悲鳴を上げた。
◇
翌日。夕刻。
テラス席を巻き込んだ怒涛の営業ラッシュがようやく終わり、シャッターが完全に下ろされた本能寺のフロア。
厨房の奥には黒光りする『超高耐久仕様・平蜘蛛』が、獲物を待つ怪獣のように静かに鎮座していた。
その脇には、山のように積み上げられた牛すじ、豚バラブロック、スペアリブ、八丁味噌、トマト缶、そして金目鯛――。
「よし貴様ら、準備は整ったなッ!」
腕まくりをした信長が、ギラギラとした熾火の瞳でスケッチブックを広げ、仁王立ちになった。
「では、四十八品連続加圧の試作を開始する! 一益、食材を平蜘蛛のチャンバーに放り込め! 成政、調味料を計量しろ! そして光秀ッ、平蜘蛛の前に正座しろォッ!!」
「ちょ……ちょっと待ってください社長ォォォッ!!」
光秀は青白い顔に脂汗をびっしりと浮かべ、膝をガクガクと震わせながら、決死の覚悟で信長と平蜘蛛の間に割って入った。
「社長! 今回作ろうとしているのは、あくまで『究極のモーニングセット』です! ならば、看板となるセットの加圧料理は、究極の一品――至高の【一種類】に絞り込むべきではありませんか!? 四十八品も試す必要などどこにもありません!」
光秀の渾身の進言。
しかし、信長は鼻で笑い飛ばし、ぎろりと光秀を睨みつけた。
「だからこそ四十八種類、全て試作して『究極』を探すのだろうがッ!!」
「……あっ」
光秀の顔からスーッと血の気が引いた。
(し、しまった……! 『究極の一品に絞る』と言ってしまったせいで、この料理狂の『なら一番美味い一品を徹底的に探し出す』という狂気の探求心に、自ら特大の薪をくべてしまった……ッ!!)
自らの失言に青ざめて戦慄する光秀を前に、信長がふと腕を組み直した。
「……いや、待て」
信長は顎を撫でながら、不敵にニヤリと口角を吊り上げる。
「だいたいな、光秀。珈琲が五種類ある時点で、メニューをたった一種類に絞るというのは、やはりどうなのだ? 客の好みも千差万別。珈琲のバリエーションがある以上、料理側にも選択肢を持たせるのが当然ではないか!」
「な、なんですとおぉぉぉッ!?」
四十八品を全品試作したうえで、選べるメニューとして複数残すと言い出した信長に、光秀が完全に白目を剥きかけた。
その時、フロアの片付けを終えて戻ってきたホール担当の羽柴秀吉と前田利家が、戦慄の表情で飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと待ってください社長ォォッ!」
秀吉が血相を変えて割って入る。
「珈琲に合わせて選択肢を持たせるのは大賛成です! けど、四十八品なんて毎日仕込みもオペレーションも絶対にパンクしますわ! 料理を何種類も平蜘蛛で一から作るとなると、厨房もホールも爆発します!」
「ああん? ならどうするってんだ秀吉!」
信長が眉を吊り上げる。秀吉は額に冷や汗を流しながらも、持ち前の機転をフル回転させて捲し立てた。
「平蜘蛛で作る肉料理のベースは、あの二回目の炎上の時に社長が瓦礫の中で召し上がって絶賛された『豚の角煮』が良いと愚考します! あれこそ平蜘蛛の超高圧の真骨頂ですわ! そして、珈琲が五種類あり、お客様の味の好みが分かれるのは確かです。――ならば、角煮に合わせる【ソース】を五種類にしましょう!」
「……ソースを五種類だと?」
信長の目がわずかに細くなる。秀吉は身を乗り出して畳み掛けた。
「はい! モーニングと言えば、トーストに卵、肉と、どうしてもタンパク質や炭水化物ばかりになりがちです! そこで、野菜を超高圧で加圧・濃縮させた特製野菜ソースを角煮に添えてみてはどうでしょうか! 彩りも良く、朝でもペロリといける軽さを出せますわ!」
秀吉の鮮やかな提案。
それにすかさず、厨房組の成政と一益が目配せを交わし、力強く前に進み出た。
「……信長社長。私も秀吉殿の意見を推すべきと考えます!」
成政が真顔で胸を叩いた。
「角煮という確固たる山頂を一つ定め、野菜ソースというアプローチで五つの峰を登り分ける! これなら食材の仕入れも豚肉と野菜に集中でき、コストという標高も大幅に引き下げられます!」
「調理スピードの観点からも、角煮の一元仕込みとソース展開が最速です」
一益も冷静にストップウォッチを構えて頷いた。
「五種類の加圧野菜ソースへ舵を切るのが、現場における最適解です」
「ぬ……ぐ……」
信長は腕を組み、唸り声を上げた。
二回目の全焼の記憶にある至高の角煮、そして五種の超高圧野菜ソースという新たな可能性。
料理人としての琴線に触れ、なおかつ現場のオペレーションの限界を全員に突きつけられては、信長も無下に突っぱねることはできなかった。
「……チッ。揃いも揃って理屈を並べおって! ええい、分かったわ! 平蜘蛛の肉は角煮とし、合わせる野菜ソースの開発へ舵を切る!」
「や、やった……!」
光秀がへなへなと胸を撫で下ろしかけた――その瞬間。
事務机の方から、電卓を叩く硬質な音が響いた。
「――では、信長様。そのソース開発、私が整理いたしましょう」
淡々と進み出てきたのは、丹羽長秀であった。
長秀は信長の前にある特大スケッチブックをサッと引き寄せ、几帳面に眼鏡を押し上げた。
「幸い、信長様のスケッチブックには、四十八品それぞれの味付けと素材の組み合わせ案が記されています。今夜いきなり闇雲に平蜘蛛を回すのではなく、この中から珈琲五種それぞれに対応できるソース候補を、明日の選別会議で絞り込みましょう」
長秀は信長をまっすぐに見据え、淡々と告げた。
「名付けて――『清洲会議』です」
「き、清洲会議……!?」
光秀が思わず呟く。
長秀は一切表情を崩さず、手帳にペンを走らせながら続けた。
「幸いにも明日は感情エネルギー設備の定期点検のため、非営業日です。元々は仕入れや清掃をする予定でしたが、明日徹底的にやりましょう。まずはスケッチブックの四十八品から、珈琲五種とフレンチトーストに調和するベース案を精査し、明日の会議で議論を尽くして比較検証用の十品へと絞り込むのです。そしてその十品を実際に加圧試作して全員で試食し、最終的な真の五品を炙り出します。四十八品を一気に五品へ絞るには落差が大きすぎますが、まず十品を選抜してから実食検証にかけるのが、比較検証の精度としても、兵站の観点からも最も合理的です」
長秀はそこで一度言葉を切り、カウンターの面々を見回した。
「さらに信長様。明日はちょうど、スタッフへの夏の賞与の支給日となっております。この清洲会議で、最終的な五品に自分のアイデアが採用された者には、ボーナスに加えて社長賞を特別支給してみてはいかがでしょう。開発への士気も大いに高まります」
「ほう! 社長賞だと!?」
信長の目がギラリと輝いた。
秀吉と利家、成政の目の色が一瞬で変わる。
「ガハハハハ、良い提案だ長秀! 元々このスケッチブックに描き殴ったのは、平蜘蛛を使った至高の料理アイデアだからな! そのアイデアの核を上手く汲み取り、角煮を引き立てる絶品ソースへと見事に転換してみせろ! 最終的な五品の中に自分のアイデアが採用された奴には、俺のポケットマネーから社長賞をドカンと上乗せしてやるぞッ!!」
「しゃ、社長賞ォォォッ!!」
秀吉たちが歓声をあげる中、信長は腕を組み、仁王立ちになって吠えた。
「我が本能寺の天下を決定づける評定というわけだな! 明日はまず全員で知恵を絞って精鋭十品を選び抜き、そこから角煮と珈琲を最高に引き立てる真の五大ソースを炙り出してやるッ!」
長秀の冷静な提案によって、今夜の闇雲な四十八連発は回避された。
明日は『清洲会議』で十品を選定し、そこから実食を経て五品を決定する――二段構えの計画へと着地した。
現場の完全崩壊は、どうにか回避された――ように見えた。
「じ……十品……」
光秀はへたり込んだまま、ガタガタと震え上がった。 四十八品に比べれば、遥かに少ない。
だが、明日の清洲会議で十品に絞られた後には、結局――十回の加圧試作が待ち受けている。
光秀は、そのたびに特級の哀愁出力を読み取り、平蜘蛛を最適圧へ調律しなければならないのだ。
社長賞など、疲労困憊の店長の耳には一銭の慰めにもならなかった。
「成政、明日の仕込み用に豚バラを切り分けろ! 一益、明日の会議に向けてスケッチブックの全素材案を分類しておけ!」
信長が厨房の中心で吠えた。
「光秀ッ! 明日は朝から平蜘蛛の前に座れ! お前の哀愁出力を読み切り、十連発の超高圧試作で真の五大ソースを叩き出すぞォッ!!」
「やっぱり地獄じゃないですかァァァッ!!」
光秀の魂の叫びが響く中、黒光りする『超高耐久仕様・平蜘蛛』がゴォォォと腹の底から唸り声を上げた。
非営業日を丸ごと飲み込む、狂気と合理の『清洲会議』。 その先に待つのは、哀愁と超高圧の十連加圧試作だった。




