第17話「珈琲と哀しみ」
第17話「珈琲と哀しみ」
翌日から、光秀の過酷な「珈琲修行」が始まった。
朝。
まだ客のいない『如庵』の厨房で、光秀は手元のネルフィルターを見つめ、脂汗を流していた。
「違います、明智殿。湯の落とし方が早すぎる」
カウンターの横で、有楽斎が冷徹な声で指摘する。
「ネルの中心、わずか一センチの円の中に、点滴のように湯を落とすのです。焦って湯を太くすれば、粉の壁が崩れ、雑味が抽出されてしまう」
「は、はいッ……!」
光秀は息を止め、細い注ぎ口から落ちる湯をミリ単位で制御しようと、全神経を研ぎ澄ませる。
「珈琲とは、時間をかける作業ではありません」
有楽斎は静かに続けた。
「豆が抱く『時間』を、静かに引き出す作業なのです」
「……時間を、引き出す……」
仕込みの合間を縫って犬山へ通う日々が続いた。
手首は痺れ、目の下にはくっきりと隈ができていた。
だが、弱音を吐いている暇はない。
本能寺を守るためにも、この暴走する共同開発プロジェクトを完遂させなければならないのだ。
正午を回る頃。
ガラガラと引き戸が開き、三組の客が立て続けに入ってきた。
一組目は、いつものカウンターの端へ腰を下ろす老紳士。
二組目は、旅の途中で立ち寄ったような若い女性客。
そして三組目は――。
「ウキー! ウキキッ!」
サロンエプロンを身につけた毛並みの良い一匹のニホンザルが、手慣れた足取りでカウンターの丸椅子へ飛び乗った。
光秀が目を丸くする。
「えっ……お、お猿さん!?」
「常連のモモ吉くんです。市内にある日本モンキーセンターから、散歩がてらよく来られるのですよ」
有楽斎は何事もないように微笑むと、木製トレイに乗せた浅煎り豆の小さなボウルをモモ吉の前へそっと置いた。
モモ吉は「ウキッ」と嬉しそうに鳴き、豆の香りを愛おしそうに嗅ぎ始めた。
有楽斎は続いて老紳士へ向き直る。
「いつもの『深煎り』ですね」
「ああ、頼むよ」
手際よく豆が挽かれ、ネルが構えられる。
その所作には一切の無駄がなく、まるで深山幽谷で茶を点てる茶人そのものだった。
やがてデミタスカップに漆黒の珈琲が注がれ、老紳士と女性客の前へ置かれた。
老紳士はカップを両手で包み込み、ゆっくりと一口含んだ。
「……ふぅ」
長い、長い息が漏れた。
老紳士は目を閉じたまま、遠くを見るような表情を浮かべる。
「……美味いなぁ。この苦味を味わっていると……昔のことを思い出してしまうよ」
ぽつりと呟き、カップへ視線を落とす。
「ここで妻と初めて出会った頃のことや……先年逝った妻の笑顔までね。……苦くて、寂しくて……でも、どこか温かい」
老紳士の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
隣の女性客も、カップを愛おしそうになぞりながら低く呟く。
「わかります……。故郷を離れて一人で働いていると、この苦味が胸にしみて……戻れない日々を思い出して、泣きそうになりますね……」
さらに――。
浅煎り豆の香りを嗅いでいたモモ吉が、ふいに動きを止めた。
「……ウウッ」
小さな声を漏らす。
その姿は、どこか寂しげだった。
光秀は息を呑んだ。
(料理で腹を満たすのではない……)
(この珈琲が、人間だけでなく動物の感情にまで作用している……!?)
「見たかね、明智殿」
有楽斎が静かに語りかける。
「喜びや楽しさは、外へ向かって弾ける感情です。ですが、珈琲の本当の深みは……胸の奥へ、静かに沈み込んでいく『哀愁』にある」
「内へ……沈み込む……」
「ええ。珈琲の苦味とは、忘れたくても忘れられない記憶に、どこか似ているのですよ」
その時だった。
壁際のテーブル席で、怪しげな測定器を弄んでいた久秀が、ガバッと立ち上がった。
「これだ……!!」
ボサボサの白髪を振り乱し、メガネの奥の目をギラギラと輝かせた久秀が、カウンターへ駆け寄ってくる。
「これですよ、有楽斎殿ッ!!」
「久秀殿!? なんですか突然!」
光秀が思わず身構える。
久秀は店内全体――老紳士、女性、そしてモモ吉の周囲に漂う空気へ手をかざし、手にしたインジケーターを二人へ突きつけた。
針が大きく振れている。
「見なさい! これが、私が探し求めていた感情エネルギーだ!」
「【怒り】のエネルギーは、外へ向かって拡散し、爆発する! だから第一世代本能寺オーブンは制御不能になり、最終的に店を焼き払った!」
「うっ……」
光秀の脳裏に、燃え上がる本能寺の姿が蘇る。
「だが……この【哀しみ】のエネルギーは違う!」
久秀は測定器を握りしめる。
「【哀しみ】は外へ拡散するのではない。内へ、内へと沈み込む!」
その目が狂気に輝く。
「エネルギーが外へ逃げず、内側へ収束していく――! この性質なら、高圧力容器である『平蜘蛛』の内部に、エネルギーを安定して閉じ込められる可能性がある!」
有楽斎が眼鏡を押し上げる。
「……つまり」
「ええ! 【怒り】が外へ放出されるエネルギーなら――【哀しみ】は、内へ収束するエネルギーだ!」
久秀は設計図を指差した。
「平蜘蛛は、その収束したエネルギーを圧力へ変換する! 珈琲が呼び起こすノスタルジー、過去への哀愁……それこそが『平蜘蛛』を動かす新たな動力源になり得る!」
光秀は鳥肌が立つ思いだった。
信長様の『料理への狂気』。
有楽斎様の『珈琲への美学』。
そして久秀殿の『科学への狂気』。
その三つが――【哀しみ】という感情によって、一つの装置へ繋がろうとしている。
光秀は自分の両手を見つめた。
有楽斎の指導のもと、何度もネルを振った手。
「……久秀殿。その【哀しみ】を使えば……『平蜘蛛』は完成するんですね?」
久秀はニヤリと笑った。
「完成する可能性は、格段に高まりました。科学者として断言するには、まだ実験が足りませんからな」
「わかりました……! 僕も、もっと修行します!」
光秀は有楽斎を見つめる。
「有楽斎様の珈琲を、もっと理解します。珈琲が人の心に何を呼び起こすのか――僕自身の舌と目で確かめます!」
そして、深く頭を下げた。
「必ず『平蜘蛛』を完成させてみせます!」
「……ほう。良い目になりましたね、明智殿」
有楽斎の口元に、初めて満足そうな笑みが浮かんだ。
こうして――。
超高圧調理器『平蜘蛛』の新たな動力候補となる、【哀しみ】の感情エネルギーが発見された。
だが、それが本当に平蜘蛛を安定して動かせるのか。
そして、その巨大な圧力を、本当に人間が制御できるのか。
まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――。
料理狂、珈琲狂、そして科学狂。
三人の狂気が、ついに一つの装置へ集まり始めたことだった。




