第31話「極香の芽吹き――新設備『楽市楽座』」
第31話「極香の芽吹き――新設備『楽市楽座』」
『人生の節目を祝う特別食堂』として成功を重ね、ついに目標額へ到達した本能寺の再建資金。
特別な日の料理を一皿ずつ積み重ね、客の喜びを一つずつ受け取ってきた。その利益が今度は、失われた技術を取り戻すための力となったのだ。
真新しい厨房の奥では、数日間にわたる大工事が完了しようとしていた。
「クックック……できたぞ、織田社長。これぞ我が最高傑作の追加設備だ」
松永久秀がパイプの紫煙を燻らせながら、自慢げに黒い覆いを払いのけた。
そこに鎮座していたのは、鈍い重厚な光沢を放つ巨大なダクトシステムと、複雑な配管で繋がれた木樽状の特殊スモーカーであった。
「これが……新設備『楽市楽座』……!」
秀吉と光秀がゴクリと息を呑み、その全貌を見上げる。
「説明しよう」
久秀が怪しく目を輝かせた。
「かつての『オーブン』は【怒り】、『平蜘蛛』は【哀しみ】、そして『黄金茶室』は【喜び】に反応してきた。そして、この『楽市楽座』が司るのが……四感情の最後、客の【楽しい】という感情エネルギーだ!」
「【楽しい】感情……!」
秀吉の目が輝く。
「そうだ。客が食事や会話を【楽しい】と感じた時、その感情エネルギーが持つ性質を直接利用する。【楽しい】という感情には、人から人へ広がり、周囲を巻き込んでいく性質がある。その『広がる力』を利用して、食材を燻す燻煙や焙煎時の『芳しい香気』を引き出す。さらに、その香りを食材の表面から内部へじっくりと行き渡らせたり、店内へ心地よく拡散させたりする設備なのだよ」
久秀はパイプで特殊スモーカーを叩いた。
「つまり、【楽しい】という感情が持つ『広がる力』を、料理と空間の香りとして直接引き出す。これぞ、我が新たなる感情エネルギー技術の結晶!」
「客の【楽しい】って気持ちを、最高の香りとして料理や空間に返す装置か……面白え!」
信長がニヤリと不敵に口角を吊り上げ、すでに締め終えていたエプロンの上から、手早く特殊スモーカーへ食材をセットした。
「四感情の厨房設備が揃った今、この『楽市楽座』の香りで客の鼻腔と胃袋を掴む! 百聞は一見に如かずだ……まずはこいつを試食してみろ!」
ガコンッ!
レバーが倒され、楽市楽座が心地よい低音の駆動音を鳴らし始める。
仕込みをしながら新しい設備への期待に胸を膨らませていた光秀と秀吉。その【楽しい】という感情が高まった瞬間――。
スモーカーの拡散ノズルからあふれ出してきたのは、桜のチップと微かなハーブの香りが絶妙に溶け合った、思わず深く吸い込みたくなるほど芳しい一筋の煙だった。
その香りが厨房から客席へとそっと広がり、二人の鼻腔を優しくくすぐる。
「~~~~ッッ!!?? 何ですかこの……胸がワクワクして、生唾が溢れてくるような香ばしい匂いはァァァッ!?」
光秀が眼鏡をズリ下げて鼻をひくつかせる。
「あかん……匂いを嗅いでるだけで、めちゃくちゃ楽しい気分になってお腹が空いてきますわ……ッ!!」
秀吉が喉を鳴らす中、信長がスモーカーから取り出したのは、完璧な琥珀色に燻し上げられた一個の『燻製卵』だった。
手作業で丁寧に茹で上げられた卵が、楽市楽座によって燻煙の香気をまとい、宝石のようなツヤと深みのある香りを放っている。
「食ってみろ」
信長から手渡された燻製卵を、秀吉と光秀が同時に一口かじった。
白身のぷるりとした食感とともに、閉じ込められていた燻煙の奥深い香ばしさが口いっぱいに弾け飛ぶ。
そして濃厚な半熟の黄身が舌の上でとろけた瞬間――胸の奥から弾けるような【楽しさ】が込み上げてきた。
「「うんまぁぁぁぁぁぁいッ!!!!」」
ふたりの歓声が店内にこだまする。
「なんという香りの広がり……! 燻製の芳しさが食材に完璧に馴染んでいて、一口食べるごとに幸せな気持ちが広がります!」
光秀が目を剥いて感動に打ち震える。
「社長! これ、ヤバいですわ! 黄金茶室の特別な日だけじゃなくて、日常のモーニングで出したら絶対に大評判になりますって!」
秀吉の言葉に、信長は高らかに笑い声をあげた。
「ガハハハハ! その通りだ! 特別な日特化で稼いだ資金で手に入れたこの『楽市楽座』……これを使って、まずは『燻製卵モーニングセット』を開発する!」
信長が拳を握りしめる。
「『人生の節目』を制した俺たちが、今度は日常の『朝食』を制するのだッ!」
「日常の朝食から……天下不武の第一歩、ですね!」
光秀も手帳に筆を走らせ、目を輝かせた。
かつて失われた技術を、人間の実力で稼いだ資金と【楽しい】という温かな感情によって、新たな「食の喜び」へと昇華させた瞬間だった。
燻製の芳しい香気が、清須の朝の風に乗って、ふわりと店外へ拡散していく。
『喫茶厨房本能寺』の新たな挑戦――『楽市楽座』による通常営業への進出と、名物モーニングの開発が、いま動き始めた。
そして、この香りはやがて――本能寺そのものを揺るがす、新たな騒動の呼び水となる。




