第26話「顔合わせ――山内一豊と千代」
第26話「顔合わせ――山内一豊と千代」
『人生の節目を祝う特別食堂』として再出発を切った喫茶『本能寺』。
記念すべき予約第一号の当日、店内にはピーンと糸が張りつめたような、異常なまでの緊張感が漂っていた。
「……羽柴殿。お冷のグラスを置く手が震えていますよ」
光秀が帳簿から目を離さずに言った。
「そ、そりゃ震えますわッ! 一日に一組しか来ないんですぞ!? 失敗したら今日の売上も本能寺の評判も一発で終わりですわ……ッ!」
秀吉がお盆を抱えて青ざめる。
「ガハハハ! 泣こうが喚こうが、客はもう到着するぞ!」
厨房の奥から、信長が手作業で丹念に研ぎ上げた包丁を片手に顔を出した。感情エネルギー技術に頼らぬ素の手作業だからこそ、一切の妥協を排した料理人の気迫がみなぎっている。
ガラガラと引き戸が開き、緊張した面持ちの若い男女が入ってきた。
真面目だが、どこか気負いすぎた表情の青年・山内一豊と、その隣に立つ聡明な女性・千代。
両家の親同士は後から到着する手はずで、まずは二人で『両家顔合わせ』の下準備にやってきたのだった。
「い、いらっしゃいませですわーッ!」
秀吉の裏返った声が店内に響く。
個室『黄金茶室』へ案内したものの、一豊の肩は岩のようにガチガチに固まっていた。
「千代……本当にこの店で良かったのだろうか。両親は格式高い料亭を希望していたのに、私の手違いで……いや、私の甲斐性がないばかりに……」
「まあ、一豊様」
千代は困ったように笑いながらも、落ち着いた様子で店内を見渡した。
「私は、こちらのお店で良かったと思いますよ」
「しかし……」
「今日、大切なのはお店の格ではありませんでしょう?」
一豊は俯いた。
「私は、千代殿を迎える身として、恥ずかしくない顔合わせにしたかったのだ。立派な料亭を用意することさえできない自分が……」
「まあ」
千代が少しだけ目を細める。
「私が選んだ人が、そんなに頼りない方だと思われるのは困りますもの」
「……!」
一豊が顔を上げる。
「千代殿……」
「ですから、今日は胸を張ってくださいな。一豊様が私と一緒にいたいと思ってくださった。それだけで、私は十分嬉しいのです」
「……そうか」
一豊の表情が、ほんの少し緩んだ。
そのやり取りを見ていた秀吉は、思わず口元を緩める。
(……この人、しっかりしとるなあ)
だが――秀吉は意を決して、一豊の前に腰を落とした。
「一豊様!」
「は、はい!」
「千代さんの言う通りですわ!」
「羽柴殿……?」
「失礼ですが、固くなりすぎですわ! 失敗したくないって気持ちは、すっごく分かります!」
秀吉の胸に、寧々と別れた夜の痛みが一瞬だけ蘇った。
「俺だって、ついこの間まで大切な人とのことをどうすりゃええのか、さっぱり分からんかったんですわ!」
「……羽柴殿も?」
「ええ。だからこそ思うんです。大事なのは、格好をつけることじゃありません!」
秀吉は一豊の目をまっすぐ見つめた。
「今日ここで、千代さんと一緒に未来へ進む。その気持ちを、両親の前でちゃんと伝えればええんですわ!」
「……だが、私は何を話せばいいのかも分からない」
「そんなもん、千代さんとこれからどうしたいのかを話せばええんです!」
「千代と……これからを」
「そうですわ!」
秀吉が大きく頷く。
「俺は社長みたいな料理も作れませんし、まだまだ下手くそな接客しかできません! けど、今日の主役は立派な料亭でも、立派な料理でもなく、お二人なんです! お二人とご両親を全力で喜ばせたい気持ちだけは、誰にも負けませんですわ!」
一豊は千代を見た。千代もまた、静かに微笑んでいる。
「……そうだな。私は、格好ばかり気にしていたのかもしれない。千代殿、今日は私たちの門出だ。胸を張って皆を迎えよう」
「ええ。それでこそ、一豊様です」
一豊の顔に、本物の笑顔が戻った。
「……ありがとう、羽柴殿」
秀吉もまた、ホッと胸を撫で下ろす。
(よっしゃ……!)
その時――両家の両親が到着した。
「お待たせいたしました」
信長自らが、手作業で仕上げた最初の料理――『鯛と旬野菜の薄葛引き』が運ばれてきた。
感情エネルギーによる圧搾も加熱もない。ただ、信長が時間をかけて昆布と鰹から引いた、透き通るような出汁の上品な香りが部屋中に広がる。
一口、澄んだ出汁を口に含んだ瞬間――。
「……なんと、優しく澄み渡るお味でしょう」
「こんなに心が解きほぐされる出汁は、食べたことがない……」
張り詰めていた空気がゆっくりと解きほぐされ、両親たちの間にも自然と会話が生まれ、食卓には和やかな笑い声が広がっていった。
秀吉はその様子を眺めながら、静かに息を吐く。
客が笑って、互いに言葉を交わして、その日のことを思い出にして帰っていく。
その瞬間――。
カチッ……キーーーーン……ピカァッ!
個室の真鍮ランプが点灯し、黄金茶室の壁と天井が、まるでひだまりのような温かな琥珀色の光で静かに満たされた。
「……あら? お部屋が……金色に?」
「綺麗ねえ……まるで二人のおめでたい未来を祝ってくれているようだわ」
両家が満面の笑顔で黄金色の光を見上げる中、光秀が個室の外へそっと足を進めた。
「御両家の皆様、本日は誠におめでとうございます。今回が当店最初の顔合わせのお客様ですので、もし差し支えなければ、記念にお写真を撮影させていただけないでしょうか? ご了承いただけましたら、当店のホームページでも紹介させていただきたいのですが……」
「まあ、素敵! ぜひお願いしますわ!」
和やかな歓声の中、パシャリとシャッター音が響く。
個室から戻った光秀が、物陰でそっと電卓を叩いた。
「よし……! 祝い事の特別料金と祝膳コース代金を差し引いても、しっかり利益が出ています! 写真も掲載できれば、次の予約への素晴らしい宣伝実績になりますよ!」
「明智さん! 雰囲気台無しですわッ!」
秀吉が突っ込みつつも、その顔には確かな笑みが浮かんでいた。
秀吉は、黄金色に輝く部屋を見つめた。
人を喜ばせるというのは、ただ笑わせることではない。
緊張している人の肩の力を抜き、人生の門出を迎える人たちが、一緒に笑える時間を作ること。
(……これが、俺の仕事なんかもしれんな)
秀吉が『接客の第一歩』を学んだこの日――。
新生・喫茶本能寺の再建に向けた小さな利益と、確かな光が、静かに灯ったのだった。




