第52話「帰還の猛獣と青ざめる新星」
第52話「帰還の猛獣と青ざめる新星」
【東暦一五七三年 六月下旬・喫茶厨房本能寺 早朝】
あの『本能寺の変』――清須市全域が黄金に発光した未曾有の結婚式から数週間。
開店前の薄暗い厨房フロアには、重厚な木箱が二つ、ドスンと鎮座していた。
運送業者が青ざめた顔で受領印を受け取り、逃げ帰った後、厨房の面々は固唾を呑んでその木箱を取り囲んでいた。
「……ついに、戻ってきたか」
腕組みをした織田信長が、ギラギラとした熾火の瞳を輝かせ、不敵に口元を吊り上げる。
「長秀、開けろ」
「ハッ」
丹羽長秀がバールを隙間に差し込み、テコの原理で木枠をバキバキと引き剥がした。
朝の清冽な空気を切り裂いて姿を現したのは――鈍く黒光りする二つの巨躯。
一つは、分厚い装甲に覆われた第一世代の怒り増幅式超高火力加熱炉――『本能寺オーブン』。
もう一つは、巨大な真鍮バルブとシリンダーが這い回る第二世代の哀愁圧縮式超高圧調理器――『平蜘蛛』。
「へえ……これが、社長が前に言ってた伝説の設備っスか」
本能寺オーブンと平蜘蛛が稼働していた時代を知らない前田利家が、腕を組みながらまじまじと見つめた。
「ただのオーブンと圧力鍋にしては装甲が分厚すぎるが……まあ、道具は使いようだな。どんな難所でも登攀ルートはある」
山岳遭難と氷壁登攀を愛する佐々成政も、鼻を鳴らして頷く。
「ええ。大型厨房設備が再導入されたと思えば、この殺人的な忙しさも少しは緩和されるでしょう」
長秀が眼鏡を押し上げる。
「ガハハハ! どんな大掛かりな道具だろうと、要は気合よ!」
柴田勝家が丸太のような腕を叩いた。
滝川一益はストップウォッチを握りしめ、頷く。
「これでモーニングの回転率を最適化できます」
新兵器がやってきたと、五人は期待に満ちた目で二つの巨躯を見上げていた。
「ガハハハハ! 頼もしいじゃねえかお前らッ!」
信長が豪快に笑い飛ばしながら、二つの怪物の天板をバンバンと叩いた。
「こいつらはよ、使い手の技術が足りねえとすぐバックドラフトを起こしたり爆発したりするが、腹を括って向き合えば極上の肉とシチューを仕上げてくれる最高の相棒よ! 店が二回ほど更地になっただけだ、命までは取られねえ!」
「二回更地になってる時点で十分命取られかけてるっスけどね!?」
利家が軽くツッコミを入れたものの、まだ誰もこの設備の「真の恐ろしさ」を理解してはいなかった。
午前七時。 カシャリ、と開店を告げるシャッターを開けた瞬間、店の前には――今日も地平線まで続くかのような大行列ができていた。
「はぁ……今日も今日とて、凄まじい人の波っスね……」
利家がげっそりとした顔でため息をつく。
あの六月二日、清須全域を黄金色に染め上げた『本能寺の変』は、ニュースとSNSの波に乗って日本中へ拡散されていた。
その結果、本能寺は「絶対に離婚しない奇跡の祝祭空間」として全国に知られるようになったのだ。
婚礼の予約のみならず、通常のモーニング営業にまで客が雪崩を打って押し寄せる状態が、数週間経った今でも続いていた。
「注文! 小倉トースト四十! 鉄板ナポリタン二十五! 本能寺ブレンド五十杯! 追加で特製ホットサンド十五ッ!」
「お、追いつかねえッ! 席が全然足りねえぞッ!」
「おいお前ら、ボケッと突っ立ってんじゃねえッ!」
厨房の奥で、信長の怒号が轟いた。
「成政、一益! 鉄板の火力を維持して調理に専念しろ! 勝家と利家はホールを駆け回って配膳だ! 長秀はレジを打て! 手が空き次第、すぐ調理補佐に回れ! 一秒でも皿を滞留させたら叩き出すぞッ!!」
「「「ヒィィィッ!!」」」
怒涛のモーニングラッシュ。
怒鳴り声とオーダー表が飛び交い、足を踏まれ、フライパンが唸りを上げる。
「くっそォォッ! 八合目の急登どころか垂直の氷壁登攀だぞこれは……! 人数が増えても毎日毎日客が減るどころか増え続けてやがる……!」
成政が目を血走らせてトーストを仕込み、一益が神速の手捌きでフライパンを振る。
利家と勝家が額の青筋をピキピキと立てながらホールを駆け巡り、長秀は目にも留まらぬ速さでレジを打ちながら、注文が途切れた一瞬の隙を突いて調理場へ飛び込む。
極限の過密労働の中、厨房のスタッフたちと待ちきれない客たちから、ジリジリと純度の高い【怒】の感情エネルギーが立ち上り始めた。
その瞬間。
ゴォォォォォォォッッ!!
厨房の片隅で沈黙していた『本能寺オーブン』の吸気ダクトが、飢えた獣のように周囲の【怒】を急速に吸い込み始めた。
炉内の耐火レンガが一瞬にして紅蓮に染まり、超高熱の熱風が厨房を舐め上げる!
「ぎゃあッ!? な、なんだこの急激な火力上昇は!?」
「ちょ、オーブンの口から地獄みたいな熱風が噴き出してるっスよ!?」
成政と利家が悲鳴を上げて飛び退いた。
熱風を前に怯む面々を押し退け、信長が眼光を鋭く光らせてオーブンの前に躍り出る。
「ガハハハハ! オーブンが怒りに呼応して唸りを上げ始めたぞッ! 怯むな、この火は俺が直々に手懐けてやる!」
信長は両手に大型のピール(窯用スコップ)を構え、厨房全体へ雷鳴のような号令を叩きつけた。
「おい成政、手を止めるな! すぐ焼けるよう、パンにバターを塗って焼き板に並べておけ! 一秒の隙もなく俺の前に送り込めッ! 客が外で腹を減らして、美味い料理を待ってるぞッ!!」
「チッ、雪崩の直撃を待つより無茶苦茶なビバーク命令だ! ハッ、了解いたしました!」
成政が登山仕込みの集中力でパンにバターを塗り、次々と焼き板に並べて信長の前へ差し出す。
信長はそれをピールで掬い上げ、猛然たる炎が渦巻くオーブン内部へと迷いなく滑り込ませた。
超高火力の業火を全身に浴びながら、絶妙な間合いで熱を叩き込み、一瞬で極上の焼き色をつけていく!
「な……ッ!?」
五人はその光景を目の当たりにし、完全に顔を引き攣らせてドン引きした。
(なんだこの狂った調理器具は……! 怒りを吸って火を噴く攻城兵器を、社長が完全に一人で力づくでねじ伏せて焼き上げてやがる……ッ!)
そんな灼熱の地獄と化した厨房の奥。
その頃、光秀は開店前からパントリーの物陰に逃げ込み、誰にも見つからぬようスマートフォンを握りしめて蹲っていた。
膝を抱え、レジ横に鎮座させたピカピカと純金色に輝く『にゃん丸君招き猫』を恨めしそうに横目で見ながら、取引アプリの画面を指先でスクロールしている。
そこには、強制決済された信用取引の残骸と、担保処分を免れず綺麗さっぱり解約されて消えた投資信託の画面が、冷徹に表示されていた。
『保有銘柄:なし(預り金残高:420円)』
「……う……うぅ……」
光秀の瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「……買い戻されてしまった……。またあいつらが厨房に戻ってきてしまった……!」
婚礼の黒字によって危険設備が買い戻されるのを悟ったあの日、光秀の思考は完全に追い詰められていた。
どうせあの男のことだ、また近いうちに感情エネルギー設備を限界まで暴走させ、本能寺を爆発炎上させて更地にするに決まっている。
ならば、再び店が業火に包まれて消し飛ぶまでの間、どこか遠い場所へ優雅に現実逃避の旅に出たい――!
そう信じ切った光秀は、「炎上までの逃走旅行資金」を一発逆転で作り出すため、担保に入れた『六資産バランスファンド』を背に、小型ハイテク株に全力で信用レバレッジをかけて突撃したのだ。
結果は――直後の監理銘柄指定と、寄り付かずの大暴落。
追証を払う現金など残っているはずもなく、建玉は強制決済され、担保にしていた虎の子のバランスファンドまで全て処分。
逃走資金どころか、何年もコツコツと積み立ててきた貯金まで根こそぎ消し飛び、手元に残ったのは、わずか四百二十円だけだった。
「……逃げられない……」
光秀はガタガタと震えながら、レジ横の猫を睨みつけた。
「貯金まで全部失って……旅に出るどころか、今さら本能寺を辞められるわけがない……! このブラック喫茶の店長として、死ぬまで信長の暴走に付き合わされ、骨の髄まで働いて貯め直すしかないんだ……! うっ……うわああああんッ!!」
光秀の胸の底から、底知れぬ絶望と後悔、そして逃げ場を失った未来への暗雲が渦巻く、ドス黒く濃厚な【哀】の感情エネルギーがドバドバと溢れ出した。
その時――。
ギチ……ギチギチギチッ……!
厨房の奥に置かれた『平蜘蛛』の真鍮シリンダーが、異音を立てて身震いした。
光秀の魂の叫びともいえる濃密な【哀】を、吸気バルブからズズズッと貪り食い始めたのだ。
カチッ……カチッ……プシューーーーッ!!
高圧ゲージの針が跳ね上がり、安全弁から白い高圧蒸気がけたたましい悲鳴を上げて噴き出す!
「な、なんだぁぁッ!? 今度はそっちの圧力鍋からヤバい音が鳴ってるっスよォォォッ!!」
配膳から戻ってきた利家が叫んだ。
「店長からすげえ量の青黒いオーラが出てて、平蜘蛛が勝手にフル加圧状態に入っています!」
長秀がバインダーで顔を覆いながら悲鳴を上げる。
「な、なんだと!?」
焼き上がったトーストの山を捌いた信長が、大股で駆け寄ってきた。
蹲って泣きじゃくる光秀と、過給圧限界に達して今にも大爆発しそうな平蜘蛛を見比べ、信長は目をギラギラと輝かせた。
「ガハハハハ! 素晴らしいぞ光秀! 何が原因か知らんが貴様のその底なしの哀しみのおかげで、平蜘蛛のシリンダーがかつてない超高圧に達したぞッ!」
「社長……! 私、旅に出たかっただけなんです……全財産が……私の堅実だったバランスファンドが……!」
「旅に出てる暇があるかッ!」
信長は床にへたり込む光秀の襟首を強引に引き起こすと、厨房全体へ雷鳴のような怒号を叩きつけた。
「おいお前ら、恐れおののいて足止めてんじゃねえッ! 暴れる感情エネルギーなんぞ、素人のお前らに御せるわけがねえだろうが! 制御の難しい感情エネルギー設備の使用は全部俺がやる! お前らは下拵えと仕込みに専念しろ! 客が美味い料理を待ってるぞッ!!」
その凄まじい気迫に、呆然としていたメンバーたちの背筋がビシッと伸びる。
「長秀、角煮用の豚肉のカットと下味は済んでいるな!? 平蜘蛛へ投入しろ! この哀愁高圧蒸気は、俺が直々にバルブを握って極限まで圧を叩き込み、三秒で柔らかくしてやるッ!!」
「ハッ! 豚バラ肉の仕込み完了、平蜘蛛へ投入いたします!」
「やめろォォォッ! 私の資産喪失の悲劇を豚肉の加圧に使うなァァァッ!!」
怒号と炎、高熱と超高圧の蒸気が厨房を埋め尽くす。
信長は唸りを上げる平蜘蛛の調圧バルブを、素手同然の力技でねじ込んだ。
圧力計の針が限界へ迫るなか、信長は目盛りを睨みつけながら蒸気の流入を力づくで調整し、釜の中へ超高圧を叩き込んでいく。
プシュウウウウウッ――!
圧力が一気に抜けると、信長は迷わず蓋を開けた。
そこに現れたのは、通常なら何時間も煮込んだかのような、飴色の煮汁をたっぷりまとった巨大な角煮だった。
箸を入れれば崩れそうな肉が、湯気の中でぷるぷると震えている。
「長秀、焼き上がったトーストに小倉あんを手早く盛りつけろ! 勝家、トーストと角煮をホールへ運べ! 一秒でも遅れるなッ!」
「おうよ!」
「ガハハハ! 任せろィッ!」
勝家と利家がトレイを両手に抱え、満席のフロアへと飛び出していく。
怒涛の勢いでテーブルへと滑り込んできた皿を前に、待たされていた客たちの顔がほころんだ。
「えっ……もう来たの!? 満席だったのに注文から三分も経ってないよ!?」
「すっごい……! トーストの耳までこんがり黄金色で、湯気が立ち上ってる!」
待ちわびていた客が、焼きたての小倉トーストをたまらず口へ運ぶ。
サクッ――。
店内を満たす喧騒を切り裂くような、あまりにも軽快な咀嚼音が響き渡った。
「な、なんだこれ……!? 表面は信じられないくらいサクサクで香ばしいのに、中は信じられないほど水分が残っててモッチモチだ……! いつものトーストと全然違う! 火力が強烈なのに、ちっとも焦げてない!」
「こっちの角煮も信じられないわ……! 箸を当てただけで、繊維がすうっと崩れていくのよ!? お口に入れた瞬間、脂身が甘いスープみたいに溶け出して……信じられないくらい柔らかくて美味しい!」
客席のあちこちから、驚嘆と歓喜の声が爆発するように上がり始めた。
怒りの超高熱が、トーストの表面を一瞬で香ばしく焼き上げる。
そして、光秀の底なしの絶望がもたらした超高圧が、角煮の繊維の奥まで熱と出汁を行き渡らせていた。
提供速度も、料理の次元も、常識を遥かに超越していた。
メンバーたちは、あまりの地獄絵図に青ざめながらも、自ら二大設備を手懐けて極上の料理を叩き出していく信長の圧倒的な気迫に突き動かされ、必死に手を動かした。
(ダメだこの店……! いつか絶対に爆発する……ッ! だけど……自ら火と圧の前に立って美味い料理を繰り出すあの気迫だけは、本物だ……!)
フロア中央では、モーニングの賑わいと客たちの笑顔によって『黄金茶室』が琥珀色に優しく輝き、換気ダクトからは『楽市楽座』が香ばしいトーストと珈琲の香りを街へと拡散していた。
【喜】の黄金茶室。
【怒】の本能寺オーブン。
【哀】の平蜘蛛。
【楽】の楽市楽座。
喜怒哀楽の設備が揃った喫茶厨房本能寺。
いつ大爆発してもおかしくない、極限の炎上チキンレースが、再び幕を開けたのであった。




