第49話「敵は本能寺にあり――黄金の狂宴と鈴鳴る門出」
第49話「敵は本能寺にあり――黄金の狂宴と鈴鳴る門出」
【東暦一五七三年 六月二日 午後一時・喫茶厨房本能寺】
遮光カーテンで昼の光を完全に遮った店内には、十三のLED和紙行灯が幻想的な橙色の灯火を投げかけていた。
足元を静かに這う低温アロマミストが木曽川の川霧を思わせ、客席を心地よいヒノキと桜の香りで満たしている。
「皆様! 続きまして、本日のメインイベントの一つでございます!」
司会を務める長秀の朗々とした声が店内に響き渡る。
「佐々成政殿考案、パティスリー本能寺特製――『さらさら峠ウェディングケーキ』の登場です!」
会場が暗転し、スポットライトが一台の巨大なワゴンを照らし出した。
そこにあったのは、標高二千七百メートル級の北アルプスの峻厳なる雪稜を、極限まで再現した純白の三段重ねのケーキであった。飴細工で切り立った氷壁がそびえ、犬山産の白桃ジュレと最高級生クリームが眩い雪渓を描き出している。
「おおおおッ! 見事な山容だ!」
腕組みをした成政が感極まったように吼えた。
「成政、ピッケルは持ってきてねえだろうな!?」
信長の鋭い怒声が厨房から飛ぶと、成政は胸を張って応じた。
「言われるまでもねえ! 本日の登攀具はこれだッ!」
成政が恭しく差し出したのは、鍛冶職人が誂えた豪華絢爛な特注の『金箔ナイフ』であった。
「新郎新婦、金箔ナイフをお構えください! これより夫婦二人三脚による、さらさら峠登頂ルートへのアタックです!」
長秀の合図とともに、秀吉と寧々が高砂の席から手を取り合って金箔ナイフを握り、雪山ケーキの稜線へと刃を入れる。
シャクッ、と飴細工とスポンジが心地よく割れ、会場から割れんばかりの拍手が湧き起こった。
「続いてファーストバイトです! 羽柴殿、山岳遭難防止のためにも、命の糧を寧々殿から一口で受け止めてください!」
「い、命の糧って……ケーキやろ!?」
秀吉が目を白黒させる前で、寧々は満面の笑みを浮かべ、特大のスプーンで山盛りのケーキをすくい上げた。
「秀吉くん、あーん!」
「むぐぅッ!?」
顔面半分が埋まるほどのケーキを口いっぱいに頬張った秀吉。その滑稽かつ幸せそうな姿に、参列者たちから、ドッと温かな笑いが巻き起こる。
その瞬間――。
キィィィン……と澄み切った音が響き、会場中央に設えられた『黄金茶室』の組立式金箔パネルが、ふわりと温かな琥珀色の光を放ち、ケーキカットの二人を神々しく照らし出した。
(……素晴らしい)
フロアの隅で腕を組んでいた光秀は、思わず深く頷き、感無量の笑みを浮かべていた。
(本能寺オーブンや平蜘蛛のような暴走ばかりの感情エネルギー設備を見てきたが……この黄金茶室だけは本当に使える……!)
客が真実の喜びを感じた時だけ、美しく空間を黄金色に染め上げる。火も噴かなければ爆発もしない。
(なんて優雅で、平和で、安全な設備なんだ……! これぞ私が求めていた真の感情エネルギー技術の姿だ!)
光秀が至福の安堵に浸っていた、その時だった。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました!」
長秀の声のトーンが、一段と引き締まったものに変わった。
「これより、新郎・羽柴秀吉殿のたっての希望により、高校の後輩による特別な余興をお届けいたします。……売れない路上ミュージシャン、仙石秀久殿の入場です!」
(よし、仙石君のステージだな)
光秀は手元の進行表を見やり、満足げに微笑んだ。
(無名の路上ミュージシャンなら、演奏機材の設営費と寸志程度で極めて安価に収まる。音響トラブルのリスクも低く、実に無難で安全な人選だ)
光秀がそう確信した、次の瞬間であった。
ジャラァァァンッ!!
控え室の扉が勢いよく開かれ、店内に耳をつんざくような金属音が鳴り響いた。
「へ……?」
光秀の思考が、完全に停止した。
スポットライトを浴びて現れた青年――仙石秀久は、ギターなど持っていなかった。
その代わりに彼の全身を覆っていたのは、肩から裾に至るまで、大小無数の『鈴』がびっしりと縫い付けられた、異様な銀色の陣羽織であった。
しかも彼はガチガチに震えており、膝は笑い、両手で一本の黄金色のハンドベルを握りしめたまま、蚊の鳴くような震え声で口をもごもごさせていた。
「……ッ、……ッ(秀吉先輩……おめでとう……ございます……)」
視線が泳ぎ、今にも泡を吹いて倒れそうなほどに緊張しきっている。まったく声が客席に届いていない。
「な……な……」
光秀の顎が外れんばかりに落ちた。
「な、なんだあの珍妙極まりない姿はァァァッ!? 鈴を鳴らすだけの余興と聞いていたのに、本当に全身鈴だらけじゃないですか! しかも極度のアガリ症で声すら出てないですよ秀吉ィィィッ!?」
絶叫する光秀をよそに、高砂の秀吉がガタッと立ち上がった。
「光秀殿! 今や、頼んでおいた演出の出番ですわッ!」
「えっ!? 演出ってなんですか!?」
「あいつ、路上でも客に見られると極度のアガリ症で声が出んようになるんです! せやから――あいつをがっつり強烈に照らして客席との間に光のカーテンを作って、さらに床の低温ミストを濃密にしてやってください! 人に見られとらん状況さえ作れば、あいつは絶対に歌えるんですわッ!」
「怪我の功名で舞台装置をフル稼働させる気かァァッ!?」
光秀が悲鳴を上げつつもコントローラーを操作すると、ステージを取り囲むように特注のLED照明が照射され、客席との間に白く眩い光の幕が立ち上がった。同時に、低温ミスト発生器から純白の霧がドッと噴き出し、ステージの足元から腰の高さまでを濃密な雲海で覆い尽くす。
「うわっ……!?」
正面に展開した光の幕で客席の顔が遮られ、足元は深い霧に包まれた。
人々の視線から遮断された空間の中で、仙石秀久はハッと息を呑み、胸の前でハンドベルを握り直した。
(……前が、見えない……! 人の目が……見えない……!)
緊張で強張っていた仙石の肩から、すっと力が抜けていく。
仙石は手元のハンドベルを、小さく一振りした。
チリン――……。
澄んだ、胸に染み渡るような鈴の音が静寂の店内に響いた。
秀吉が満面の笑みで叫ぶ。
「仙石ッ! 『緊張で足が竦みそうやったけど、秀吉先輩と寧々さんの門出のために、命がけで歌いに来ました』って言っとるんやな! 高校の時からあいつの鈴を聞いとる俺には全部分かるんや! 伝わっとるぞ、思いっきりやってまえッ!!」
「ええっ!? 長年の付き合いってレベルの解読力じゃないですよ羽柴殿!?」
光秀が仰天する中、寧々もまた温かく微笑み、両手を叩いた。
「仙石くん、頑張って!」
参列者たちからも「頑張れー!」「聴かせてくれ!」と温かな拍手が湧き起こる。
仙石が意を決して深く息を吸い込み、ハンドベルを掲げて全身を激しく躍動させた!
シャンッ! チリンッ! ジャラララララッ!!
『――秀吉先輩ィィィッ!! 寧々さぁぁんッ!!』
鈴の音の炸裂とともに、先ほどまでの蚊の鳴くような声が嘘のように、仙石の魂の叫びが、会場全体を震わせるほどの力強い歌声となって響き渡った!
人前では話すことすらできなかった男が、歌に入った瞬間、別人のように力強く豊かな歌声を解き放つ。
全身の鈴を打ち鳴らしてリズムを刻み、ハンドベルで旋律を導きながら、己の喉ひとつで極上の祝祭の歌を紡ぎ出していく。
「おおおおッ! すげえぞ仙石!」
勝家や利家がテーブルを叩いて歓声を上げる。参列者たちも度肝を抜かれ、手拍子を打ちながら立ち上がった。
会場のボルテージが一気に跳ね上がったところで、仙石がハンドベルを大きく振ってステップを切り替えた。
「この日のために……! 秀吉先輩と寧々さんのために作ってきた曲がありますッ!!」
仙石の叫びに、フロア中から「おおっ!」「新曲か!?」と歓声が飛ぶ。
「言葉はいりません! 同じリズム、同じメロディを繰り返すだけです! 皆さん、一緒に歌って踊ってくださいッ! 聴いてください――『鈴鳴りサンバ』ッッ!!」
ジャンッ! シャララランッ! チリチリンッ!
仙石が腰を振り、全身の鈴を陽気に揺らしながら、キャッチー極まりない情熱的なサンバのリズムを刻み始めた!
『♪チリンと鳴らせば 福が来る~! シャンと鳴らせば 夢が咲く~! シャン! シャン! 鈴鳴りサンバ~ッ!!』
一度聴いただけで脳裏に焼き付く親しみやすいメロディと、どこまでも明るいコール&レスポンス。
「ガハハハハ! なんだこのバカみてえに陽気な歌はッ! 最高じゃねえか!」
真っ先に立ち上がった信長が、フライパンを叩きながらステップを踏み始める。
勝家と成政が肩を組み、利家と一益が手拍子で煽り立てる。秀吉と寧々も高砂を飛び出し、参列者たちの輪へと飛び込んだ。
「シャン! シャン! 鈴鳴りサンバッ!」
同じフレーズを大合唱しながら、会場全体が巨大なサンバのパレードと化していく。
そして――。
会場の熱気が最高潮に達したその時、フロア中央の『黄金茶室』が、共鳴するようにカチリと音を立てた。
キィィィィィィン……ッ!
黄金茶室の金箔パネルから放たれた眩い琥珀色の光が、サンバの中心で踊り狂う仙石秀久を包み込んだ。
光を浴びた鈴が一斉に輝きを弾き、銀色の陣羽織までもが黄金色に染まって見え、仙石が一歩踏み出すたびに、まるで無数の小さな星屑が弾けるかのように目もくらむ光の粒が会場中へ飛び散り始めたのだ!
「ヒィィィィッ!? ま、眩しいィィィッ!!」
光秀が腕で目を覆いながら絶叫した。
金色の光を散らしながら全身の鈴を鳴らし、圧倒的な歌声を響かせる仙石。新郎の秀吉は「仙石ィィッ! ええぞォォッ!」と涙を流して拳を突き上げている。
光秀はその光景を呆然と見つめ、膝から崩れ落ちた。
(秀吉……嘘だろ秀吉……。お前だけは……お前だけはこちら側の常識人だと思っていたのに……ッ! 連れてきた後輩が一番とんでもない奴じゃねえかァァァッ!!)
押し寄せる狂騒の波に揉まれながら、光秀の口から虚脱した声がポツリと漏れ出た。
「……敵(狂人)は、本能寺にあり……」
光秀の乾いた呟きも虚しく、会場は未曾有の熱狂に包まれていた。
参列者たちの割れんばかりの手拍子、秀吉と寧々の最高の笑顔、そして会場を満たす桁外れの【祝福】。
仙石の放った『鈴鳴りサンバ』が生み出した特大の【楽】を呼び水として、会場中に満ちた純粋な【喜】の感情エネルギーが、黄金茶室へと次々に押し寄せていた。
これほど濃密な【喜】が、一つの空間に集中したことなど――黄金茶室は、これまで一度も経験していなかった。
金箔パネルの表面に、バチバチと激しい黄金のスパークが走り始める。
だが、歌い踊る仙石と熱狂の渦の中で、その異変に気づく者は、まだ誰一人としていなかった――。




