第45話「桜花爛漫の城下と宴の昼」
第45話「桜花爛漫の城下と宴の昼」
【東暦一五七三年 四月上旬・犬山祭当日・昼】
正午を回り、針綱神社前の『喫茶 厨房 本能寺・犬山出張所』は、大勢の参拝客と祭り客で、怒涛のような賑わいを見せていた。
鉄板の上では煙抜きが唸りを上げながら極太フランクが小気味よく弾け、黄金焼きおにぎりの香ばしい醤油の匂いが春風に乗って城下町へと流れていく。
「ふぅ……! 注文の波、第一陣がようやく一段落したな!」
信長が額の汗を拭い、陣幕の奥を振り返った。そこでは、レジ打ちから商品の手渡しまで手際よくサポートしていた寧々が、息を整えながら微笑んでいた。
「寧々、すまんな。本能寺の従業員でもねえのに、昼のピークをごっそり手伝わせちまった」
「とんでもないです、社長! 私もお手伝いできてすごく楽しかったです」
寧々が恐縮して頭を下げると、信長は豪快に笑って腕を組んだ。
「気にするな! 働いた後はきっちり祭りを喰い尽くす、それが本能寺の鉄則だ! 完売までまだまだ時間はかかる、ここからは交代で休憩を回すぞッ!」
信長がフロアを見渡し、バシッと秀吉を指差した。
「おい秀吉! 貴様は寧々を連れて、今すぐ城下町の視察へ行け! 交代枠なんぞ気にせず、たっぷりと骨休めしてこい! その代わり、夕方の第二ピークまでには戻ってこいよ!」
「えっ、俺だけそんなに長う休憩もらえてええんですか社長!?」
目を丸くする秀吉に、信長はニヤリと不敵に口元を吊り上げた。
「当たり前だ! 嫁ひとりを満足させられん男に、客の胃袋を掴めるか! 婚礼の前の大事な時間だ、とっとと行ってこいッ!」
「あ、ありがとうございます社長!」
「ありがとうございます、社長!」
秀吉と寧々は嬉しそうに顔を見合わせ、手を取り合って満開の桜が咲き誇る城下町へと繰り出していった。
その背中を見送りながら、屋台の隅で帳簿を抱えた光秀が力なく砂利を見つめていた。
「交代制で営業継続……売り上げが止まらない……。手元の現金を消し飛ばすはずだった社員旅行が、なぜ莫大な黒字を生み出し続けているんだ……」
「店長、落ち込んでいる暇はありませんぞ。営業を止めぬため、次は光秀店長の休憩交代枠です」
長秀の非情な事務連絡が、春の青空に冷ややかに響き渡った。
「休憩と言われても……私の胃袋と精神はすでに瀕死ですよ……」
屋台を離れ、一人トボトボと城下町を歩く光秀。
他の面々のように食欲を爆発させる気力など、微塵も湧かない。せめて胃を休められる静かな場所を求め、神社前の人混みを避けて細い路地へと逃げ込んだ。
しかし、そんな光秀の耳に、どこからともなく聞き覚えのある怒号と歓声が飛び込んできた。
「おい親父ィッ! この五平餅の味噌、八丁味噌と胡桃の配合が絶妙じゃねえか! 頂上まで喰い尽くす勢いで、十本寄越せぇぇッ!」
「ガハハ! 串カツも負けてねえぞ! 揚げたての衣にドブ漬けした味噌ダレ、何本でも腹に入るわッ!」
「ひっ……!?」
慌てて路地の角から覗き込むと、成政が両手に五平餅の束を抱えて頬張り、勝家が巨大な体躯で屋台の長椅子を占拠し、山盛りの味噌串カツをビールで流し込んでいた。
「な、なんで休憩中の連中が、揃いも揃って暴飲暴食の現地リサーチをしてるんですか……! まるで飢えた野武士じゃないですか……!」
見つかって巻き込まれたら胃が破裂する。光秀は脂汗を流しながら音もなく後ずさり、別の通りへと進路を変えた。
だが、そこにはさらに恐ろしい光景が待っていた。
通りの真ん中で、一益が腕時計の秒針を見つめながら、地元名物の『げんこつ飴』を恐るべき速度で咀嚼していた。
「……咀嚼回数三十回、嚥下まで二秒四。補給効率、極めて良好」
「あいつは祭りで何を計測してるんだ……!?」
戦慄する光秀がさらに顔を背けると、その先――針綱神社近くの広場に店を構える『イイトモファーム犬山城三の丸店』の前に、何やら異様な熱気を放つ眼鏡の男が張り付いていた。
「ほう……小麦粉を一切使わず、自家製米粉のみで焼き上げたバームクーヘン……! 米の旨みと甘みをスイーツの階層構造へと昇華させるとは、収穫高にして米五十俵分に匹敵する極上の着眼点……!」
長秀がショーケースの『白米バーム』を穴が開くほど凝視しながら、店員に「この生地の米粉比率は」「年間の米消費量はどの程度か」と猛然と問い詰めている。
店員は完全に引きつった愛想笑いを浮かべていた。
「丹羽殿ォォォッ!! 遠征先で他所の店を米の基準で品定めするのをやめなさい!!」
光秀は思わず叫びそうになる口を手で塞ぎ、路地を全力疾走で逃げ出した。
「ダメだ、あの連中といたら休まるどころか寿命が縮む……! どこかに……どこかに誰の気配もしない、平穏無事な場所は……!」
ぜぇぜぇと息を切らしながら辿り着いたのは、古い民家の軒先にある静かな土産物屋だった。
店頭には、祭りにちなんだ素朴な木彫りの置物や、伝統工芸のお面がひっそりと並んでいる。
「ふぅ……ここなら誰も来ない……。少しだけ、ここで心を無にしよう……」
光秀がほっと胸を撫で下ろした、その時だった。
「あら、お兄さん。清須の本能寺の方だね?」
店先の日陰から、腰の曲がった朗らかな老婆が笑顔で声をかけてきた。
「えっ? あ、はい、そうですが……」
「さっき神社前で、うちの孫たちがねぇ、あんたんとこの屋台ですごいご馳走をタダで食べさせてもらったって大喜びで戻ってきたんだよ。『本能寺の社長さんは神様みたいな人だ』ってねぇ」
「う……」
胃がキリキリと痛む。光秀が仕組んだ「赤字化のための無料配布」が、町民の間では美しい美談として定着していた。
「社長さんだけじゃないよ。あんたのことも言ってたよ。『お金の計算をしてる優しそうな店長さんが、僕たちを見て嬉しそうな顔をしてた』って」
「嬉しそうな顔!? あれは血の気を引かせて絶望してた顔ですよ!?」
「まあまあ、照れなくていいんだよ。はいこれ、お礼に持っていきなさい」
老婆がにこやかに差し出してきたのは、白い陶器で作られた置物だった。
ふっくらとした招き猫の体に、ちょんまげと凛々しい眉毛、そして愛嬌のある犬の垂れ耳が生えている。
「……あの、お婆さん。これは……?」
「あたしが作ったのさ。東暦世界の犬山市が誇る公式ゆるキャラ『にゃん丸君』の、特製にゃん丸君招き猫だよ。犬山のキャラなのに猫なのか犬なのか自分でもよう分からんけどねぇ、縁起の良さだけはてんこ盛りさ!」
「犬山なのに猫ベースの『にゃん丸君』って、公式の段階で設定が迷走してるじゃないですか! それをさらに招き猫にするなんて、コンセプトが完全に大渋滞を起こしてますよ!!」
「いいからいいから! 徳を積んだ人には福が返ってくるもんさね。その子はねぇ、犬の忠義で厄を祓い、猫の手でがっぽり『商売繁盛』を掻き集めてくれるんだよ」
「商売繁盛を掻き集めないでくださいィィィッ!!」
光秀の魂の叫びも虚しく、ちょんまげを揺らして愛嬌を振りまくにゃん丸君招き猫は、光秀の腕の中にすっぽりと収められた。どこか呑気に笑いかけてくる置物を抱えながら、光秀は深い絶望の溜息を吐き出したのだった。
一方その頃――。
賑やかなメイン通りを抜け、秀吉と寧々は木曽川の河畔へと続く小高い遊歩道へとやってきていた。
満開の桜並木が、まるで薄紅色のトンネルのように頭上を覆っている。川面を撫でて吹き抜ける春風が、ひらひらと花びらを散らし、二人の足元を桜の絨毯に変えていく。
「綺麗やね、秀吉くん」
寧々が立ち止まり、川向こうにそびえる国宝・犬山城を見上げた。
青空に映える白帝城の威容と、咲き乱れる桜。昨日撮った前撮りの写真が、まるでそのまま現実の風景として目の前に広がっているようだった。
「せやな……。去年の冬、二人で挨拶に来た時は寒かったけど、あっという間に春や。あと二ヶ月したら、俺たち本当に結婚するんやなぁ」
秀吉がぽつりと呟く。
「……うん。でも、なんだか不思議やね。私と秀吉くんの結婚式やのに、社長も、明智さんも、みんながこんなに本気で動いてくれて……」
寧々は胸元に手を当て、嬉しそうに目を細めた。
「昨日の前撮りも、今日の屋台も、みんなが汗だくになって笑いながら助けてくれた。本能寺に来て、本当に良かったって思うよ」
「寧々ちゃん……」
秀吉の胸に、温かいものが込み上げてくる。
普段は料理にしか興味がないはずの信長が、二人の婚礼のために誰よりも熱く鉄板を振るい、胃を痛めながらも最高の舞台を用意してくれる光秀がいて、不器用ながら全力で支えてくれる仲間たちがいる。
「俺、絶対に寧々ちゃんを幸せにするわ。本能寺のみんなと一緒に、世界で一番温かくて、美味い飯が食える家庭を作るからな」
「うん。約束やよ、秀吉くん」
二人が微笑み合い、指切りを交わした、その時だった。
「おい、秀吉、寧々」
不意に背後から声をかけられ、二人は跳ねるように振り返った。
桜の木の下、木曽川の雄大な流れを見下ろす手すりに寄りかかっていたのは、腕を組んだ信長であった。手にはいつもの『缶コーヒー有楽斎』が握られている。
「し、社長! こんなところで何を……? 屋台のほうは大丈夫なんですか!?」
「フン、成政と勝家が戻ったからな。今はあの二人が馬鹿力を出して回しておるわ」
信長はコーヒーに口をつけ、視線を川面から離さぬまま、静かに息を吐いた。
「……昼の車山、からくりの見事さ、町衆の熱気。どれも一級の祭りだ。だがな、秀吉」
信長がゆっくりと振り返る。その瞳の奥には、昼間のどんちゃん騒ぎの時とは全く異なる、鋭く研ぎ澄まされた光が宿っていた。
昼間の屋台で立ち上っていた煙。
春風の匂い。
そして、眼下を流れる木曽川。
信長はコーヒーを一口飲んだ。何かが、妙に引っかかる。だが、それが何なのかは、まだ分からなかった。
信長は犬山城の天守と、静かに水を湛える木曽川を指差した。
「長益が言っていた。犬山祭の真骨頂は、夜だとな。……昼の光が沈み、あの十三輌の車山が一斉に提灯を灯すとき、この町がどんな顔を見せるのか。そして、この川がどう変わるのか」
信長はニヤリと不敵に口角を吊り上げた。
「昼の宴はここまでだ。……行くぞ、本能寺の連中を呼び集めろ。いよいよ、犬山が隠し持つ『真の姿』を拝みに行くぞッ!」
茜色の夕暮れが、ゆっくりと木曽川の空を染め始めようとしていた。
昼の熱狂が静まり返るその先で、三百六十五個もの提灯をそれぞれ掲げた十三輌の車山が、巨大な光の塔となって夜の闇の中で目覚めの刻を待っていた。




