第56話「如庵の煙霧と数十の悪夢」
第56話「如庵の煙霧と数十の悪夢」
【東暦一五七三年 七月下旬・犬山 有楽苑内 喫茶『如庵』】
中部鉄道の犬山遊園駅を降り、木曽川のせせらぎと竹林の緑に包まれた静寂の奥。
数寄屋造りの洗練された平屋――喫茶『如庵』の引き戸を、明智光秀は恐る恐るガラガラと開けた。
漂ってくるのは、芳醇で深みのある珈琲の香気と、張り詰めた静寂。 ……のはずだった。
「遅いですね、明智殿」
カウンターの奥で珈琲を淹れていた男が、静かに顔を上げた。
白いシャツに黒いサロンをまとい、整えられた髪の下には繊細な眼鏡。
信長の弟にして、一杯の液体に命を懸ける珈琲の狂人――織田長益、またの名を茶人・有楽斎である。
その有楽斎の背後――本来なら床の間と侘び寂びの空間が広がるべき奥の一角に、場違いにも程がある禍々しい巨体がドスンと居座っていた。
黒光りする鋳鉄のボディに、重厚な耐圧フレーム。
床の板張りに食い込む異様な八本の支持脚。
松永久秀が本能寺の潤沢な資金で開発した、悪魔の調理器具――『超高耐久仕様・平蜘蛛』であった。
「ひぃっ……! もう届いている……ッ!」
「兄上から急ぎ送りつけられてきましてね」
有楽斎は眼鏡の奥の細い目を穏やかに細め、ネルフィルターから細く湯を落としながら淡々と告げた。
「私は料理には一切の興味がありません。兄上の大雑把な料理狂ぶりにも付き合いきれませんが……この『平蜘蛛』が生み出す超高圧抽出の可能性だけは、認めざるを得ない。昨今のカフェブームのような、万人向けの平熱なドリップなど反吐が出る。超高圧によって時間そのものを圧縮し、豆が抱く一生の記憶を一瞬で引き出す……それこそが、私の求める至高の珈琲です」
有楽斎はカウンターの畳の上に、焙煎度の異なる珈琲豆を、それぞれ小鉢に分けてずらりと並べた。
「兄上からは『究極のフレンチトーストに合う一杯を作れ』と大雑把な命が下りました。人の舌も好みも千差万別。酸味を尊ぶ者もいれば、苦味の深淵に沈みたい者もいる。ゆえに私は、標準的な圧力を前提として、平蜘蛛に耐えうるブレンドの選別を完璧に完了させておきました」
「せ、選別を……もう終えておられるのですか?」
光秀がおずおずと尋ねると、有楽斎は静かに指を立ててみせた。
「ええ。浅煎りから極深煎りまで、五つの銘を定めた。 まずは最も軽快で酸味が冴え渡る――『漆黒の涙』。 次に、華やかな香りと程よい苦味が調和する――『漆黒の涙』。 続いて、野性味あふれるスモーキーなコクを誇る――『漆黒の涙』。 そして、常人の胃袋を置き去りにする濃厚な苦渋の極致――『漆黒の涙』」
「エイリアン……!? 途中から国名ですらなくなってませんか!?」
「些末なことです。そして最後に君臨する、エスプレッソの概念すら塗り替える至高の原液――かつて兄上をも唸らせた『漆黒の涙』です」
有楽斎の珈琲狂いとしての美学が詰まった、完璧なラインナップ。
(これなら……! 配合が決まっているなら、数杯淹れてチェックするだけで終わるのでは!? これなら午前中に終わらせて、そのまま犬山城下を優雅に観光して逃げ切れる……!)
光秀が安堵の息を吐きかけた、その時だった。
「さあ明智殿、平蜘蛛の抽出口に向き合うように正座しなさい。貴方の【哀愁】を注ぎ込み、この選別した豆に圧を叩き込むのです」
「は、はい……」
光秀は言われるがまま正座し、手元のスマートフォンを開いた。
画面に浮かぶのは、直近の株式投資で吹き飛んだ資産の残骸、強制売却されたバランスファンド、そして現在の預り金残高『四百二十円』。
さらに、昨夜信長から突きつけられた「戻ってきたら何十品も試作する」という理不尽な予告。
「……う……ううぅ……っ。私はただ……のんびり純喫茶をやりたかっただけなのに……どうしてこんなところで圧力鍋と向き合っているんだ……」
光秀の胸の奥から、ドス黒く濃厚な【哀しみ】が立ち上る。
その瞬間。
ギチチチチチッ――ドォォォォォンッ!!
「……おや」
有楽斎は眉一つ動かさず、静かに眼鏡の位置を正した。
超高耐久フレームをまとった新型平蜘蛛は、逃げ場のない光秀の特級哀愁を貪り食うや否や、かつての旧型とは比較にならない超圧縮を開始したのだ。
針が振り切れた圧力計。
安全弁の隙間から、青白い閃光を帯びた高温蒸気がけたたましい悲鳴を上げて噴き出す!
「想定値の三倍を指していますね。……明智殿、貴方は一体どれほどの業の深さを抱え込んでいるのですか」
「知るかァァッ! 私の人生そのものが業の塊なんですよォォッ!!」
プシュウウウウウッ――! 抽出ノズルから叩き出された珈琲液は、もはや液体というよりタールのような粘度を帯びていた。
有楽斎は平然とスプーンで掬い、一口含むと、静かに目を伏せた。
「……駄目ですね。濃すぎる。豆の細胞壁を破り、油分や雑味まで無理やり引きずり出しています。やり直しです。この異常な哀愁高圧を前提に、豆の配合比と抽出条件を再構築せねばなりません」
有楽斎は感情を荒らげることなく、無言で作業台の豆を片付け始めた。
だが、そこからが真の地獄の始まりだった。
「明智殿、もう一度です。絶望なさい」
「……うぅ、信長様が……戻ったら新メニューを何十品も試すと言っていた……。出張が長引けば長引くほど、あの男が思いつく料理が増えていく……!」
光秀が帰還後の料理地獄を恐れるたび、哀しみが膨れ上がり、平蜘蛛の圧力計がまた跳ねた。
「圧力がさらに一段階上がりましたね。……これでは、先ほど組み立て直した配合比すら通用しません」
「ひぃぃっ! だって、ここに長居すればするほど、清須に戻ったあとの地獄が雪だるま式に膨らむんですよぉぉぉッ!!」
抽出と試飲を何十回と繰り返すうち、有楽斎はネルフィルターを静かに置き、天を仰いで淡々と息を吐いた。
「……なるほど。そういうことですか」
「有楽斎様……?」
「私がどれほど緻密に豆の分量を計量したところで、抽出の瞬間に明智殿の感情出力が揺らいでしまえば、すべてが無に帰す。……他人の私が豆の分量を決めていては、永遠にこの実験は終わらないという境地に至りました」
「えっ、じゃあ終わりに――」
「いいえ」
有楽斎は冷ややかな眼差しで、光秀をじっと見据えた。
「豆の種類と基本配合は私が決めます。ですが、抽出の瞬間に必要な量は、明智殿の哀愁出力に合わせて変えねばならない。その日の平蜘蛛の圧力の機嫌を五感で察知し、最適解の豆の量を肌感覚で完全に覚えるまで、この如庵で特訓を続けます」
「肌感覚で覚えるまでぇぇぇッ!?」
光秀の絶叫が茶室に響き渡ったが、有楽斎の冷徹な茶人魂はテコでも動かなかった。
「今日中に終わらせて犬山観光して逃亡する」という光秀の浅はかな企ては完全に粉砕された。
その日から、朝から晩まで豆を挽き、平蜘蛛の唸り声を聴き、自らの絶望と向き合い続ける過酷な特訓が始まった。
「まだ多いですね。今日の明智殿は哀しみが深すぎる」
「少なすぎます。少しでも希望を抱いてはいけません。残高四百二十円を思い出しなさい」
何百杯もの抽出を繰り返すうち、光秀の指先に奇妙な感覚が宿り始めていた。
(……今、胃がズキッと痛んだ。この痛みの深さなら感情出力が上がる。ならば、豆を二粒減らす……!)
カチリ。
平蜘蛛のバルブを絞る光秀の手つきに、迷いが消えていく。
自らの絶望の波を指先で測り、豆の量で相殺して完璧な抽出圧へと着地させる――狂気の「哀愁調律」が、光秀の肉体に刻み込まれていった。
如庵の白壁は珈琲の芳香に満たされ、光秀の青黒いオーラに覆われていった。
一日が過ぎ、一週間が過ぎ、半月が過ぎ――。
気がつけば、光秀の如庵滞在は、丸々一か月におよんでいた。
◇
【東暦一五七三年 八月下旬・喫茶厨房本能寺】
一か月後。
猛暑の盛り、清須の喫茶『本能寺』の引き戸が、弱々しくガラガラと開いた。
ボロ雑巾のようにやつれ、魂の抜け殻となった光秀が、五本の耐熱ボトルを大事そうに抱えて這い入ってくる。
「……も、戻り……ました……。有楽斎様と……一か月かけて……自分の哀しみに合わせて豆の量を指先の感覚で掴み取るまで……特訓させられ……五つの『漆黒の涙』……完成、いたしました……」
レジカウンターにドサリと崩れ落ちる光秀。
「おお! 戻ったか光秀ッ!」
厨房の奥から、腕まくりをした信長が爛々と目を輝かせて大股で現れた。
その脇には、成政と一益、そして長秀が控えている。
だが――光秀の視線は、信長が小脇に抱えている「ある物体」に釘付けになった。
それは、画材屋で売っている中でも最大サイズの、信じられないほど分厚い特大スケッチブックであった。
表紙には太いマジックで『平蜘蛛・超高圧新メニュー極意録』と殴り書きされている。
「し、社長……? その……抱えていらっしゃるものは、一体……?」
「ぬ? これか!」
信長はガハハと豪快に笑うと、ステンレスの作業台の上にドカンとスケッチブックを叩きつけた。
そして、パラパラと勢いよくページをめくってみせる。
「貴様が一か月も如庵で油を売っている間にな! 俺の料理のインスピレーションが滾りに滾って止まらなくなってな! 平蜘蛛の超高圧でしか作れぬ至高のメニューを、余すところなく描き留めておいたのだッ!」
見開かれたページには、信長の力強い筆致で描かれた料理の数々が、びっしりと狂気じみた密度で書き連ねられていた。
『極圧抽出・豚角煮の八丁味噌仕立て』
『骨髄液化・超高圧スペアリブ』
『三秒軟化・牛すじと九条ネギのどて煮』
『細胞破砕・濃厚丸ごとトマトシチュー』――。
その下には、まだ見たこともない料理名が延々と続いていた。
ページをめくる。
めくる。
めくる。
どのページにも、圧力鍋の図解と信長の殴り書きのレシピがびっしりと詰まっている。
「ま、まさか……これ、全部……?」
「そうだ! ざっと数えて四十八品!」
信長は満面の笑みで親指を立てた。
「フレンチトーストに合うのは甘いものだけとは限らん! 甘味と塩味、柔らかさと歯ごたえ、すべてを極限まで突き詰めた究極の朝食を作るのだッ! 貴様が至高の珈琲を持ち帰った今、この全品を平蜘蛛で片っ端から試作し、一番美味かった一皿をモーニングに組み込んでやる!」
信長はギラギラと熾火の瞳を輝かせ、極上の凶悪な笑みを浮かべた。
「喜べ光秀! 今夜は徹夜で、四十八回連続加圧だァッ!!」
「ひ……」
声にならない悲鳴が、血の気を失った光秀の喉から漏れた。
一か月の如庵生活で研ぎ澄まされた自分の哀愁が、今夜だけで四十八回も搾取されるのだ。
「……私の哀愁が……四十八回も……」
光秀が絶望のあまり白目を剥いて卒倒しかけた――その時だった。
「――お待ちください、信長様」
静かに前に進み出たのは、眼鏡の位置を指先で直した丹羽長秀であった。
長秀は冷静沈着な眼差しで、信長の手元のスケッチブックと、光秀が抱えてきた五本の耐熱ボトルを見比べた。
「社長、まずは戻ってきた明智店長の珈琲を試飲しましょう。その方がワンセットの解像度が上がります。解像度を上げた状態で試作に臨んだ方が、より良いものができます。珈琲の味を知らぬまま闇雲に四十八品を作るより、組み合わせの方向性を定めてから取りかかる方が、食材の無駄も減らせます」
長秀はスケッチブックに視線を落とし、淡々と続けた。
「四十八品もの連続試作となれば、材料も人手も万全の準備が必要です。兵站の観点からも、本格的な試作は明日以降に行うのが合理的かと」
長秀の隙のない進言。
信長は腕を組み、顎を撫でながら「むぅ……」と唸った。
「……なるほど。珈琲の味を知らぬまま挑むより、解像度を上げてからの方が良いものが作れるか。一理あるな!」
信長はポンと手を打った。
「よし、長秀の言う通りだ! 今夜はまず、この五つの珈琲の味を見極める試飲会とする! 四十八品連続加圧の試作は、明日の夜からだッ!!」
(た、助かった……! 今夜の死刑執行だけは免れた……ッ!)
床に突っ伏したまま、光秀は心の中で長秀に向かって涙ながらに合掌した。
(せっかく平蜘蛛の圧力を肌で読めるようになったのに……! 明日からは、その感覚を四十八回も使い潰されるのか……!)
今夜を生き延びたところで、明日になれば四十八連発の超高圧地獄が待っているという現実は、何一つ変わっていなかった。




