第14話「尖鋭化の代償」
第14話「尖鋭化の代償」
「――あと、二秒だ」
深夜二時。閉まり切った喫茶『本能寺』の厨房で、信長の低い声が響いた。
ボッ! と激しく立ち上がる青い炎。重い鉄のフライパンを煽る信長の腕は汗で濡れ、鋭い眼光はフライパンの中のナポリタンのひと粒、ケチャップの微細な気泡の弾け方だけに注がれていた。
「二秒早ければ、トマトのコクが立ち切らん。三秒遅れれば、パルミジャーノの脂が分離して香りが死ぬ。……このコンロでは、狙った火入れを維持できる時間が短すぎる」
信長は焼き上がったナポリタンを一口含み、目を閉じた。
「……チッ。一秒、遅れたか」
容赦なくゴミ箱へ放り投げられる至高の一皿。
横で電卓を抱えた光秀が、血の気の引いた顔で悲鳴を上げた。
「しゃ、社長ぉぉぉッ!? 今のナポリタン、横で見ているだけで卒倒しそうなほど完璧な香りと色合いでしたよ!? なぜ捨てるんですか! 食材費が! 試作の原価がどんどん積み上がっています!!」
「だーまーれー!! 妥協した一皿を出して何が『心を掴む』だ!!」
信長はビール缶を一気に煽り、ガツンとカウンターに叩きつけた。
「いいか光秀! 均一な『弱火』で客を呼ぶ本願寺に対抗するには、俺の『強火』を極限まで研ぎ澄ますしかない! フライパンの熱伝導、油の温度、ケチャップの焦がし……すべてを完璧な『一瞬』に叩き込む!!」
こうして、信長によるさらなる狂気の「尖鋭化」が始まった。
◇
翌日。昼のピークタイム。
「う、うひょぉぉぉぉッ!? なんじゃこりゃあぁぁぁッ!?」
常連の大吉が、一口食べた瞬間に椅子から転げ落ちんばかりに絶叫した。
「美味い……! 美味すぎるぞ信長ちゃん! 昨日のナポリタンも美味かったが、今日のやつは次元が違う! 麺の表面の香ばしさとソースの濃密なコクが、噛んだ瞬間に脳天まで突き抜けていく!!」
会社員の佐藤も、目を血走らせてフォークを動かしていた。
「信じられない……。一口ごとに味が変化していくようだ……! 焦げの苦味とトマトの甘みが、完璧な計算のもとで調和している! 向かいのカフェの綺麗な料理なんて、これに比べたらただの温かい離乳食だ!!」
カウンターに座るわずかな常連客たちは、さらに深く本能寺の味へとのめり込んでいった。
信長の企みは成功したかに見えた。
自らの技術を極限まで研ぎ澄ました一皿は、間違いなく客の心を激狂させ、唯一無二の「固定客」を生み出していた。
だが――。
ガラガラ、と引き戸が開き、一組の新規の客が入ってきた。
スーツを着た若い営業マンの二人組だった。
「へえ、向かいのカフェが混んでたから入ってみたけど、レトロでいい雰囲気じゃん」
「すみません、ナポリタン二人前で」
光秀が「いらっしゃいませ!」と笑顔で注文を受ける。
厨房で信長がフライパンを構えた。その表情は、まるで戦場に臨む武将そのものだった。
ボボボボボッ!!
凄まじい爆音とともに立ち上る青い炎。
信長は寸分の狂いもなく、秒単位のタイミングで材料を投入し、フライパンを激しく煽る。その気迫と、厨房から発せられる熱気と焦がしの香りは、狭い店内を圧倒的な圧迫感で満たした。
新規の営業マン二人は、思わず引いたように顔を見合わせた。
「ねぇ……なんか店主さん、めちゃくちゃ怖くない?」
「うん……なんか煙も凄いし、職人こだわり系? ちょっと失敗したかも……」
数分後、運ばれてきた『極限のナポリタン』。
一口食べた若い営業マンは、眉をひそめた。
「うわ、なんか……焦げの匂いが強すぎない? トマトも濃厚すぎて、ちょっと喉が乾くというか……重いな」
「だよね。向かいのカフェの、あのサッパリしたナポリタンの方が食べやすくて好きかも。量も多いし」
二人はナポリタンを半分以上残し、引き揚げるように会計を済ませて店を出て行った。
「……あ」
光秀は去っていく客の後ろ姿を見送り、力なくタブレットを覗き込んだ。
常連客はさらに熱狂している。だが、信長が味を「尖らせれば尖らせるほど」、ライトな新規客にとっては「重く、刺激が強すぎるマニア向けの料理」となり、新規の参入障壁はどんどん高くなっていたのだ。
そして――夕刻。
光秀はレジの売り上げデータをまとめ、重い溜息をついた。
本日の来客数、一四人。
売上高、一万五千四百円。
「……社長」
光秀は、厨房で荒い息をつく信長へ声をかけた。
「味を研ぎ澄ました結果、常連様のリピート率は完璧になりました。ですが……新規のお客様は定着せず、絶対的な客数は増えていません」
信長は無言でビールを飲んでいる。
「今月の決算が出ました。……三万六千円の赤字です」
店内に、冷たい静寂が降り積もる。
「料理は、過去最高に美味しくなりました。ですが、経営的にはジリジリと死に向かっています。……これが、味を尖らせたことの代償です」
光秀の静かな告白に、秀吉も悲しい顔でうつむいた。
信長は自分の右手をじっと見つめた。
フライパンを煽り続け、秒単位の火入れを見極め続けたその手は、微かに震えていた。
「……ちがう」
信長が低く呟いた。
「俺の腕が足りんのではない。俺が頭の中で思い描く『至高の火入れ』に……この厨房のコンロとフライパンが、ついてこんのだ」
「え……?」
光秀が目を見張る。
信長はガスコンロの青い炎を睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。
「あと一秒早く熱を通し、水分を逃がさずにコクだけを凝縮させる……! だが、普通のガスコンロの火力では、どれほど俺が腕を振るおうと、熱の伝導速度に物理的な限界がある!! 俺が望む料理を作るための『火』が……この厨房には存在せんのだ!!」
信長は自分の料理の腕に限界を感じていたのではない。
自らの天才的な料理思想に対し、ごく普通の調理器具(環境)が限界を迎えていることに気づいたのだ。
「……松永久秀」
信長がぽつりと、その名を呟いた。
「え……?」
光秀が顔を上げる。
「かつて【怒り】だけを燃料にするよう、第一世代本能寺オーブンを作ったあの男だ」
信長は遠い目をして、ギラギラとした熾火のような瞳で言った。
「あの炉には散々世話になった。火事で吹き飛ぶまではな。……だが、仮にあの第一世代が残っていたとしても、今の俺の料理にはもう足りん」
「……お待ちください、社長」
光秀が一歩、前へ出た。
「第一世代が足りないからといって……また新しい設備を作るおつもりですか!?」
「そうだ」
「しかし!」
光秀は、珍しく信長の言葉を強く遮った。
「昔とは違います!」
店内に、光秀の悲痛な声が響いた。
「第一世代本能寺オーブンを使っていた頃は、向かいに本願寺カフェなどありませんでした! 私たちは、ただ料理を出せば客が群がる時代にいた!」
光秀はレジ横のタブレットを強く握りしめる。
「ですが今は違う! 向かいには巨大な本願寺カフェがある! 駐車場も広い、席数も多い、メニューも豊富、Wi-Fiまである!」
一つ一つ、現実を突きつけるように言葉を重ねていく。
「その状況で、さらに怪しげな設備へ無謀な投資をするんですか!? 今月はもう三万六千円の赤字なんですよ!?」
信長は黙って光秀を見つめていた。
「これ以上、厨房設備に無用な投資をしたら……本当に店が持ちません。信長様の料理が美味しいことは、私だって分かっています。ですが……料理が美味しいだけでは、店は続かないんです!」
「……」
「第一世代のオーブンだって、最終的に炎上して店を焼いたではありませんか。あんな危険な代物――必要ありません!」
「……必要ない?」
「はい!」
光秀は必死に頷いた。
「必要なのは、新しい炉ではありません。もっと普通のお客様に来てもらうための工夫です! 信長様、お願いです。もう料理を尖らせるのをやめてください!」
その言葉に、信長はしばらく何も答えなかった。
やがて――。
「……断る」
「即答!?」
信長はガスコンロの青い炎を睨みつけ、力強く言い切った。
「光秀。貴様は、俺が料理を妥協すれば客が増えると思っているのか?」
「そういう意味では――」
「違う」
信長は静かに首を振った。
「俺の料理が足りないのではない。俺が頭の中で描いている料理を、この道具では表現できない。それだけだ」
「ですが……!」
「本願寺に客を奪われたから、料理を普通にする?」
信長は鼻で笑った。
「そんなことで本能寺が勝てるものか」
信長はかつて店舗を包み込んだ猛火の記憶を思い返すように、空中を一瞥した。
「第一世代は、怒りで火を起こした。ならば次は――俺の新たな料理思想に必要な力を、引き出せばいい」
「ま、まさか……」
「松永久秀を呼べ」
信長は不敵に口角を吊り上げた。
「俺が求める究極の調理環境――第二世代の炉を作らせる」
「社長ォォォォッ!!」
光秀の絶望的な悲鳴が、店内に響き渡った。
だが信長は、もう聞いていなかった。
彼の頭の中にはただ一つ。まだ誰も到達したことのない――「至高の一皿」を作るための、新しい厨房の姿だけが浮かんでいた。




