第19話「至高の一杯」
第19話「至高の一杯」
深夜。翌日の営業再開を控えた、喫茶『本能寺』の厨房。
平蜘蛛の不気味な八本の脚が、カウンターの床をしっかりと掴んでいる。
炉心からは『ゴォォォォ……』という低く重厚な駆動音が響き、圧力ゲージの針は【制限解除】された極限領域を指してピタリと静止していた。
「……圧力、安定。安全域を維持したまま、超高圧状態をキープしています!」
久秀がモニターを凝視しながら叫ぶ。
「明智殿の過酷な経営圧力から生み出される【哀しみ】のエネルギー……完全に平蜘蛛の炉心へと同期しました!」
「私を犠牲にして得る安定を誇らないでくださいッ!」
目の下に隈を作った光秀が悲鳴を上げる。
本願寺カフェとの激しい顧客争奪戦。
そして、日々の赤字。
光秀が胸の奥で噛み締める苦い哀愁が、皮肉にも平蜘蛛の圧力を完璧に保っていた。
カウンターの中央では、有楽斎が漆黒のネルフィルターを構え、微動だにせず平蜘蛛の抽出ノズルを見つめていた。
「有楽斎様……いけますか?」
光秀がおそるおそる尋ねる。
「ええ」
有楽斎は静かに頷いた。
「これまでの珈琲抽出は、時間の作業でした。湯が粉を通り、成分が染み出すのを待つ。……ですが、この『平蜘蛛』が生み出す超高圧は、時間そのものを圧縮する」
有楽斎の手が、平蜘蛛の抽出コックへと伸びる。
「豆が抱く一生の時間を、わずか数秒で引き出す……。まいります」
コックが捻られた。
プシューーーーーーーーーッ!!
白い蒸気が一気に噴き出す。
同時に、濃密な漆黒の液体が極細の糸となってデミタスカップへ落ちた。
わずか三秒。
室内全体に、これまで誰も嗅いだことのないような、甘く、深く、どこか切ない香りが急速に満ちていった。
「な……なんだ、この香りは……!?」
信長が缶ビールを握りしめたまま、目を丸くする。
カップに注がれたのは、鏡のように深く澄み渡った漆黒の珈琲。
その表面には、超高圧抽出によって生まれたきめ細やかな黄金色のクレマが厚く漂っていた。
有楽斎は静かにカップを持ち上げ、信長の前へ差し出した。
「お召し上がりください、兄上。『平蜘蛛』によって抽出された、至高の一杯です」
信長は一言も喋らず、力任せにカップを奪い取ると、一気に口へ運んだ。
「…………ッ!?」
信長の身体が、ガクリと固まった。
「し、社長!?」
光秀が青ざめる。
信長は目をカッと見開いたまま、動かない。
その瞳の奥で、無数の感情が渦巻いていた。
「……酸味が先に来て、それから濃厚な甘味が追いついてくる」
信長は舌の上に残る珈琲を噛み締めるように、ゆっくりと息を吐いた。
「しかも、苦味が消えねえ。いや……消えないんじゃねえ! 力強い苦味が、最後まで味の圧倒的な土台として残ってやがる……ッ!」
「お気づきになりましたか」
有楽斎が静かに眼鏡のブリッジを押し上げる。
「過剰な熱で豆を焼くのではなく、極限の圧力で豆の奥に眠る風味を一瞬で引き出す。苦味とは傷であり、過去です。……だが、それを超高圧で穿った先にしか存在しない、真の甘みがある」
「……美味い。美味すぎるぞ、長益ッ! なんだこれは……!」
信長はデミタスカップを握りしめたまま、自身の胸を強く掴んだ。
「俺は……料理を急ぎすぎていたのか……?」
誰も口を挟まない。
「強火で焼けば、もっと美味くなると思っていた。だから第一世代では火力ばかりを追い求めた……だが違う! 料理は、火力だけじゃねえ……! 圧力、時間、温度……! まだ俺の知らねえ料理のやり方が、こんなところにあったのか……ッ!!」
信長ほどの男が、新しい料理の可能性の前に少年のように瞳を輝かせて震えていた。
「この深い黒……そして、舌にまとわりつくノスタルジックな後味。まるで、過酷な圧に耐えかねて流れ落ちた……光秀の涙そのものだな」
信長はデミタスカップの底に残る一滴を見つめ、不敵な笑みを口元に刻んだ。
「決まったぞ。この珈琲の銘は――『漆黒の涙(ティアーズ オブ ミツヒデ)』だッ!」
「カッコいい名前みたいに言ってますけど、完全に私のトラウマを商品名にしてますよね!?」
「最高の味には、最高の名前が必要だからな!」
光秀のツッコミを信長は豪快に受け流した。
「……久秀殿」
光秀が涙目になりながら、気を取り直して震える声で尋ねる。
「この圧力……料理にも使えますか?」
「クックック……! 愚問ですな、明智殿!」
久秀がニヤリと笑い、平蜘蛛の側面に設置された超高圧調理チャンバーを叩いた。
「珈琲の極限抽出ができるということは、食材の細胞構造へ短時間で熱と味を行き渡らせることも可能ということ! ナポリタンの極上仕込み、角煮の瞬時軟化……信長殿の『料理への執念』を、この『圧の狂気』が完全に補完するのですよ!」
「ガハハハハハッ!」
信長が突然、天井を仰いで爆笑し始めた。
「素晴らしいッ! 素晴らしいぞ長益、久秀! そして光秀ッ!!」
「私ですか!?」
「おうともよ! お前のそのネチネチとした質の良い【哀しみ】のおかげで、今まで火力だけでは届かなかった領域へ俺の料理が進化できるのだからな!」
信長は空のデミタスカップをカウンターへ叩きつけると、ギラギラとした料理人の瞳で一同を見渡した。
「明日から『喫茶本能寺』の営業を再開する! 目玉は、この『漆黒の涙(ティアーズ オブ ミツヒデ)』と、超高圧で仕込んだ新生ナポリタンだッ!」
「お、営業再開……!」
光秀の目が輝く。
「隣の『本願寺カフェ』の顕如の奴にも食わせてやるのだ!
あいつがどんな料理を出してくるのか、俺も気になっていたところだ!
さあ顕如! お前の料理を食わせてみろ! 俺の『漆黒の涙』と、どちらが客の舌を唸らせるか――勝負だッ!」
「だーかーら!」
光秀が頭を抱える。
「売上が戻ったら私の哀しみが減って、平蜘蛛の圧力が下がっちゃうんじゃないですかァァァッ!?」
「その通りですな」
久秀が平然と頷いた。
「……だったら、どうするんですか!?」
光秀の顔が引きつる。
久秀は平蜘蛛を見上げ、ニヤリと笑った。
「そこは……これから考えましょう」
「考えてないんじゃないですかァァァッ!!」
光秀の悲鳴が、深夜の清須の町へと空しく響き渡った。
だが――。
平蜘蛛の八本の脚は、まるで意思を持つかのように重々しく床を掴んでいる。
来るべき営業再開と、本願寺カフェとの決戦の朝に向けて。
その炉心は、静かに、しかし力強く唸り続けていた。




