第55話「十二秒の亡霊と神域のフレンチトースト」
第55話「十二秒の亡霊と神域のフレンチトースト」
【東暦一五七三年 七月下旬・深夜の喫茶厨房本能寺】
時計の針が深夜二時を回ろうとしていた。
営業終了後の静まり返った店内で、厨房の換気ダクトだけが低く唸りを上げている。
ステンレスの作業台には、無残にも真っ二つに割られたり、焦げ付きを削ぎ落とされたりした試作のフレンチトーストの残骸が山のように積み上がっていた。
「……違う」
信長が焼き上がった試作品の一片をフォークで口に運び、咀嚼した瞬間、吐き捨てるように言った。
「焦げ目の苦味が卵のコクに勝っておる。表面のキャラメリゼが厚すぎて、中のスフレの口溶けを邪魔しておるわ! 作り直しだッ!」
「しゃ、社長ぉぉぉ……! もう試作五十枚目ですぞ……!」
悲鳴を上げたのは、作業台の脇で青ざめた顔をしてへたり込んでいた佐々成政だった。
登山用のストック代わりに長いホイッパーを握りしめた成政の腕は、度重なる卵液の攪拌によってすでに痙攣を起こしている。
「八合目の急登どころの騒ぎじゃない……! 雪崩の直撃を受けながら山頂を目指すような無謀なアタックだ……! 指の感覚がもう麻痺し始めている……!」
「成政殿、弱音を吐いている暇はありません。次が来ます」
隣で無表情にストップウォッチを握りしめていた滝川一益が、冷や汗を流しながら警告を発した。
手先が異常に器用な一益でさえ、今夜の過酷な仕込みに息を乱していた。 目の前には、ミリ単位の狂いもなく切りそろえられた特製食パンがズラリと並んでいる。
「卵、牛乳、生クリーム、砂糖を合わせた黄金比の卵液……気泡を完全に抜いた浸透バット、準備完了です。信長様、次の一枚、漬け込み時間はどうされますか」
「卵液は表面から二ミリの深さまで染み込ませろ! 芯の水分は逃がすな! 一益、漬け込みは四十五秒ジャストだ! 一秒でも狂ったらパンの繊維が崩れるぞッ!」
「了解。カウント開始……四十三、四十四、四十五……引き上げます!」
一益が神業のような手さばきで卵液からパンを掬い上げ、すかさず成政がバターを引いた焼き板へと滑り込ませる。
「成政ッ! 弱火で表面の油膜を整えろ! オーブンの超高熱を一瞬で受け止めるための『鎧』をバターで作るのだ!」
「チッ、雪渓のクレバスをジャンプして渡るような綱渡りだ! 表面温度、六十五度到達……! バターの膜が整いました、信長様!」
成政が息絶え絶えに差し出した焼き板から、信長が大型のピール(窯用スコップ)でパンを掬い取る。 その目の前には、周囲の過酷な労働からジリジリと立ち上る【怒】のエネルギーを吸い上げ、炉内を紅蓮に染め上げて唸る『本能寺オーブン』が口を開けていた。
「おおおおおおッ!!」
信長はピールを構え、業火の渦巻く炉内へとパンを迷いなく滑り込ませた。
超高火力の熱風が信長の精悍な顔を舐め、黒いエプロンを焦がす。
「一益、タイムを計れッ!」
「八……九……十……!」
「ゴオォォォォッ!!」
オーブンが激しい火柱を噴き上げる。
その熱気を全身で浴びながら、信長の脳裏に、かつて自らの厨房が業火に包まれたあの日の記憶が鮮烈に蘇っていた。
――三年前。第一世代のオーブンが過負荷で物理破断を起こし、店が炎上したあの日。
燃え盛る厨房の瓦礫の中で、信長は秀吉から搾り取った怒りの火で十二秒間だけ焼き上げたフレンチトーストを口にした。
表面は極限の熱で香ばしく焼け、中は信じられないほど柔らかくジューシーな、まさに奇跡の味。
炎の中で思わず「是非もなし」と呟いた、あの伝説の一皿。
だが――この本能寺オーブンの超高火力を前にして、信長は手元を睨みつけ、激しい違和感に舌打ちした。
(違う……! あの日と同じ『十二秒』などという固定の数値に囚われているうちは、永遠に辿り着けんッ!)
感情エネルギーを動力とする本能寺オーブンの火力は、普通の電気オーブンやガス釜のように設定温度で制御できるものではない。
その日の気温や湿度、そして炉内に流れ込む【怒】の質や濃度によって、超火力は秒単位で激しく揺らぐ。
成政の限界労働の怒り、信長自身の料理への執念――今日の炉心を満たす感情の波が違えば、最適な焼き上がり時間もまた変わるのだ。
(時計の針を見て料理を焼いてどうする! 設備の都合や数字に合わせるのではない、俺が火に合わせるのだ……ッ!)
信長は時計の数字を追うのをやめ、炉内の変化に全神経を集中させた。
吹きつける熱風の圧、パンの表面で弾けるバターの音。砂糖が溶けていく気配を、全身の感覚で捉える。
「十一……十二秒! 規定時間到達ッ!」
一益がストップウォッチを見つめて叫んだ。 かつてなら、ここで取り出していた時間。だが――。
「まだだッ!」
「えっ!?」 成政が悲鳴を上げた。
「十二秒で引き上げないと、熱風で表面が炭化しますぞッ!?」
「黙れ! 今日のこの熱の圧なら、あと一秒……! 砂糖が完全にキャラメリゼされ、ガラス質の薄氷のような極薄の膜を形成する瞬間が今来るッ!」
皮膚を焦がす熱波がフッと一段階波打った、その刹那――信長はピールを握る手に力を込めた!
「ここだァァァッ!!」
信長が一閃の居合のようにピールを引き抜いた!
取り出されたフレンチトーストが、ステンレスの作業台の上にコトリと置かれる。
立ち上る、濃密で甘美なバターと焦がし砂糖の香り。
成政と一益が、息を呑んでその皿を見つめた。
黄金色を通り越して、琥珀色の宝石のように輝く四角い極厚パン。
表面には、まるで芸術品のように均一で、極限まで薄いキャラメリゼの膜が張られていた。
「……成政、一益。食ってみろ」
信長が促す。
すでに疲労困憊で倒れかけていた成政と一益だったが、漂ってくる尋常ならざる香りに抗えず、震える手でフォークを伸ばした。
パンの表面にフォークの先が触れた瞬間――。
パリンッ。
まるで薄氷を踏み抜いたかのような、あまりにも繊細で軽やかな音が厨房に響いた。
二人は目を見張り、そのまま切り取った一片を口へと運ぶ。
「……………………ッ!?」
成政の口から、言葉が消えた。
一益のストップウォッチが、手から滑り落ちて作業台に転がった。
表面の薄い飴状の層は、儚いほどパリパリと香ばしく砕け散る。
そしてその直後――中に閉じ込められていた熱々のスフレがトロリと舌の上で解け、濃厚なミルクと卵の甘みが、爆発するように口いっぱいへ広がった。
その日の感情エネルギーに合わせて焼き切った一枚。
表面の香ばしさから中心の柔らかさまで、完璧な食感のグラデーションが生まれていた。
「な……なんですか、これは……!」
成政が額を押さえ、その場に膝をついた。
「表面の岩壁を越えた瞬間に、口の中に雲海のような極上の柔らかさが広がる……! これほど強烈な火力を浴びせておいて、苦味も焦げ臭さも微塵もない……! 登頂だ……俺たちは、前人未到の山頂に立ってしまったんだ……!」
「……計算が、完全に覆されました」
一益もまた、胸を押さえて呆然と呟いた。
「機械的な時間管理では到達できない領域です。日ごとに変わる感情の火力を、肌感覚で見切った職人の極致……! 十二秒の亡霊を越えた、本物の神域の一皿です……!」
二人の言葉を聞きながら、信長は満足げに頷き、静かに告げた。
「フッ……そうだ。あの炎上の日に食った一皿を、俺の腕と五感で完全にねじ伏せ、超えてみせたぞ」
信長は作業台のパンくずを払い、不敵に笑う。
「あの日の味は、店を灰にして消えた『亡霊』に過ぎん。だが今、ここに完成したのは、明日から客の胃袋を支配する本能寺の『現実』だ。……よく支えたな、成政、一益」
その言葉に、疲労困憊だった成政と一益の顔に、料理人としての確かな誇りが滲んだ。
――その時。
ガラガラガラ……と、厨房の引き戸が遠慮がちに開いた。
現れたのは、胃薬の箱を抱え、目の下に濃い隈を作った店長・明智光秀であった。
「あの……信長様、成政殿、一益殿……? 夜中に物凄い地鳴りと甘い匂いがパントリーまで漂ってきて、胃が痛くて眠れなかったのですが……一体何を……」
光秀の視線が、作業台の上に鎮座する黄金のフレンチトースト、そして床に散らばる大量の試作の残骸へと注がれた。
「……え? これ……全部、試作ですか……? バターと卵と特製パンを、こんな深夜にこれほど大量に……?」
光秀の顔から血の気が引いていく。
「しょ、食材費……! 廃棄の山……! 私の財布には四百二十円しかないのに、店の原価が……原価が天文学的な数字に跳ね上がっているのでは……!?」
「ガハハハハ! 気にするな光秀!」
信長が豪快に笑い飛ばし、光秀の肩をバシッと叩いた。
「四つの感情を結集する『究極モーニング・ワンセット』の主役――至高のフレンチトーストが完成したぞ! だが、これで終わりではない。次は平蜘蛛による究極の珈琲だ!」
「ひぃっ、平蜘蛛……!?」
光秀がビクッと肩を跳ね上がらせて後ずさる。
信長はギラギラと燃え盛る熾火の瞳で、光秀の顔をじっと見据えた。
「そうだ。平蜘蛛が生み出す極限の高圧抽出を扱うには、有楽斎から珈琲の知見を学んだ貴様の繊細な味覚が欠かせんのだ。あの神域のフレンチトーストの甘みを真っ向から受け止める至高の一杯……貴様が淹れずして、誰が平蜘蛛を手懐けられるというのだ!」
「い、いやです! 勘弁してください社長ォォォッ!!」
光秀は両手を激しく振ってその場にへたり込み、必死に拒絶した。
「そもそも平蜘蛛の燃料は私の【哀愁】でしょうが! 私に美味しい珈琲を淹れさせようとする行為そのものが、私を再び絶望の底に突き落として燃料にするマッチポンプじゃないですかァァァッ!!」
しかし、床にへたり込んだまま喚いていた光秀の脳裏に、電撃のような閃きが走った。
(……待てよ? 有楽斎様……如庵……?)
目から鱗が落ちるような閃きだった。
この恐ろしい清須本店で、毎日いつ爆発するか分からない信長と平蜘蛛に怯えながら過ごす必要がどこにある?
(そうだ……! 『有楽斎様のところで腰を据えて珈琲を開発してまいります』と申し出れば……! 会社の開発費を使って、合法的にこの狂気の清須から抜け出せるじゃないか……!!)
逃亡の2号店計画は頓挫したが、これは正真正銘の「社外研修」という名の逃避行!
光秀は即座に涙を拭い、神妙な顔つきを作って立ち上がった。
「……社長。私の浅はかな言動をお許しください。社長の仰る通り、有楽斎様の教えを受けた私が腹を括るべきでした。至高の珈琲を完成させるため、私は犬山の茶室『如庵』へ赴き、有楽斎様のもとでじっくりと腰を据えて開発に専念してまいります!」
完璧な提案。
これで逃走ルートは開かれた――はずだった。
信長は腕を組み、顎を撫でながらあっさりと頷いた。
「おお、そうか! 如庵で腰を据えて開発するか! よい心掛けだ、許すぞ!」
光秀の胸に、勝利のファンファーレが鳴り響いた。
笑みがこぼれかけた――その時だった。
「珈琲に関してはな、俺よりも弟の長益(有楽斎)の方がよっぽどこだわりが強くて煩いからな」
信長は不敵にニヤリと口元を吊り上げた。
「ちょうどいい! 先の『本能寺の変』以降、店には潤沢な現金がある! 松永久秀が開発した『超高耐久仕様の平蜘蛛』を、如庵へ直ちに一台送り届けてやる! 有楽斎と一緒にみっちり缶詰になって、死ぬ気で開発してこいッ!!」
「……へ?」
光秀の表情が凍りついた。
超高耐久仕様の平蜘蛛。 それは爆発こそしないものの、過剰なエネルギーを内部圧力へと変え、旧型の数倍の出力を叩き出す悪魔の調理器具――! そんな危険極まりない炉を茶室に持ち込まれ、珈琲へのこだわりが異常に強くて煩い有楽斎と二人きりで缶詰にされる……!?
「し、死ぬ……逃げ場のない密室で、有楽斎様のネチネチしたこだわりと超高圧蒸気に挟まれて死んでしまう……ッ!」
ガタガタと震え上がる光秀へ、信長は豪快に腕組みをしながら続けた。
「それにな、光秀。貴様が如庵へ行っている間、厨房には貴様の【哀しみ】が足りんくなる。平蜘蛛が動かんとなれば、料理の仕込みが滞ってしまうからな」
「……は、はい? 滞る、とは……?」
「決まっておろうが! 貴様が至高の珈琲を完成させて戻ってくるまでの間、俺は平蜘蛛を使った新しい料理のアイデアを山ほど練り上げておく! 角煮だけではない、超高圧シチュー、牛すじ煮込み、骨まで溶かすスペアリブ……試したい料理は無限にあるぞ!」
信長はギラギラと熾火の瞳を輝かせ、極上の凶悪な笑みを浮かべた。
「貴様が戻ってきた瞬間、その研ぎ澄まされた哀愁を使って、俺が練り上げた新メニューを数十種類、片っ端から試作する! その中で一番美味かった一皿を、究極モーニングのセットに組み込んでやるからなッ!!」
「な……な、なんですとおぉぉぉッ!?」
光秀の顔面が、今度こそ蒼白を通り越して土気色へと変色した。
(珈琲の開発に時間がかかればかかるほど……あの男の脳内で危険な料理のアイデアが何十種類も雪だるま式に増えていく……!? そして戻ってきた瞬間、そのすべての試作のために、私が極限まで哀しみを搾り取られ続ける……!?)
早く終わらせても有楽斎の地獄、長引けば戻った後に信長による数十品連続加圧の地獄――!
「な、なんで私ばっかりなんですかァァァッ!?」
光秀は頭を抱えて絶叫した。
「フレンチトーストは成政殿や一益殿と一緒に作ったじゃないですか! なぜ平蜘蛛のメニュー開発は、全部私の哀しみに依存する前提なんですかッ!?」
その悲痛な叫びに対し、信長は至極当然といった顔で仁王立ちした。
「決まっておろうが! 原因は知らんが何故か貴様が抱え続けるその底なしの【哀しみ】こそが、何よりも肉をトロトロにし、料理の雑味を消し去る一番強くて極上の『スパイス』になるからだッ!!」
「人を調味料扱いするなァァァッ!! 私の悲劇は煮込み料理のダシじゃないんですぅぅぅッ!!」
光秀の魂を削るような絶叫が、静まり返った清須の夜へとこだました。
光秀の逃亡計画は、またしても極上の燃料へと変換された。
哀れな店長・明智光秀を待ち受けるのは、茶室と厨房の両方から迫る、果てしなき絶望の連鎖だった。




