第41話「三光稲荷神社・犬山へ」
第41話「三光稲荷神社・犬山へ」
【東暦一五七二年 十二月中旬】
冬の澄んだ冷気が漂う中、秀吉と寧々は尾張北部の城下町・犬山へと降り立っていた。
中部鉄道・犬山遊園駅の改札を抜け、木曽川の穏やかなせせらぎが聞こえる静かな住宅街を進む。
竹林の緑に包まれた奥まった一角に、数寄屋造りの洗練された平屋が、以前と変わらぬ静けさでひっそりと佇んでいた。
喫茶『如庵』。
木製の小さな看板を掲げた引き戸をガラガラと開けると、深く芳醇な珈琲の香りと、心地よい静寂が二人を包み込んだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥でネルドリップを構えていた男が、静かに顔を上げる。
白いシャツに黒のサロン。整えられた髪に繊細な眼鏡。 かつて本能寺の『平蜘蛛』開発に出資し、その条件として「至高の珈琲抽出」を要求した男――信長の弟・織田長益。
もっとも、この店で客前に立つときの彼は、至高の珈琲のみを追い求める茶人・有楽斎であった。
「……秀吉殿。それに、寧々殿ですね」
有楽斎はネルフィルターから細く湯を落としながら、静かに二人を迎えた。
「ご無沙汰しております、長益様! お忙しいところ突然お邪魔してすいません!」
秀吉が姿勢を正して頭を下げると、寧々も隣で深々と礼をする。
有楽斎は丁寧に抽出した二つのカップをカウンターへ静かに滑らせた。
「……どうぞ。今の季節に合わせた『如庵ブレンド・深煎り』です。まずは一杯」
「ありがとうございます!」
二人は両手でカップを包み、口をつける。 芳醇な苦味と果実のような澄んだ酸味が広がり、喉を抜けたあと、じんわりと温かい余韻が胸を満たしていく。
「……っ! 美味い……! 苦いのに驚くほど角がなくて、身体の芯まで染み渡りますわ……」
「本当……! すごく優しくて、心が落ち着くお味です」
二人の素直な賛辞に、有楽斎は眼鏡の奥の細い目をわずかに和ませた。
「結構です。……して、本日は兄上の使いですか? それとも明智殿の珈琲の進捗報告かな」
「いえ、長益様。実は……」
秀吉は居住まいを正し、エプロンを外したスーツの膝に手を置いた。
「俺と寧々ちゃん、来年の六月に正式に結婚することになりまして。かつて平蜘蛛の件でどれだけ無茶をしても力を貸してくださった長益様に、どうしても直接、婚礼の報告と、これまでのお礼をお伝えしたかったんです」
有楽斎は珈琲カップを置くと、二人をじっと見つめた。 やがて、小さく口元を緩める。
「……そうでしたか。それは、実に喜ばしい」
有楽斎はカウンターの下から、丁寧に焙煎された珈琲豆の袋を取り出し、カウンターへ置いた。
「私は料理には一切の興味がありません。兄上の料理狂ぶりにも付き合いきれませんが……手作業で人の心を震わせようとする、貴方たちのひたむきさは嫌いではない。……結婚式には、私からこの『如庵特製の婚礼記念ブレンド』を豆のまま贈りましょう。引き出物として参列者に配るといい」
「ほ、本当ですか長益様!? あの幻の如庵ブレンドを引き出物に……!?」
秀吉が目を輝かせて歓喜する。
「ええ。ただし、抽出の温度と秒数を決して間違えないよう、明智殿に厳格に申し伝えておきなさい。……ところで、今日は挨拶だけで帰るのですか?」
「あ、いえ! せっかく犬山まで来ましたので、式当日の『ウェルカムボード』に使う縁起物や、前撮りのロケハンを兼ねて町を回ろうと思っとりまして」
「なるほど」有楽斎は窓の外、木曽川の向こうにそびえる犬山城へ視線を向けた。「それなら、犬山城の麓にある『三光稲荷神社』へ行ってみるといい。あそこには、婚礼に使えそうな縁起物があると聞いています」
「三光稲荷神社……! ありがとうございます、さっそく行ってみます!」
有楽斎に深く礼を告げた二人は、如庵を後にし、城下町の古い町並みを抜け、犬山城の麓へと向かった。
小高い丘の麓に連なる、鮮やかな朱塗りの鳥居。 三光稲荷神社の境内へ足を踏み入れた瞬間、寧々が「あっ!」と息を呑んで駆け寄った。
「見て秀吉くん! すごい……これ、全部ピンク色!」
境内の奉納所一面を埋め尽くしていたのは、鮮やかなピンク色のハート型――『三光稲荷のハート絵馬』であった。
「うわぁ……! ほんまや、全部ハートの形しとる! めっちゃ可愛らしいやん!」
冬の柔らかな日差しを浴びて、壁一面のピンク色のハートがキラキラと揺れている。そこには良縁や夫婦円満を願う、無数の温かい言葉が刻まれていた。
寧々が絵馬を見つめながら、嬉しそうに振り返る。
「ねえ、秀吉くん。さっき長益様に相談したウェルカムボード……このハートの絵馬を使わせてもらわへん?」
「えっ、絵馬を?」
「うん! 大きな額縁を用意して、このピンクの絵馬を真ん中に飾るの。結婚式に来てくれたみんなに、この絵馬へお祝いのメッセージを書いてもらえたら……世界で一つだけの、すごく温かいウェルカムボードになると思わへん?」
寧々の柔らかな笑顔に、秀吉の胸が熱く打ち震えた。
「それ……最高やないか寧々ちゃん!!」
秀吉は寧々の手をぎゅっと握りしめた。
「神社の由緒ある縁起物やし、見た目も華やかで愛らしい! 信長社長のド派手な料理の横に置いても、絶対に埋もれへん最高のボードになるで!」
二人は社務所で相談し、結婚式のウェルカムボードに使うための特別なハート絵馬を授与してもらった。さらに境内でお互いに一枚ずつ絵馬を買い求め、願いを書き込む。
『寧々ちゃんと一生、笑顔で美味い飯が食えますように。 秀吉』 『秀吉くんが健康で、ずっと本能寺で楽しく笑っていられますように。 寧々』
二つのハートが並んで奉納され、二人の願いが静かに境内へ残された。
「よし! この三光稲荷神社の赤い鳥居と、さっき歩いてきた城下町の古い町並み……前撮りのロケーションはここで決まりやな!」
「うん、風情があって写真映えもばっちりやね!」
前撮りの舞台が決まり、大満足の二人は顔を見合わせて笑った。
「ウェルカムボードの縁起物も決まったし、ロケハンも終わった! 時間もあるし、せっかくやから観光してこか。……犬山と言えば、あそこやろ!」
秀吉が意気揚々と向かったのは、世界の霊長類が集まる『日本モンキーセンター』であった。
「うわぁ、いろんな種類のお猿さんがいっぱいおるね!」
物珍しそうに園内を歩く寧々。しかし、二人が柵の前に立ち止まった瞬間、異変が起きた。
ざわざわっ……!
「……ん?」
秀吉がふと視線を向けると、放し飼いエリアの猿たちが一斉に動きを止め、じっと秀吉の顔を見つめていた。
威嚇ではない。 なぜか猿たちは秀吉に強い興味を示し、一匹、また一匹と彼の周囲へ集まり始めた。
「キッ!」 「ウキキッ!」
中には柵越しに秀吉の袖へ手を伸ばすものまでいる。
「え、ちょ……何や!? めっちゃ集まってくるんやけど!?」
「ウキィィィッ!」 「ウキャキャッ!」
親愛の情に満ちた猿たちの熱烈な歓迎ぶりに、秀吉は後ずさりした。
「ひぃぃっ! なんで俺ばっかりに絡んでくるんや!? 寧々ちゃんの方には一匹も行かへんのに!」
「ふふっ……あははは! 秀吉くん、めちゃくちゃ好かれとるやん! なんか……仲間やと思われとるんやない?」
「誰が猿の仲間やねん!!」
秀吉が必死にツッコミを入れる中、寧々が楽しそうにスマートフォンを取り出した。
「せっかくの観光記念やし、一枚撮ろうよ! ほら、秀吉くん、笑って!」
「ちょ、寧々ちゃん、今それどころやな――」
「はい、チーズ!」
パシャリ。
画面を確認した二人は、思わず吹き出した。
写真の中央で愛らしく微笑む寧々。その隣で引きつった笑顔を浮かべる秀吉の周りを、足元にしがみつく猿、頭上から興味深そうに覗き込む小猿、そして背後で妙にカメラ映りを意識しているような猿など、視界を埋め尽くす大量の猿たちが見事なまでに映り込んでいた。
「……なんやねんこれ! 俺の結婚前の思い出写真、猿だらけやないか!!」
「あはは! でも、秀吉くんらしくてすっごく温かくて良い写真やよ」
寧々は可笑しそうに笑いながら、その写真を大切そうに保存した。
この時の二人はまだ知らなかった。 この一枚の写真が、半年後の本能寺で思わぬ騒動を引き起こすことになるなど――。




