第五章:第二世代本能寺システム開発!! 第15話「狂気の産物とホワイト企業の壁――『本願寺では使えない』」
第五章:第二世代本能寺システム開発!!
第15話「狂気の産物とホワイト企業の壁――『本願寺では使えない』」
「……いらっしゃいませ。特製本能寺ホットサンドと、平蜘蛛エスプレッソ『漆黒の涙』のセットですね。かしこまりました。ただいまお持ちいたします……」
焦点の定まらない、深淵の闇のような瞳。
一切の無駄を省いた、機械のごとき正確無比なオペレーション。
喫茶『本能寺』の厨房で、店長である明智光秀は、かつてないほどの静寂と効率をもって働き続けていた。
光秀の両手には、研究開発部長・松永久秀が開発した『生体エネルギー抽出手袋』が装着されている。そこから伸びた黒い太いケーブルは、禍々しいフォルムを誇る巨大な茶釜型超高圧抽出機『平蜘蛛』へと直結されていた。平蜘蛛の有効範囲内で、光秀の心に「哀しみ」が生まれるたび、それを本人が自覚するよりも早く即座に吸い上げ、極上のコーヒー成分へと変換し続けているのだ。
「光秀殿ォォォッ! アカン、アカンて! 頼むから元に戻ってくれェェェッ!」
隣で同じく手袋を装着され、第二世代本能寺オーブンに接続されている万能バイトリーダー・羽柴秀吉が、涙目で絶叫する。
秀吉の手袋はオーブンへ、光秀の手袋は平蜘蛛へ。二人の感情は、それぞれ別々の設備へと休むことなく吸い上げられていた。
「いつもの『こんなブラック企業辞めてやる!』って泣き叫ぶ光秀殿が恋しいわ! 今のアンタ、まるで感情を失ったサイボーグみたいになっとるやないか!」
「……秀吉。無駄口を叩いている暇があるなら、3番テーブルのバッシングに向かいなさい。私はあと十秒でこのエスプレッソの抽出を終え、続けて5番テーブルのオーダーに取り掛かりますから……」
「ヒィィィッ! 声のトーンが一定すぎる! 怖い! 逆に怖いッ!」
かつて、この厨房には光秀の悲鳴とツッコミが絶え間なく響き渡っていた。
理不尽なオーナーの要求、暴走する各部署の武将たち、そして終わりの見えないサービス残業。それらに対する光秀の「怒り」と「哀しみ」こそが、この店のBGMであり、ある種の人間らしさの証明であった。
しかし現在、平蜘蛛によって「哀しみ」を物理的に吸い上げられ、美味しいコーヒーのダシに変換されてしまった光秀は、疲労による苦痛も、借金の重圧も、己の不幸に対する嘆きも、すべてを感じなくなってしまっていたのだ。
「素晴らしい……! 実に素晴らしいぞ、松永!」
厨房の入り口で腕を組み、その異様な光景を眺めていた絶対的オーナー・織田信長が、腹の底から湧き上がるような高笑いを上げた。
「見よ、あの光秀の無駄のない動きを! 余計な感情が消え失せたことで、純粋な労働機械として完璧な仕上がりを見せておる! まさに一石二鳥、いや、一石十鳥の完璧なシステムよ!」
「もったいないお言葉です、オーナー」
白衣を纏った松永久秀が、うやうやしく一礼する。
「『哀しみ』という感情は、本来労働において著しく生産性を低下させる不要なバグです。それを平蜘蛛によって吸い上げ、商品価値へと変換する。労働者は哀しみを忘れ、会社は利益を得る。これこそが、私が追い求めた究極の『救済』なのです」
「救済の定義が狂っとるわァァァッ!」
秀吉がフライパンを振り回しながら吼えた。
「なんやその、ディストピアSFの悪役みたいな理論は! 光秀殿は今、無理やり感情を麻痺させられとるだけや! 人間の心から哀しみを奪ったら、アカンやろ!」
「……問題ありません、秀吉」
光秀が、虚ろな目のままコーヒーカップをソーサーに乗せた。
「哀しみがないということは、苦しくないということです。苦しくないのだから、私はあと百時間は連続で働けます。足利金融への三千万円の借金も、年利十五パーセントの利息も、こうして心を無にしてコーヒーを淹れ続ければ、いつかは返せる……そうでしょう?」
「あかん、完全に洗脳されとる!」
秀吉は耐えきれず、叫んだ。
「光秀殿! ちょっと気分転換にフロアの様子見てきてくだされ! あの奥の7番テーブル、下げ膳が残っとります!」
「……了解しました。直ちにバッシングに向かいます」
光秀は手袋を装着したまま、ケーブルを引きずりながら厨房を出て、客席へと歩き出した。
三歩、四歩、五歩。
平蜘蛛から一定の距離離れた、その時だった。
「……ッ!? はっ!」
突然、光秀の虚ろだった瞳に強烈なハイライトが戻った。
「な、なんだこれは!? 凄まじい疲労感! 肩と腰が鉛のように重い! そして迫り来る足利金融の返済日の強烈なプレッシャー! なぜ私はこんな地獄のような場所で、時給も出ないサービス残業を……ウワァァァッ! 辛い! 私の人生、真っ暗だァァァッ!」
光秀がその場に膝をつき、頭を抱えて絶叫し始めた。
「光秀殿ォォッ! 感情戻ってきたァァッ!」
「秀吉! 助けてくれ、胃が……胃が急に千切れそうに痛い! 借金が……三千万円の借金が重くのしかかってくるぅぅぅ!」
「ああ、言い忘れていました」
松永が白衣のポケットに手を入れながら、淡々と説明する。
「手袋から伸びるケーブルの長さには限界がありましてね。抽出機本体から一定の距離――具体的には半径3メートル以上離れると、感情を吸い上げる効果が著しく減衰する仕様になっています。Bluetooth接続のような無線化は、莫大な研究費がかかりますから今回は断念しました」
「そんな大事なこと早く言えやァァァッ!」
「明智店長。嘆いていないで、早く戻ってきなさい。平蜘蛛の抽出圧力が下がってしまいます」
「くそっ、こんな狂った機械……絶対に外してやる……!」
光秀は這うようにして厨房へ戻ろうとする。
そして、平蜘蛛から半径3メートル圏内に入った瞬間。
ゴボァァァッ!
平蜘蛛が低く唸りを上げ、圧力メーターが一気に跳ね上がった。
「……というわけで、秀吉。お待たせしました。私はあと百時間連続で働けます」
すっと立ち上がった光秀は、再び深淵の闇のような瞳に戻り、何事もなかったかのようにスンッとしてエスプレッソマシンに向かった。
「温度差で風邪ひくわァァァッ!」
秀吉の悲鳴がこだまする。
「厨房を出たら絶望のドン底で、戻ったらサイボーグって! 感情の反復横跳びやめえ!」
「騒がしいですね、相変わらず」
フロアの隅で電卓を叩いていた財務担当・丹羽長秀が、銀縁の眼鏡を中指でクイッと押し上げて振り返った。
「稼働開始から数時間しか経っていないというのに、現在、客席回転率は従来の三倍に達しています。一杯あたりに使用する豆の量を従来の三分の一まで削減しながら、品質を飛躍的に向上させ、豆の原価率を驚異の一五パーセントにまで圧縮しています」
丹羽の冷徹な声が、店内に響く。
「さらに、明智統括の無駄な嘆きや休憩時間が実質的に消滅したことにより、人件費対効果は過去最高を記録。足利金融への第一回返済期日にも、十分に間に合うキャッシュフローが構築されつつあります」
「丹羽殿まで数字の亡者になっとる!」
「私はただ、会社の存続という絶対命題に従っているだけです」
丹羽はバインダーをパタンと閉じた。
「彼が人間性を喪失しようが、黒字になるのであれば問題ありません。むしろ、これほど効率的で素晴らしい設備があるのなら、なぜもっと早く導入しなかったのですか、松永殿」
丹羽の極めて合理的な問いに対し、松永は少しだけ困ったような、しかしどこか見下すような薄笑いを浮かべた。
「お言葉ですが、丹羽殿。この『生体感情抽出システム』の構想自体は、私が喫茶『本能寺』へ戻ってくる前……隣の『本願寺カフェ』で研究開発部門のチーフをしていた頃から、すでに存在していたのですよ」
「なんだと?」
オーナーの信長が片眉をピクリと動かした。
「貴様、あの忌々しい本願寺で、すでにこの平蜘蛛やオーブンのプロトタイプを作っておったというのか?」
「ええ。研究資金は本願寺から出ました。ですが、このシステムの設計思想と根幹となる理論式は、すべて私の頭の中にある。ならば、私がこの頭脳ごと別の場所へ持っていくのは当然のことでしょう?」
松永は悪びれる様子もなく、不敵に笑って認めた。
「ちょっと待てや!」
秀吉が目を見開く。
「それなら、なんで本願寺はそのシステムを使ってへんのや! あっちもコレを使ってたら、ウチなんか一瞬で潰されてるはずやろ!」
「……簡単なことです」
松永は、やれやれと肩をすくめ、深い溜息を吐いた。
「**『本願寺では、私の望む使い方ができなかった』**からです」
【回想:数ヶ月前――本願寺カフェ・地下研究施設】
白く清潔な壁に囲まれた、塵一つない無菌室のような巨大な研究室。
そこには、現在の『第二世代オーブン』と『平蜘蛛』の原型となる、銀色に輝くスタイリッシュな試作機が二台置かれていた。
その前に立っているのは、本願寺カフェのマスター・本願寺顕如と、統括執事の下間頼廉。そして、当時本願寺の白衣を着ていた松永久秀である。
『マスター。これが私の提唱する新理論……人間の負の感情エネルギーである「怒り」と「哀しみ」をダイレクトに抽出・変換し、製品のクオリティを極限まで高める画期的システムです!』
松永は自信満々にプレゼンを行っていた。
『さあ、実際に被験者を使って絶大な効果をお見せしましょう!』
松永に呼ばれ、一人の本願寺カフェの若手スタッフが実験台として椅子に座らされた。
彼の頭部と両手には、無数のセンサーと端子が取り付けられる。
『ふふふ……さあ君、心に渦巻く労働への不満、上司への怒り、そして終わりの見えない残業への哀しみを、この機械に存分に注ぎ込むのだ!』
松永がメインスイッチを入れる。
機械が起動し、メーターが作動した。
……しかし。
一分経っても、五分経っても、メーターの針は「ゼロ」付近をわずかに揺れるだけで、ピクリとも上向かなかった。
『な、なぜだ!?』
松永が機械をバンバンと叩く。
『なぜエネルギーが抽出されない!? 君、もっと絶望しろ! 労働の苦しみを呪え!』
『えっ、と……言われましても……』
若手スタッフは、センサーを付けられたまま困ったように頭を掻いた。
『僕、先週までリフレッシュ休暇で二週間ハワイに行ってまして。心身ともに絶好調なんですよね』
『は?』
『それに、本願寺カフェは完全週休二日制ですし、残業代は分単位で支給されますし、有給消化率も100パーセントですから。マスターも下間さんもすごく優しくて、毎日働くのが楽しくて仕方ないんです。怒りとか哀しみとか、最近全然感じたことなくて』
『な……ッ!?』
松永は驚愕に目を見開いた。
『なんだその甘ったれた環境は! 怒りや哀しみがなければ、私の機械が動かないではないか!』
松永は焦り、顕如と頼廉に詰め寄った。
『下間殿! もっと彼らを追い込みなさい! 理不尽なクレームを押し付け、ワンオペを強要し、休日に業務連絡のチャットを大量に送りつけるのです! そうすれば、たちまち極上の絶望が抽出できるはずだ!』
その言葉を聞いた瞬間、それまで静かに見守っていた顕如の瞳が、スッと冷ややかに細められた。
『……松永』
静かな、しかし絶対的な威厳を持った声だった。
『あなたは、私の大切な従業員を、機械の燃料にするために「意図的に不幸にしろ」と言っているのですか?』
『当然です! 極上の製品を作り出すためには、多少の犠牲は——』
『却下します』
顕如は冷徹に言い放った。
『労働法規の遵守と、従業員の心身の健康こそが、長期的な利益を生み出す最強の基盤です。従業員を使い潰すような焼き畑農業的な経営など、我が本願寺の美学に反する』
『なっ……!』
『ですが松永、君の技術力自体は高く評価していますよ』
頼廉が冷たく、事務的な口調で引き継いだ。
『君の作った機械は、一応有効活用させてもらっている。「怒り」を抽出するオーブンだが、抽出できるエネルギーがあまりにも微弱すぎて調理の火力には全く足りない。仕方がないので、現在は厨房の【食器乾燥機の熱源】の足しとして使っている。もちろん、それでも足りない分は通常の電力で補完しているがね』
『しょ、食器乾燥機の……足し!?』
『ええ。そして「哀しみ」を抽出する機械の方だが……一日に一滴抽出できるかどうかのドリップ量では、到底メニューとして提供できない。ただ、香りは非常に強いので、現在は【ホウ酸団子に混ぜてゴキブリ退治の誘引剤】として活用させてもらっている。効果は抜群だ』
『ゴ、ゴキブリ退治だとォォォッ!?』
松永は両手で頭を抱え、絶叫した。
『私の……世紀の発明が! ノーベル賞ものの感情抽出システムが、食器乾燥機と害虫駆除に使われているだと!? ふざけるな! そんな惨めな扱いがあるか!』
『仕方ありませんよ、松永』
顕如は静かに微笑んだ。
『我が本願寺には、君の機械をフル稼働させるほどの「怒り」も「哀しみ」も、存在しないのですから。君はこれからも、我が社の潤沢な資金を使って、そういった便利な小道具を作り続けてくれればいい』
『お、おのれ……!』
松永は白衣を強く握りしめた。
お金はある。最新の設備もある。しかし、このホワイトすぎる環境では、自分のシステムは一生陽の目を見ない。本願寺にいる限り、自分は歴史に名を残す狂気の科学者ではなく、ただの「普通の便利グッズ開発おじさん」で終わってしまう。
『こんな無菌室のような場所で、私の求める極限の研究ができるものか……!』
松永は血を吐くような思いで、本願寺の地下室を後にしたのだった。
【現在:喫茶厨房本能寺】
「――というわけです」
松永は、当時のことを思い出しながら、少しだけ遠い目をした。
「本願寺は、資金も設備も人材も申し分なかった。研究者としては、これ以上ないほど恵まれた環境でしたよ」
松永はそこで一度、平蜘蛛を見た。
「――ただし、『感情エネルギー抽出』という私の研究に関しては、話が別です。本願寺には、金がある。設備もある。優秀な人材もいる。だが、肝心の『怒り』と『哀しみ』が足りない」
松永は平蜘蛛の黒光りする表面を、愛おしそうに撫でた。
「対して、ここには金がない。安全性もない。労働環境も最悪だ。だが――研究材料だけは、世界一豊富にある」
「つまり……」
秀吉が嫌な顔をする。
「今の松永殿にとっては、本能寺の方がええってことか?」
「ええ。少なくとも、現在の研究テーマに関しては」
松永は即答した。
「ですが、勘違いしないでいただきたい。私は本願寺を完全に捨てたわけではありません」
「なんやて?」
松永は白衣の胸ポケットから、小さな手帳を取り出した。
そこには、本願寺と本能寺の研究環境を比較した細かな評価表が記されている。
「感情エネルギーの採取効率、本能寺が九十八点。本願寺が十二点」
松永は淡々と読み上げる。
「研究資金。本願寺が百点。本能寺が三十七点」
「設備。本願寺が九十六点。本能寺が五十四点」
「研究の自由度。本願寺が六十五点。本能寺が九十九点」
「そして――」
松永は、最後の項目に指を置いた。
「私の研究を、どこまで実際の成果に結びつけられるか」
そこだけは、本能寺が圧倒的な数字を叩き出している。
「本願寺、二十一点。本能寺、百点」
松永は満足そうに手帳を閉じた。
「ですから、現時点では本能寺を選びます」
「……現時点では?」
秀吉が嫌な顔をする。
「ええ」
松永は当然のように頷いた。
「研究環境など、いつ変わるかわかりませんからね」
「お前……今も天秤持っとるんか」
「当然でしょう」
松永は平然と答えた。
「本願寺には潤沢な資金がある。本能寺には、ここにしかない研究材料がある。どちらにも、それぞれ違った価値があるのです」
そして、平蜘蛛を撫でる。
「今の私に必要なのは、金ではなく『怒り』と『哀しみ』です。だから私は本能寺にいる」
一拍。
「ですが、次の研究に必要なのが莫大な研究費や最新設備なら――私は本願寺を選ぶかもしれません」
「ちょ、ちょっと待てや!」
秀吉の顔が引きつった。
「今、普通に『移籍するかもしれん』って言ったやろ!?」
「ええ」
「もっとこう……忠誠心とかないんか!?」
「ありません」
即答だった。
「研究者が、自分の才能を最も高く評価してくれる場所を選ぶ。それの何が悪いのです?」
「悪いとかやなくて……!」
秀吉は頭を抱えた。
「ウチ、今めちゃくちゃ金借りとるんやぞ!? そんな状態で『条件次第では本願寺に戻ります』とか言われたら、怖すぎるわ!」
松永はニヤリと笑った。
「だからこそ、面白いのでしょう?」
その目は、燃え盛る本能寺オーブンと、黒光りする平蜘蛛の両方を同時に見ていた。
「私は、常に最も面白く、最も価値のある場所にいる」
「そして今は――ここだ」
松永の指が、平蜘蛛の黒い表面を軽く叩いた。
「ただし、『今は』です」
「ガハハハハ! 聞いたか、顕如!」
そのやり取りなど意に介さず、信長が本願寺カフェのある方向へ向かって不敵に叫んだ。
「貴様らが持て余していた技術を、余は拾い上げたのだ! 倫理だの健康だのと甘っちょろいことを言ってゴキブリ退治にしか使えなかったものを、余は人間の魂を削ってでも稼働させ、最高のコーヒーを作り出したぞ! これぞ覇道! これぞ、織田信長の経営よ!」
「……光秀殿。ちょっとあそこの皿、取ってくれんか」
「……はい」
光秀が皿を取るために平蜘蛛から3メートル離れる。
「ウワァァァッ! やっぱり辛い! 辞めたい! 私の有給はどこへ行ったんだァァァッ!」
皿を渡して戻る。
「……お待たせしました。次は何を焼きましょうか」
「忙しないわァァァッ!!」
悲惨な労働環境と、それを麻痺させる機械。その反復横跳びがそのままダイレクトに製品のクオリティ向上に繋がるという、まさに悪魔の永久機関が完成していた。
【同時刻――本願寺カフェ・プレジデンシャル・オフィス】
静寂に包まれた最上階のオフィス。
壁一面の巨大モニターには、向かいの喫茶『本能寺』の周辺に渦巻く、目に見えないほどの凄まじい熱量と、異常な客足のデータがリアルタイムで表示されていた。
「……信じられません」
常に冷静沈着な下間頼廉でさえ、タブレットを持つ手にわずかな震えを隠せなかった。
「本能寺の売上と、提供される商品の品質スコアが、理論上の限界値を突破しています。あのコーヒー……成分分析をかけましたが、通常のドリップでは絶対にあり得ない密度の香味成分が検出されました」
「……あの技術を、松永が向こうで完成させたのですね」
高級な革張りのソファに腰掛ける本願寺顕如は、窓の外――どす黒い煙を上げる本能寺の屋根を見つめながら、静かに紅茶のカップを置いた。
「ええ。ですが――」
頼廉が眼鏡の奥の目を光らせる。
「いくら我が本願寺の設備と人材が優秀でも、人間の魂そのものを燃料にするようなルール無視の反則技を使われては、品質競争において不利に立たされる可能性があります」
「不利、ですか」
顕如は、ふふ、と優雅に笑った。
「ええ、その通りですね。織田信長は、ついに我が本願寺と同じ土俵……いや、あるいはそれ以上の高みに手をかけたのかもしれません」
顕如の口調は穏やかだったが、その瞳の奥には、かつてないほどの巨大な炎がチロチロと燃え上がっていた。
人間の魂を削る経営など、長続きするはずがない。信長の狂気を、自らの「正しさ」で完全に粉砕することにこそ、本願寺顕如の至上の喜びがある。
「マスター。いかがなされますか」
「全店舗の『祈り(オペレーション)』の出力を最大に上げなさい。スタッフには特別ボーナスを支給し、モチベーションを極限まで高めるのです」
顕如は、窓越しに信長の店を指差した。
「本能寺の悪魔のコーヒーなど、我が本願寺の完璧なるホワイトなホスピタリティの前に、泥水として浄化してご覧に入れましょう」
【再び、喫茶本能寺】
本願寺カフェが静かなる反撃の準備を進めていることなど露知らず。
喫茶本能寺の厨房では、依然として狂気の生産ラインがフル稼働していた。
「よしよし! 売上が止まらんぞ!」
信長が高笑いし、柴田勝家が次々と新規の客を放り込み、佐々成政が浅井農園の高級豆を絶え間なく運び込み、光秀と秀吉が心を無にしてそれを捌き続ける。
誰もが、目先の「圧倒的な成功」と「売上の向上」に目を奪われていた。
しかし。
平蜘蛛は、確かに光秀たちの『哀しみ』そのものを抽出していた。
だが、感情というものは、完全に消えて無くなるわけではないのだ。
抽出の過程で生じた、微小な、しかし重く冷たい感情の残滓。
「怒り」から生まれる、黒く焦げたような【怨】。
「哀しみ」から生まれる、粘りつくような【嗟】。
誰も気づかぬうちに、その二つの感情の残滓は、厨房の床に、換気扇の羽に、そして店舗の壁の隙間に、じっとりと黒い染みのようにこびりつき始めていた。
「……ん?」
一瞬、秀吉が背筋に悪寒を感じて振り返った。
壁の隅が、うっすらと黒く変色しているように見えた。
「なんや……? カビか……?」
「秀吉」
光秀の抑揚のない声が、秀吉を引き戻す。
「手が止まっています。次のオーダーのホットサンド、早く焼いてください。私はあと四百杯、エスプレッソを抽出せねばならないのですから」
「ヒィィッ! わ、わかっとるわ!」
秀吉は嫌な予感を振り払い、再びフライパンへと向き直った。
今はまだ、誰も気づいていない。
「怒」と「哀」を極限まで利益に変換し続けるこの『完全無欠のシステム』が、確実に施設全体に致命的な【怨嗟】を蓄積させているという事実に。
繁栄と引き換えの、最悪の地獄へのカウントダウン。
『喫茶本能寺』の黄金期と崩壊の足音は、止まることなく静かに、しかし確実に時を刻み始めていた。




