第46話「三百六十五の灯火と夜車山」
第46話「三百六十五の灯火と夜車山」
【東暦一五七三年 四月上旬・犬山祭当日・宵】
夕闇が木曽川を紺青に染め、針綱神社前の『喫茶 厨房 本能寺・犬山出張所』では、追加搬入された食材の最後の一粒までが完全に売り切れ、陣幕の片付けが進められていた。
「完売だ……。完売してしまった……」
片隅で、光秀が両手で『にゃん丸君招き猫』を抱きしめながら、力なくへたり込んでいた。
「昼の部だけで、前撮り代も最高級旅館代も全部吹き飛ぶどころか、桁違いの現金が金庫に残ってしまった……。この招き猫、本当に商売繁盛を掻き集めてきやがった……!」
「店長、落ち込んでいる場合ではありませんぞ」
長秀が電卓を片手に、整然と売り上げ伝票をまとめ上げる。
「収穫高は想定の三倍を超過。出張経費をすべて相殺した上で、本能寺本店の『本能寺オーブンと平蜘蛛買い戻し口座』へ、極めて潤沢な資金をプール可能となりました」
「プールするなァァァッ!!」
光秀の絶叫をよそに、片付けを終えた面々が屋台の前に集結していた。
ねじり鉢巻きを締め直した勝家、五平餅をきっちり十本平らげて腹をさする成政、腕まくりをして気合十分の利家、そして腕時計のストップウォッチをリセットする一益。
「よし貴様ら、片付けご苦労であった!」
信長が陣幕を背にして仁王立ちし、夜空を見上げた。
「昼の屋台は我が本能寺の圧勝だ。だが、ここからが本番だぞ。犬山祭が隠し持つ真の姿――夜車山の巡行が始まる!」
「「「おおおおッ!!」」」
一同が歓声を上げる中、針綱神社の鳥居の向こうから、低く重々しい太鼓の音が響き渡った。
ドォン……ドォン……ドォン……。
昼間の賑やかな「からくり」の囃子とはまったく異なる、夜の闇を震わせるような荘厳な調べ。
「……あ、灯りがついた!」
寧々が小さく息を呑んで指を差した。
広場に集結していた十三輌の車山。その三層に及ぶ巨大な骨組みに、職人たちの手によって、次々と紅い炎が灯されていく。
一輌につき、実に三百六十五個。
一年三百六十五日を表す無数の提灯が、夜の帳を切り裂くように一斉に光を放ったのだ。
「うわぁ……すごい……!」
寧々の瞳に、あたたかな橙色の光が映り込む。
十三輌×三百六十五個――四千七百を超える灯火が、満開の夜桜を下から照らし出し、暗闇の中にぼうっと浮かび上がらせる。それは昼間の華やかさとは一変した、息を呑むほどに幻想的で、どこか恐ろしいほどの迫力を湛えた「光の巨塔」たちの群れであった。
「……すごい迫力やな」
秀吉が寧々の隣で息を呑む。
「昼間のからくりも凄かったけど、夜のこれは……ホンマに別物やわ。町全体が燃えとるみたいや」
ギィィィ……と車輪がきしむ音が夜気に響く。
「ヨイヤサーッ!」「ヨイヤサァッ!」
手子衆たちの勇壮な掛け声とともに、三百六十五の灯火を揺らしながら、巨大な夜車山がゆっくりと城下町の闇の中へ動き出した。
提灯の光が揺れるたび、満開の桜の影が揺らめき、まるで夜の桜並木が呼吸をしているかのような錯覚を覚える。
「……見事なものだな」
腕を組み、夜車山の隊列を見つめていた信長が低く呟いた。
「昼間、町衆が注ぎ込んだ【楽しい】という熱気が、夜になってこの提灯の炎に姿を変えたようだ。これほどの光と影の調和……並の料理では太刀打ちできんぞ」
「社長……?」
秀吉が振り返る。
信長の眼光は、単に祭りの美しさに見とれている者のそれではなかった。
料理人が、人生で一度出会えるかどうかの「究極の皿」を目の前に突きつけられた時のような、剥き出しの闘志と飢餓感がその瞳に宿っていた。
信長はゆっくりと歩き出し、広場を抜けて木曽川の堤防へと向かった。
本能寺の面々も、その異様な気迫に引き寄せられるように、無言で信長の後を追う。
堤防の上に立つと、冷たく澄んだ川風が吹き抜けた。
見下ろす木曽川の黒々とした川面には、遠く城下町に灯された無数の明かりが、細い黄金色の帯となって揺らめいている。
その向こう――木曽川を見下ろす高台に、春の夜闇を裂いてライトアップされた国宝・犬山城の白壁が、白銀の神殿のように浮かび上がっていた。
「……ほう」
信長が息を呑み、ライトアップされた犬山城の天守を見上げた。
その荘厳な輝きと、眼下に広がる黒い川面。そして、その向こうに瞬く城下町の無数の灯火。
信長の脳裏で、城下町を練り歩くあの三百六十五の灯火を掲げた夜車山と、漆黒の夜空に浮かび上がる白亜の天守が、ひとつの像となって重なり合っていった。
(あの城そのものが……まるで闇の木曽川を渡る、巨大な夜車山ではないか)
昼には見せなかった、光と闇が織りなす圧倒的な威容。
そして――。
「……あっ」
利家が声を漏らした。
昼間、信長たちが『楽市楽座マークII』で肉と米を焼き続け、『煙抜き』が空へと吐き出し続けていた、あの白い蒸煙。
冷却され、薄められ、春風に乗って木曽川の上空へと流れていったはずの煙が――冷たい川風で急激に冷やされて夜霧と混ざり合い、城の白光と夜車山の灯火をぼんやりと受け止めながら、木曽川の上に薄い「白い帳」となって漂っていたのだ。
「煙が……残っとる……?」
秀吉が目を凝らす。
「昼間の【楽しい】感情を吸い込んだ煙が、冷たい川風で急激に冷やされて夜霧と混ざり、川面近くに滞留しているのか……!」
光秀が青ざめて叫んだ。
「だ、だから言ったじゃないですか! 煙抜きを使ったって煙は消えないって! あんな感情エネルギーの残り滓が川の上に溜まって、何か怪奇現象でも起きたらどうするんですかッ!?」
だが、信長は光秀の悲鳴などまるで耳に入っていなかった。
信長は木曽川の川面を、そこに棚引く白い帳を、そしてライトアップされた犬山城と、遠く城下町で蠢く夜車山の灯火を、貪るように見つめていた。
昼の光。
夜の闇。
水面と城の光。
三百六十五の灯火。
そして、川面を漂い、光を柔らかく乱反射させる白い煙。
それらすべてが、信長の脳内で激しく火花を散らし、ひとつの恐るべき「閃き」へと結実していった。
「……そうか」
信長がぽつりと零した。
「社長……?」
秀吉がおそるおそる声をかける。
信長はゆっくりと振り返った。その顔には、かつて『黄金茶室』を思いついた時をも遥かに凌駕する、狂気と歓喜に満ちた獰猛な笑みが浮かんでいた。
「秀吉、寧々」
「は、はいッ!」
「貴様らの結婚式……式場が決まったぞ」
「……えっ?」
二人がぽかんと口を開ける。
光秀の背筋を、今日一番の冷たい戦慄が駆け抜けた。
「し、式場が決まった……? 社長、何を言っているんですか? 結婚式は六月二日、清須の本能寺で身内だけでささやかにやる予定じゃ――」
信長は光秀の言葉を遮り、木曽川の闇と犬山城の光を両手で抱え込むように、天高く腕を広げて吼えた!
「夜を飾るのだッ!!」
「よ、夜を……!?」
「暗闇があるからこそ、灯火は眩く輝く! 煙と霧があるからこそ、光は幻想の帳となる! 太陽の下でただ白無垢を着るなど、誰にでもできる浅知恵だ! 我ら本能寺がやるべき婚礼は――この犬山の夜車山が魅せた『光と影』、そして川面に漂う『煙と光』のすべてを、皿の上と空間のすべてに再現することだッ!!」
「再現ってなんですか再現って! 喫茶店の中で夜車山を走らせる気ですか!? 提灯を何千個灯す気ですか!?」
光秀が叫びかけた――その瞬間。
ふと、光秀の頭脳の中で、電卓を叩くような澄んだ音が弾けた。
(……待てよ?)
光秀の瞳が、スッと細められる。
(結婚式に……更なる資金を追加する、だと……?)
「一益、長秀! 今日の売上から経費を差し引いた余剰資金、そのすべてを投入しろ! 六月二日の婚礼本番に向け、本能寺を『夜の光』で埋め尽くすための特注資材を調達するぞッ!」
信長はそう吼えたのだ。
(……勝った……!!)
光秀の胸の内に、じわじわと熱い歓喜の波が押し寄せてきた。
(今日の屋台で稼いでしまった巨額の黒字……! 危険設備の買い戻し口座にプールされるはずだったあの忌々しい利益が……結婚式の特注資材調達によって、綺麗さっぱり消滅するということじゃないか……!!)
金が消える。
信長が己の料理狂としての美学に酔いしれ、派手に金をばら撒けばばら撒くほど、本能寺の危険設備買い戻しは遠のくのだ!
「は、ハハ……ハハハッ!」
光秀の口元から、思わず快哉の笑みが漏れ出しかけた。
だが――光秀はハッと我に返り、慌てて頬を叩いて己を戒めた。
(金は使わせる。だが、安全まで浪費させるわけにはいかない……! 社長の言い草を聞いたか!? 煙と光を空間に再現するだと!? 放置すれば、あいつらは本当に喫茶店を火の海にして大爆破を起こしかねんぞ……!)
演出に危険なことをやらかさないよう、現場の安全基準だけは徹底的に手綱を握らねばならない。
光秀は『にゃん丸君招き猫』を抱き直し、キリッと引き締まった表情で信長に向き直った。
「社長!」
「おお、光秀! 貴様もこの前代未聞の夜のスペクタクルに賛同するかッ!」
「ええ、結婚式を最高の舞台にするための資金投入には大賛成です! ただしッ! 演出に危険なことを絶対にやらかさないよう、安全管理と演出の制御については私が徹底的に目を光らせますからね! 清須へ帰ったら、直ちに本能寺で式場の演出についての緊急全体会議を開きますよッ!!」
「ガハハハハ! 良い気合だ光秀! 全員で知恵を絞り、最高の夜を創り上げるぞッ!」
「「「おーッ!!」」」
信長と本能寺の面々が拳を突き上げる横で、光秀は(資金は使わせる、だが危険な演出は絶対に阻止する……これぞ完璧な経営防衛……!)と密かに闘志を燃え上がらせていた。
ライトアップされた白亜の犬山城と、三百六十五の灯火が揺れる犬山の夜空の下。
東暦一五七三年六月二日――『黄金の婚礼』へ向けた本能寺の狂気と躍進の歯車が、いま完全に噛み合って回り始めたのであった。




