第16話「珈琲と茶人」
第16話「珈琲と茶人」
中部鉄道、犬山遊園駅を降り、静かな住宅街をしばらく歩いた先。
木曽川のせせらぎと竹林の緑に包まれた奥まった一角に、その店はひっそりと佇んでいた。
喫茶『如庵』。
数寄屋造りの洗練された平屋。
木製の小さな看板には余計な装飾など一切ない。
ガラガラと引き戸を開けると、芳醇で深みのある珈琲の香りと、心地よい静寂が本能寺の一行を迎えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥でネルドリップを構えていた男が、静かに顔を上げる。
白いシャツに黒のサロン。
整えられた髪に繊細な眼鏡。
その男こそ、信長の弟――織田長益。
もっとも、喫茶『如庵』の店主として客前に立つ時、彼は別の名を名乗っている。
「有楽斎と申します」
高名な茶人として知られる男――有楽斎だった。
「兄上……それに、明智殿ですね。家康殿から話は伺っています」
有楽斎は、信長の隣に立つ光秀へ視線を向けた。
「はい! お初にお目にかかります! 喫茶本能寺の店長、明智光秀と申します。……突然のお願いで恐縮なのですが、こちらの出資の件――」
「お断りします」
有楽斎は即座に言い切った。
「えっ!?」
光秀が目を丸くする。
有楽斎は眼鏡の奥の細い目を、信長へ向けた。
「兄上。貴方の料理狂ぶりは昔から知っています。ですが、貴方が作ろうとしているのは『料理のための超高圧炉』でしょう?」
「そうだ」
「私は料理に一切の興味がありません」
有楽斎は手元のカップをそっと光秀へ差し出した。
「私が求めているのは――至高の珈琲だけです」
「……珈琲」
「ええ。飲んでごらんなさい、明智殿」
光秀は両手でカップを受け取り、静かに口をつけた。
「……!?」
光秀の目が、カッと見開かれた。
一口含んだ瞬間、豊かな苦味とフルーティーな酸味が口いっぱいに広がる。
だが、それだけではない。
喉を通り過ぎた後、胸の奥から温かい、どこか懐かしい記憶のような余韻が、ふわりと込み上げてきた。
「美味い……!」
光秀は思わず声を漏らした。
「苦いのに、恐ろしいほど柔らかい……。後味も澄み渡っている……!」
「それが、私の淹れる『如庵ブレンド』です」
有楽斎は静かに胸を張った。
「豆の産地、農園の標高、焙煎の秒数、湯温、そして淹れ方。すべてを極限まで突き詰めて初めて、珈琲は飲む者の『心』を揺らす」
有楽斎はカップへ視線を落とした。
「私は茶人です。だからこそ、一杯の液体に妥協するつもりはありません。茶であろうと珈琲であろうと、それは同じことです」
そして、信長を見る。
「……兄上の大雑把な『強火』の料理と一緒にされたくはありません」
「なんだと……!?」
信長が目を剥き、パイプ椅子を鳴らして立ち上がった。
「俺のナポリタンのどこが大雑把だ!! 秒単位で火入れを見極めておるわ!!」
「ナポリタンと珈琲は違います、兄上」
有楽斎は一歩も引かず、静かに言い返した。
店内が一触即発の空気に包まれる。
その時。
端の席でパイプをふかしていた久秀が、くくくと楽しそうに笑い出した。
「いやあ、実に素晴らしい。料理狂の兄に、珈琲狂の弟……」
久秀はポケットから設計図を取り出し、カウンターへ滑らせた。
「ですが、有楽斎殿。貴方はまだ、この『平蜘蛛』の本当の用途を知らない」
「なに?」
有楽斎が設計図へ目を向ける。
久秀は指先で、図面の中央に描かれた炉心部分を軽く叩いた。
「超高圧調理器『平蜘蛛』は、単なる料理用の設備ではありません」
「では、何です?」
「感情エネルギーを動力として利用する――次世代の厨房設備です」
「……感情エネルギー?」
有楽斎の表情が初めて変わった。
「ええ。私は本願寺で『ヒートクック』の研究をしていました。感情エネルギーを一定の範囲内に制御し、安定したエネルギーとして利用する技術です」
久秀は設計図を指でなぞる。
「平蜘蛛では、その研究成果をさらに発展させる。感情エネルギーを炉の動力として利用し、超高圧状態を維持するのです」
「……なるほど」
有楽斎は設計図を覗き込む。
「それが、珈琲と何の関係が?」
「大いにあります」
久秀はニヤリと笑った。
「超高圧状態を利用すれば、通常の抽出では時間をかけて引き出す豆の成分を、極限まで短時間で抽出できる」
「……!」
「つまり――」
久秀は設計図を軽く叩いた。
「感情エネルギーを動力にした超高圧技術によって、珈琲の抽出そのものを、人間の技術では到達できない領域まで引き上げる」
有楽斎の目が細くなる。
「……私が求めている『至高の一杯』を、さらに先へ進められると?」
「可能性はあります」
「可能性……」
有楽斎は静かに設計図を手に取った。
「ならば、興味深い」
先ほどまでの冷淡な表情が、わずかに変わっていた。
それは、珈琲に取り憑かれた男の顔だった。
「兄上」
「なんだ?」
「この設備を完成させるつもりなのですね?」
「ああ。当然だ」
信長は即答した。
「料理も珈琲も、限界まで旨くする。それだけだ」
「……なるほど」
有楽斎はしばらく設計図を見つめていた。
そして――。
「いいでしょう」
「本当ですか!?」
光秀が身を乗り出す。
「一五〇万円の出資、お引き受けします」
「ありがとうございます!」
光秀の顔が一気に明るくなる。
だが、有楽斎は人差し指を立てた。
「ただし、条件があります」
「条件……?」
「この『平蜘蛛』は、料理だけのための設備にはしないこと」
有楽斎は設計図を指差した。
「感情エネルギーを動力として利用し、超高圧による珈琲抽出を実現すること」
「珈琲抽出……」
「ええ」
有楽斎は静かに頷いた。
「私は、本能寺のために投資するのではありません」
光秀が固まる。
「私自身の珈琲を、次の段階へ進めるために投資するのです」
その言葉には、一切の迷いがなかった。
「ですから、この条件だけは譲りません」
「……分かりました」
光秀は深く頭を下げた。
「必ず実現させます」
「そして――」
有楽斎の視線が、光秀へ向く。
「明智殿。貴方には今日から、私の元で珈琲の基礎を学んでもらいます」
「え……!? 私が……ですか!?」
「当たり前です」
有楽斎は腕を組んだ。
「開発プロジェクトの進行役である貴方が、珈琲の何たるかも理解していないようでは、真の『平蜘蛛』など完成しません」
「……!」
「いいですね?」
光秀は一瞬だけ戸惑った。
だが――。
「は、はいッ!! よろしくお願いいたします!!」
深々と頭を下げた。
こうして光秀は、本能寺の店長として。
そして、この暴走するプロジェクトの唯一のブレーキ役として。
「珈琲」という新たな深い世界へ、足を踏み入れることになった。
有楽斎が淹れたカップの底に残る、微かな苦味。
そして、胸の奥に残った――どこか懐かしい余韻。
光秀はまだ知らなかった。
この一杯の珈琲との出会いが、やがて本能寺の厨房に新たな感情を呼び込むことを。




