第20話「漆黒の波紋と経営の呪い」
第20話「漆黒の波紋と経営の呪い」
喫茶『本能寺』の営業再開初日。
道路を挟んだ向かい側では、巨大な資本力を誇る超モダンなガラス張りの『本願寺カフェ』が、押し寄せる客を次々と店内へ飲み込んでいた。
対する『本能寺』は、新設備の導入に伴う一時休業からの再開初日ということもあり、客足は閑古鳥が鳴くほどまばら。そこへ、本願寺カフェのあまりの待ち時間に痺れを切らした新規の客が、諦め顔で数名ほど暖簾をくぐってきた。
「……おいおい、本願寺カフェ、一時間待ちだってよ。しょうがねえ、向かいの怪しい店で時間でも潰すか」
「あの店だろ? どうせまた焦げ臭いナポリタンじゃ……」
カウンターで渋々デミタスカップを口に運んだ男が、次の瞬間、カッと目を見開いた。
「な……なんだこれ……ッ!? 苦味の奥から、まるで果実みたいなフルーティーな甘みが押し寄せてきやがる……!」
「おいおい、こっちの超高圧で仕込んだナポリタンもヤバいぞ! 麺の芯までソースの旨味が叩き込まれてて、モチモチなのに歯切れが次元違いだ!」
『平蜘蛛』の極限圧力で引き出された、有楽斎監修の至高の一杯『漆黒の涙(ティアーズ オブ ミツヒデ)』と、超高圧で仕込まれた新生ナポリタン。
その異次元の味わいと奇妙なネーミングは、SNSや口コミを通じて「あの怪しげな店に本物の味が降臨した」と瞬く間に清須の町へと広がっていった。
それから二日、三日と過ぎるうちに、客足はジワジワと増え始め――二週間が経つ頃には、店の前にまで行列ができる繁盛店へと変わっていた。
「秀吉ッ! カウンター三番席、ナポリタン追加だ! 光秀ッ! 有楽斎の残していったレシピ通り、『漆黒の涙』をもう五杯分、平蜘蛛で圧をかけろッ!」
厨房の真ん中で、信長が豪快に缶ビールを煽りながら指示を飛ばす。
「はいよっ! 毎度ありですわーッ!」
秀吉が狂気的なスピードでホールを駆け回り、光秀は悲鳴を上げる暇もなく、漆黒のドリップ器と『平蜘蛛』の間を往復していた。
『平蜘蛛』の重厚な鋳鉄フレームが極限の圧力をがっしりと受け止め、光秀の胸の奥から湧き出る【哀しみ】が、その出力を完璧に支えていた。
昼のピークタイムを終える頃には、本日の食材と珈琲豆はすべて完売。レジの横には、久しく見ることのなかった黒字の売上集計が置かれていた。
「……やりました。やりましたよ、社長……!」
カウンターに突っ伏した光秀が、歓喜の涙を流しながら売上伝票を抱きしめた。
「見てください、この数字! 赤字解消どころか、今月の返済分も余裕で確保できています! これで……これでようやく、私の胃痛と夜も眠れない恐怖から解放される……!」
光秀の顔に、数ヶ月ぶりとなる晴れやかな笑顔が浮かんだ。
長かった暗黒時代が終わり、平和な日常が戻ってきたのだと、誰もがそう確信した――その時だった。
シューーーーーー……
「ん……?」
バックヤードの隅から、頼りない蒸気の漏れる音が聞こえた。
光秀がハッと振り向くと、『平蜘蛛』の重厚な八本の脚が微かに震え、中央の圧力ゲージの針が、ぐんぐんとゼロ側へ戻っていく。
ついには【安全圏】を下回り、低出力領域へと落ち込んでいくのが見えた。
「ひ、久秀殿!? 圧力ゲージの針が下がっています! 故障ですか!?」
モニターを注視していた久秀が、パイプの煙を「ふう」と吐き出し、あごをさすった。
「いいえ。故障ではありませんな。至極正常な物理現象です」
「正常……? なぜ急に出力が落ちるんですか!?」
「明智殿」
久秀はニヤリと怪しく微笑み、光秀の晴れやかな顔を指差した。
「先ほどご自身でおっしゃったでしょう。『ようやく解放される』と」
「……え?」
「『平蜘蛛』の動力源は、明智殿の抱える【哀しみ】のエネルギーです。評判が広まって売り上げが伸び、赤字が解消され、明智殿の心が平穏を取り戻した結果……供給される【哀しみ】のエネルギーが激減したのですよ」
「……は?」
光秀の思考が固まる。久秀は平然と数値を叩いた。
「現在の出力では、明日の『漆黒の涙』の超高圧抽出は不可能ですな。せいぜい、ただの薄いアメリカンコーヒーが限界かと」
「な……なんだとぉぉぉッ!?」
光秀の叫びが店内に響き渡る。
「客が戻る → 売上が上がる → 私が安心する → 【哀しみ】が消える → 平蜘蛛が動かなくなる → また客が離れる……って、なんですかその悪魔の永久機関はァァァッ!?」
「ガハハハハハッ! なんだ光秀、そんなことか!」
カウンターの端でビール缶を握りつぶした信長が、大爆笑しながら光秀の肩を力まかせに叩いた。
「簡単な話じゃねえか! お前が安心するから圧が消えるんだ! だったら、俺の料理をさらに進化させる環境を作ればいい!」
「はい!?」
信長はギラギラとした熾火の目を輝かせ、厨房の壁をドカンと蹴り飛ばした。
「明日から『喫茶本能寺』の厨房を二倍に拡張するッ! こんな狭い厨房では、俺の納得する新メニューの試作に足りん! 最高の料理を作るための空間を広げるぞ! そのために、家康からさらに融資を取り付ける!」
「しゃ、社長ぉぉぉッ!? 何を言ってるんですか! 厨房の拡張!? さらなる借金!? せっかく返済の目処が立ったのに、また地獄へ逆戻りじゃないですかァァァッ!!」
「そうだ! その【哀しみ】だ! 見ろ、平蜘蛛が応えているぞ!!」
信長が歓喜の声を上げる。
瞬時に、『平蜘蛛』の圧力ゲージが『ガコンッ!』と音を立てて跳ね上がった。
過酷な借金と暴走するオーナーへの絶望から、光秀の胸の奥で急速に練り上げられた極上の【哀しみ】が、直接炉心へと注ぎ込まれたのだ。
ブオォォォォン……ッ!
不気味で頼もしい重低音が厨房に蘇り、ノズルから再び芳醇で切ない香気が噴き出す。
「見ろ! 圧力が戻ったぞ! これでまた新しい料理が試せる! ガハハハハ!」
「嬉しくねえええええッ!! 私の胃痛と人生を店のインフラにするなああああッ!!」
頭を抱えてのたうち回る光秀。
その横で、客席の灰皿を拭いていた秀吉が、どこかすがすがしくも遠い目をして、そっと光秀の肩に手を置いた。
「……明智殿。ようこそ……『こちらの世界』へ。俺も昔は、自分の悲鳴が厨房の火種にされてるって気づいた時、夜通し泣きましたわ……」
「先輩ヅラして慰めないでくださいよッ! 仲間意識持たれても全然嬉しくないですからね!!」
本能寺の料理が進化すればするほど、光秀の人生だけが、ゆっくりと退化していく。
だが、この時誰も気づいていなかった。
道路を挟んだ向かい側――超モダンなガラス張りの『本願寺カフェ』の二階テラス席から、白のロングコートを纏った男・本願寺顕如が、冷徹な視線で少しずつ伸び始める本能寺の行列を見下ろしていることに。
「……口コミで確実に巻き返してきましたか」
顕如はソーサーにコーヒーカップを優雅に戻すと、手元の超軽量タブレットを操作した。
「なるほど……あの圧力。従来の急変動しやすい【怒り】ではなく、より安定した感情エネルギーへと特化させたのですね。それに合わせて、料理そのものまで進化させてきた……。ふっ、やはり織田社長、あなたという人はそうでなくては……!」
顕如の瞳に、知的な歓喜と純粋な闘志の火が灯る。
「ですが、職人の技術だけでは、いずれ供給の限界が訪れる。……頼廉」
「はっ」
背後に控える下間頼廉が深々と頭を下げる。
「セントラルキッチンおよび急速冷凍設備の導入を繰り上げなさい。『ヒートクック』のマルチチャンネルをフル稼働させ、待ち時間を極限まで削った、大量供給体制を構築します」
顕如の眼鏡の奥で、理性の炎が静かに揺らめいた。
「料理人の執念か、システムの完璧さか。……本当の勝負は、ここからです」




