第51話「明智光秀三日天下」
第51話「明智光秀三日天下」
【東暦一五七三年 六月三日・喫茶厨房本能寺 早朝】
清須全域を黄金色に染め上げた『本能寺の変』から次の日。
店長の明智光秀は、事務室のデスクで頭を抱え、鉛のように重いため息を吐いていた。
「……買い直す、だと……」
デスクの上には、昨日の婚礼特需と犬山の引き出物効果で膨れ上がった預金残高を記した報告書が置かれていた。
そして先ほど、信長と長秀が意気揚々と業者へ電話をかけていた声が耳から離れない。
『本能寺オーブン』と『平蜘蛛』の発注である。
(あの男が狂気の感情エネルギー設備を買い戻したら、今度こそ店どころか清須市ごと爆発炎上して更地になるに決まっている……ッ!)
胃をキリキリと痛めながら光秀が絶望の底に沈んでいた、その時だった。
厨房から長秀が戻ってきて、眼鏡をクイと押し上げた。
「店長、メーカー側から連絡がありました。特殊規格の耐熱耐圧資材の調達および久秀殿の強化フレーム組み込みのため、設備の搬入は早くとも『数週間後』になるとのことです」
「……え? 数週間後……?」
光秀の目がカッと見開かれた。
即日納品ではない。まだ猶予がある。
数週間――それは、この呪われた狂気の厨房から脱出するための、天が与えたもうた猶予期間!
(エックスデーは数週間後……! 設備が届いて爆発炎上する前に、私はすべてを放り出して旅に出る! 遠い南の島へでも高飛びして、優雅に現実逃避の逃避行を決め込んでやる……!!)
しかし、旅に出て潜伏生活を送るには、先立つ逃走資金が絶対に必要だった。
いくら信長が経営に興味がなく余剰金の多くを賞与に回すとはいえ、どれほどの期間の逃避行になるのかわからないとなれば、今の資金では心許ない。
(短期間で資金を大きく増やす手段……これしかない!)
光秀は元々、堅実な資産形成のためにネット証券の口座を開設し、毎月の給与からコツコツと『六資産バランスファンド』の投資信託へ積立を続けていた。
信長が店を吹き飛ばしたとしても、このバランスファンドさえあれば路頭に迷うことはない――そう自分を慰めてきた虎の子の資金である。
だが、長期運用を前提とした積立投資では、数週間後の逃亡資金には到底間に合わない。
(背に腹は代えられない……この積立を担保に差し入れ、信用取引枠を使う!)
幸い、光秀が利用している証券会社では、対象の投資信託も代用有価証券として保証金に組み入れられる。
光秀が目をつけたのは、次世代半導体の微細加工技術で特許を取得したとの報道が買い材料視されていた新興ハイテク企業の小型株『クモセミコンダクター』。
恐る恐る、まずは小さな信用買いの建玉を建ててみた。
◇
『本能寺の変』から三日後――六月五日の朝。
本能寺の店頭には、開店前からとんでもない大行列が形成されていた。
テレビやSNSで「奇跡を起こした結婚式」として取り上げられた余波は凄まじく、全国から押し寄せた観光客やカップルたちが、口々に同じ要望を店員たちへ投げかけていたのだ。
「あの、テレビで見た『黄金の招き猫』はどこですか!?」
「拝むと絶対に離婚しないって噂の、金色の猫ちゃんを触らせてください!」
ホールを担当していた利家が、頭を掻きながら事務室へ飛び込んできた。
「店長! 表のお客さんたち、みんな店長が大事そうに抱えてる『あの金色の猫』を拝みたがってるっスよ! ちょっとフロアに出してもらえねえっスか?」
「えっ……こ、これですか?」
光秀は膝の上で抱きしめていた、金色に染まった『にゃん丸君招き猫』を見下ろした。
犬山の老婆から押し付けられ、結婚式の超高圧エネルギーを浴びて以来、陶器そのものが、芯まで金色に染まった特製の置物だ。肌身離さず持っていると、不思議と胃の痛みが和らぐような気がして愛着が湧いていたのだが――。
「チッ、客が殺到して業務が滞るのも困るな……。分かりました、レジ横に置いておきます。触るなり拝むなり、ご自由にしていただいて結構です!」
光秀はそう言って、にゃん丸君招き猫を自らの手から離し、店舗レジカウンターの一等地にドスンと据え置いた。
たちまちレジ前には、招き猫をひと目拝もうとする客たちの長蛇の列ができた。
「うわぁ、本当にピカピカの金色だ!」「ご利益ありそう!」
手を合わせる新婚夫婦、嬉しそうに猫の頭を撫でる若いカップル、猫の背中をさすって満面の笑みを浮かべる観光客たち。
招き猫に触れた客たちはその温かな手触りに歓声を上げ、笑顔で手を合わせた。その素直な【喜び】が、レジ前に満ちていく。
その時――。
カチッ……キィィィィィン……!
客席の奥に設置された『黄金茶室』の光学制御系が、客たちの放つ純粋な【喜び】を敏感に感知して微かな駆動音を立てた。
かつて久秀が組み込んだ『黄金発光チューニング』の回路が作動し、照射範囲をレジ横のにゃん丸君へとピンポイントで絞り込む!
ピカァァァッ!!
「きゃああっ!? な、なにこれ!?」
「す、すげえ! 猫が……さらに光り輝いてるぞッ!!」
客たちの喜びが高まるたび 、にゃん丸君招き猫は黄金茶室からの集光を浴び、眩い黄金の閃光を反射し始めた。
にゃん丸君は神仏の御神体のように後光を放ち、反射光で周囲の客たちの顔まで温かな琥珀色に染め上げていく。
「すごい! 本当に奇跡の招き猫だ!」「絶対に幸せになれる!」と、レジ前は割れんばかりの大歓声と拍手に包まれ、賽銭代わりに小銭や千円札が次々とレジに吸い込まれていく。
その様子を横目に、光秀は胸の内でフッと不敵な笑みを浮かべた。
(ふん……招き猫などに頼らずとも、今の私には勝ち戦の波が来ている!)
そのころ、光秀の投資口座では驚くべき事態が起きていた。
六月三日、特許取得の報道を材料に買った株は、引け間際に大手電機メーカーとの大型共同開発の噂が舞い込み、ストップ高比例配分となった。
翌六月四日も寄り付きから買い気配が殺到し、二日連続のストップ高。
そして本日、六月五日――「海外メガテック企業からの巨額出資観測」が報道され、またしても寄り付かずのストップ高を記録していた。
三日連続のストップ高。上昇を続ける株価を見つめるうち、光秀の中で眠っていた理性のブレーキが完全に焼き切れた。
「す、すごい……! 三日連続ストップ高……! 私には商才ならぬ相場の才能があったのか……!?」
光秀の青ざめていた頬に、久しく見られなかった歓喜の紅潮が戻っていた。
順調に跳ね上がる含み益。これなら数週間後の納品日までに莫大な逃走資金ができあがり、信長が店を吹き飛ばすのを遠くの温泉宿のテレビで優雅に眺めることだって夢ではない。
(最初はお試しのつもりだったが……この上昇気流は本物だ! 確実に大台へ乗せるには、この程度のポジションで満足していては生ぬるい!)
光秀の瞳に、ギラリと危うい光が宿る。
(――信用全力だ。担保に入れた六資産バランスファンドを背に、保証金枠の限界まで買い増してやる……!!)
カチッ、と購入確定のボタンを押した。
手元の担保余力を極限まで使い、信用取引で『クモセミコンダクター』のポジションをパンパンに膨らませた。
買い増しに使える余力は、もう一円も残っていない。
にゃん丸君をレジ横に置いたまま迎えた、この日の夕刻。光秀は勝利を確信していた。
「勝った……! これで私の完全なる勝利、完璧な逃避行が確定した……!」
光秀は高笑いし、薔薇色の未来を夢見て眠りについた
信用買いの成功体験に酔い、栄光の頂点に立った夜――まさに、明智光秀の「三日天下」であった。
◇
翌日、六月六日。
「注文! モーニング百五十! 本能寺ブレンド二百杯!」
「勝家さん、トーストの焼きが追いついてねえっス!」
「ガハハハ! 気合だ気合ィッ!!」
怒号と熱気が飛び交う、いつも通りの超多忙なモーニングラッシュ。
長秀の的確な指示と新たに加わった面々の馬鹿力によって戦場のような厨房が回る中、光秀はレジの合間を縫って、震える手でスマートフォンの画面をタップした。
(フフフ……今日も四日連続ストップ高で、含み益が何千万円にも膨らんでいるはず……どれどれ……)
取引アプリが開き、資産状況の画面が更新された。
ピコーン。
画面上段のニュース速報ティッカーには、目を疑うような文字列が流れていた。
『クモセミコンダクター、特許出願および大手提携発表に重大な虚偽の疑い。内部告発を受け、東証が監理銘柄(審査中)に指定。失望売りが殺到し、ストップ安水準で売り気配』
株価は値が付かないまま、ストップ安水準の売り気配に張り付いていた
信用買いの建玉は巨額の含み損を抱え、担保に差し入れたファンドの評価額だけでは保証金維持率を支えきれない。
画面中央には、血のような警告が点滅していた。
『追証警告:本日十五時までに追加保証金を入金してください』
「…………………………は?」
光秀の思考が、完全に停止した。
もし追証を払えず、信用建玉が強制決済されれば――。
それでも不足金が残った場合、担保に差し入れた『六資産バランスファンド』まで処分されかねない。
あの男の厨房から逃げるために、給与からコツコツと削って守り抜いてきた、唯一の安全網。
逃避行の資金どころか、これまで貯めてきた虎の子の貯金まで根こそぎ失い、文字通りゼロへ転落するかもしれないのだ。
「嘘……だろ……? 昨日まで三日連続ストップ高だったのに……にゃん丸君をレジ横に置いてから……大暴落……!? 私が……私が地道に積み立ててきた貯金まで、全部吹き飛んでゼロになるのか……!? 」
レジ横を振り返ると、招き猫が呑気に右手を挙げ、集光を浴びた金色の陶器が、周囲の客たちの顔まで琥珀色に染め上げていた。
客たちは満面の笑顔で小銭を落とし、店のために富を掻き集め続けている。
光秀を救うためではなく、ただひたすらに『喫茶厨房本能寺の商売繁盛』のためだけに。
「う……うわ……あああああああああッッ!!!!」
光秀の喉から絶望の絶叫がほとばしった。
全能感に満ちた逃亡計画は、文字通り「三日天下」の夢と消え去ったのだ。
そして――数週間後。
追証問題を抱えたまま、逃げ場を完全に失った光秀のもとへ、運命の「二大巨躯」がトラックに乗って到着することとなる――。




