第13話「客の来ない特等席」
第13話「客の来ない特等席」
午後一時。昼のピークタイム。
道路の向かいにある『本願寺カフェ・清須店』の駐車場は、警備員の誘導灯が目まぐるしく振られるほど満車状態だった。
二階建てのガラス張りの店内には、小さな子どもを連れた若いファミリーや、ノートパソコンで作業をするビジネスマン、談笑する主婦層が溢れ、自動ドアが開くたびに心地よいBGMと賑やかな歓声が漏れ聞こえてくる。
一方――喫茶『本能寺』。
ガラガラ……と引き戸が開く音が、静かな店内に寂しく響いた。
「いらっしゃいませ!」
光秀がすかさず爽やかな声を張る。
だが、テーブル席はすべて空席。四つあるカウンター席のうち、埋まっているのは二つだけだった。
「よう、明智ちゃん。今日も暑いねぇ」
「これは常連の大吉さん! いらっしゃいませ。いつものですね?」
「おう、信長ちゃんのナポリタンとブレンド頼むよ。向かいのカフェかい? 行ってみたけどさ、綺麗だけどなんつーか広すぎて落ち着かねぇんだよな。やっぱり俺はここが一番だ」
カウンターの端に座るもう一人の常連・会社員の佐藤も、コーヒーカップを置きながら頷いた。
「わかります。向かいのカフェはコンセントもWi-Fiもあって便利なんですけど……料理の『熱』が違うんですよね。信長さんのフライパンを煽る音を聞きながら待つこの時間が、僕にとっては最高の『特等席』なんですよ」
カウンター奥の厨房で、信長が不敵に口角を上げた。
「……フン、分かっているではないか」
信長は無言でフライパンを握り、強火のコンロへかけた。
ボッ!! と一気に立ち上がる青い炎。自家製トマトソースと熟成パルミジャーノが熱せられ、香ばしい焦げた香りがカウンター越しにフワリと漂う。
「うひょー! これこれ、この香りだよ!」
大吉が目を輝かせ、出来上がったナポリタンにフォークを突き立てる。
熱々のパスタを口に運んだ二人は、至福の表情で目を見開いた。
「美味い……やっぱりここのナポリタンは段違いだ……!」
「この絶妙な焦げ目とコクは、向かいの店じゃ絶対に食えねぇよ!」
カウンターには、料理を頬張る客の笑顔が並んでいた。
信長の料理を目当てに来た客たちは、今日も満足そうに店を後にしていく。
――料理だけを見れば、何も問題はなかった。
しかし。
レジ横の影でタブレットを操作していた光秀の表情は、どこまでも暗かった。
(常連客は十分に満足してくださっている。食材ロスもほぼない。光熱費も人件費も、これ以上削る余地はない……)
光秀は画面に表示された本日の売上累計データを見つめ、胃のあたりをギュッと握りしめた。
(客単価は約一、一〇〇円。本日の来客数……わずか一二人。売上高、一万三千二百円……)
光秀の額から一筋の冷や汗が流れる。
(ダメだ……全然足りない!! 食材代と光熱費は何とか回収できる。だが、店舗の家賃と秀吉殿のお給料、設備維持費まで考えれば……利益などほとんど残らない……!)
「あ、明智殿……顔色が真っ青ですわ……」
ホールを拭いていた秀吉が、心配そうに光秀の元へ寄ってきた。
「秀吉殿……」
光秀は掠れた声で呟いた。
「うちの料理は、間違っていません。信長様の技術も本物です。常連様もこうして愛してくださっている……。なのに……なぜこんなに苦しいのでしょうか……!」
「明智殿……」
秀吉は困ったように眉をひそめ、向かいの巨大な『本願寺カフェ』を見つめた。
「向かいの店は、コーヒーを飲みながら仕事したい人も、子ども連れでゆっくりしたい人も、安く飯を食いたい人も受け止めとるんですな。ワシらは……料理そのものを楽しみたい人しか、拾えてへんのですわ……」
秀吉の言葉は、恐ろしいほど真理を穿っていた。
本願寺カフェは、街の圧倒的多数の人々のニーズを完璧に回収している。
本能寺は、残された「こだわりの強い人々」を熱狂させている。
『正当な評価』と『愛される料理』は得られている。
だが、店舗という固定費を抱えるビジネスにおいて、絶対的な客数の不足は、徐々に、しかし確実に首を絞めてくるのだ。
「……おい、光秀」
仕込みを終えた信長が、缶ビールを片手に厨房から出てきた。
「なんだその顔は。客は満足して帰っていったぞ。何が不満だ」
光秀はタブレットの画面を静かに信長に見せた。
「……社長。今日の利益は、ほとんどゼロです」
「……」
「先月はギリギリ黒字でした。ですが、今月はこのペースだと完全に赤字になります。家賃の支払いが滞れば、私たちはこの店を追い出されます」
光秀は信長の目を真っ直ぐに見つめた。
「美味しい料理を作ることと、店を存続させることは……違うんです。信長様がどれだけ『強火』の情熱を注いでも、食べてくれる客の数が足りなければ、この店は潰れます」
静まり返る店内。
第一部のように感情を爆発させて怒るわけでもない。ただ、静かな現実の重みが二人の間に横たわっていた。
信長は缶ビールを一口あおり、空席の目立つ店内と、そのカウンターで幸せそうにナポリタンを食べる数人の常連客を見つめた。
「……ふん。ならば、その一席を埋めるだけの料理を、もっと作ればいい」
「……一席ずつ、ですか?」
「そうだ。この店に残った客は、俺の料理を食うために、わざわざここへ来ている。ならば、俺の料理を食った奴の心を、一人ずつ確実に掴む。それを積み重ねれば、いつかこの店は満席になる」
信長はビール缶をカウンターにドカッと置くと、ギラギラとした鋭い眼光で光秀を見据えた。
「光秀。俺の料理を、もっと尖らせる」
「え……?」
光秀は何も言えなかった。
それが、本当に経営として正しいのかは分からない。
ただ――信長はもう、己の技術を極限まで引き上げる次の料理のことしか考えていなかった。




