第48話「厳粛なる誓いと夢幻の宴」
第48話「厳粛なる誓いと夢幻の宴」
【東暦一五七三年 六月二日 午前十時・熱田神宮】
初夏の清々しい青空の下、熱田神宮の境内は凛とした静寂に包まれていた。
楠の巨木が落とす深い木漏れ日を縫うように、朱傘を差しかけられた花嫁行列が玉砂利を静かに踏みしめて進む。
白無垢に身を包んだ寧々の美しさは、新緑の杜のなかで息を呑むほどに際立っていた。その隣を歩く紋付羽織袴の秀吉は、緊張のあまり手足が同時に出そうになりながらも、一歩一歩を誇らしげに踏みしめている。
本殿の神前にて、厳かに執り行われる神前挙式。
斎主の祝詞が杜に朗々と響き、三献の儀の杯が交わされる。神聖な鈴の音がチリンと鳴り響いた瞬間、秀吉と寧々は正式に夫婦の契りを結んだ。
「……よかったなぁ、秀吉」
参列席の前列、ピシッと黒紋付を着こなした信長が、腕組みをしながら珍しく穏やかな眼差しで二人を見つめていた。その横では、勝家がすでに大粒の涙をボロボロと羽織の袖で拭い、成政が「まだ泣く標高じゃねえぞ勝家殿」と小声で窘めている。
そして――。
(よし……! ここまでは完全に、一分の隙もなく無事故無違反……!)
列席する光秀は、胸の前で握りしめた拳にぐっと力を込めていた。
当初、信長は「神前式から何から全部本能寺の店内でやるぞッ!」と息巻いていたのだ。だが、光秀が「伝統ある神前式を喫茶店で執り行うなど神仏への不敬! 格式ある熱田神宮で厳粛に誓いを立ててこそ、その後の祝宴が引き立ちます!」
と必死の説教を重ね、式と披露宴の舞台を完全に分離させたのである。
その判断は大正解だった。熱田の神前には怪しげな感情エネルギー設備など持ち込めるはずもなく、厳かで神聖な、絵に描いたような理想の結婚式が完遂されたのだ。
「これより、披露宴会場となる清須の『喫茶厨房本能寺』へ移動いたします。参列者の皆様、神宮南門前に待機中の大型送迎バスへご案内いたします」
長秀の完璧な誘導アナウンスが流れ、参列者たちが和やかな笑顔で移動を始める。
「羽柴殿、寧々殿。本当におめでとうございます」
光秀が二人に歩み寄り、心からの祝意を伝えると、秀吉は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。
「明智殿、ありがとうございます……! ほんまに、夢みたいですわ……!」
「ふふ、秀吉くん、烏帽子がちょっと曲がっとるよ。明智さん、本当にありがとうございます」
幸せそうに寄り添う二人を見届け、光秀は深く胸を撫で下ろした。
(式は完璧に終わった。あとは清須へ戻り、私が万全に設計した安全装置だらけの披露宴を無事に通過させるだけだ……!)
【同日 正午・喫茶厨房本能寺】
熱田神宮からバスに揺られること三十分。
清須の本能寺へと到着した参列者たちを待ち受けていたのは、昼の光が明るく差し込む、清々しく整えられた披露宴会場であった。
店頭には、美しくラッピングされた特注の引き出物――『犬山産超高級桃』『金粉きび団子』『イイトモファーム特注ハードバウム』、そして『六十二回分ドリップ珈琲』が豪華絢爛にディスプレイされ、店の前を行き交う人々も足を止めて見入っている。
店内へ足を踏み入れると、中央には普段のカフェ営業で使うパーテーションに金箔を丹念に再コーティングした、組立式の『黄金茶室』が雅やかなひな壇ブースとして設えられていた。
「皆様、本日はようこそお越しくださいました! 新郎新婦のご入場です!」
司会進行を務める長秀の落ち着いた声が響き、拍手の中、高砂の席へと着く秀吉と寧々。
会場が温かな祝福の空気に包まれる中、長秀がスッと視線を厨房の前へと向けた。
「それでは開宴に先立ちまして、新郎の雇い主であり、本日の料理を一手に手掛けております『喫茶厨房本能寺』社長・織田信長より、乾杯のご挨拶を申し上げます」
割れんばかりの拍手の中、白いコックコート姿の信長が悠然と前に進み出た。手には乾杯用の杯ではなく、湯気を立てる小さな白磁の小鉢が載った四つ仕切りの祝い膳が握られている。
信長は高砂の秀吉と寧々をじっと見据え、口を開いた。
「……おう。俺は昔から、ペラペラと気の利いた祝辞を垂れ流せるような口の巧い男じゃねえ。料理人は、料理で語るのが筋ってもんだ」
信長は手に持った祝い膳を、秀吉と寧々の目の前へと静かに置いた。
そこには、一口大に美しく盛り付けられた四つの料理が並んでいた。
「……社長、これは……?」
目を丸くする秀吉に、信長はフッと口元を緩めた。
「忘れもしねえ。平蜘蛛が爆発して店が二度目の全焼を喫し、更地になったあの時だ。資金も設備もなく、中古のフライパンと並のコンロしかねえドン底から、この本能寺を再建するために手作業だけで泥臭く積み上げてきた皿たちだ」
信長は料理を一つひとつ指差した。
「更地から立ち上がった日、寧々さんに最初に美味いと言わせた『特製・豚の角煮』。
顔合わせで一豊と千代の緊張を解きほぐした『鯛と旬野菜の薄葛引き』。
高山右近の美学に寄り添った『地鶏の香草塩焼きと季節の温野菜』。
そして――家康とその親父に、手間の温もりを叩き込んだ『手仕込みの鯛の塩焼きと一汁三菜』だ」
「あっ……」
秀吉の喉が、くっと詰まった。
走馬灯のように、あの苦しかった再建の日々が脳裏を駆け巡る。設備がすべて吹き飛び、借金だけが残り、明日の見えない暗闇の中で――自分はただ、信長の作る料理を信じて、客を喜ばせるために必死で頭を下げ、走り回っていた。
「機械仕掛けの感情エネルギー技術なんぞなくても、料理は人の心を動かせる。それを俺の横で、一番苦しい時期に泥まみれになって証明し支え続けてくれたのが――秀吉、お前だ」
信長はグッと拳を握り、秀吉をまっすぐに見据えた。
「よくここまで本能寺を支え、走り抜いてきた。そして、最高の嫁を射止めたな。……秀吉、寧々、心から祝ってやる。乾杯だッ!!」
信長が豪快に杯を掲げると、参列者たちから「おめでとうーーッ!!」「乾杯ッ!!」と地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
秀吉の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「しゃ、社長ぉ……っ! ありがとうございます……ありがとうございますですわ……っ!!」
「ふふ、秀吉くん、泣いたらあかんよ……っ」
寧々もまた目元を濡らしながら、信長が魂を込めて仕込んだ一口大の角煮を口に運び、溢れるような笑みを咲かせた。
客席の隅で、腕を組んで見守っていた光秀も、思わず眼鏡の奥の目頭を熱くしていた。
(社長……たまには良いことを言うじゃないですか……。そうです、あの地獄のような再建期を支えてくれたのは、紛れもなく羽柴殿だ)
会場は、純度百パーセントの感動と温かな祝福に満ちていた。
すると信長は、高砂の二人を見据えながら、ふっと遠い目を向けた。
「……数年前、うちのジジイが金婚式を迎えた時に、酒を煽りながらボソッと言ってたことがあってな。『婚礼から五十年、夢幻の如し』……だってよ」
信長は口元に不敵な笑みを刻み、秀吉と寧々へ力強く告げた。
「秀吉、寧々。今日からその『夢幻』の始まりだ。振り返ればあっという間に過ぎ去っちまうほどの道のりだが――だからこそ、しっかりと二人の足で地を踏みしめて歩いていくんだぞ」
「……っ、はい! はい、社長!」
秀吉と寧々が揃って深く頭を下げた瞬間、信長はカッと目を見開き、ヘラを天高く掲げた!
「よーしッ! 湿っぽい話はここまでだ! 二人の門出を飾る、極上の夢幻の宴を始めるぞッ! 光秀、例の仕掛けを発動しろォォッ!!」
「へっ……!? あ、はいッ!!」
光秀が我に返って特注のコントローラーを操作すると、店内の遮光カーテンが一斉に下り、昼の光が完全に遮断された。
客席の各テーブルに配置された十三のLED和紙行灯がぽうっと温かな光を宿し、床面近くからは特注の低温ミスト発生器がアロマの白い霧をひんやりと噴き出し始める。
ヒノキと桜の芳しい香りが漂い、一瞬にして店内は夜の木曽川の川面に浮かぶ幻想の舟座敷へと姿を変えた。
(よし……! ここからが私の設計した安全演出の本番だ……!)
光秀は『にゃん丸君招き猫』を抱き直し、キリッと表情を引き締めた。
(四千七百の炎は十三のLEDに化け、暴走する燻煙はアロマミストに化け、危険な設備投資資金はすべて安全な特注資材と職人への工賃に消えた! 保健所も消防局も入る隙はない! 私は完全に信長の手綱を握り、安全で完璧な披露宴を構築したのだ……!)
「勝家、成政、利家、一益! 宴の幕開けだッ! 本能寺の総力を挙げた『黄金の婚礼フルコース』、一皿残らず焼き尽くして叩き込んでやれェェッ!!」
「「「うおおおおッ!!」」」
幻想的な霧のなかで、運命の披露宴が華々しくスタートした。
だが――。
誰もが笑顔を咲かせ、新郎新婦へ向けた温かな言葉と美味なる料理に舌鼓を打ち始めたその時。
神前で結ばれたばかりの新郎新婦。
そこへ二人を祝うために集まった人々。
さらに信長の料理によって呼び起こされた、過去の苦楽への深い感謝。
個々では温かな灯火に過ぎなかった【喜】の感情が、婚礼という一つの焦点へ向かって不思議なほど同調し始めた瞬間――。
会場の中央に鎮座する『黄金茶室』の金箔パネルの隙間が、かすかに、目には見えないほど微細に――チリチリと紫電のような黄金の燐光を帯び始めたことに、気づいた者はまだ誰一人としていなかった。
それら極めて高純度な【喜】の感情エネルギーは、光秀が設置を許可した『黄金茶室』へと、奔流のように吸い込まれ始めていたのである。




