第12話「強火と弱火、再び」
第12話「強火と弱火、再び」
「……買ってまいりました、社長」
夕刻。喫茶『本能寺』のカウンターに、光秀が白い紙袋をそっと置いた。
紙袋には、本願寺カフェの洗練されたロゴと『だれにでも、いつでも、変わらぬ至福と安心を』のキャッチコピーが印刷されている。
袋の中から出てきたのは、テイクアウト用の紙カップに入った『本願寺ブレンド』と、プラスチックケースに美しく収められた『朝焼きクロワッサン』、そして看板商品の『完熟トマトの特製ナポリタン』だった。
モップの手を止めた秀吉が、おそるおそる覗き込む。
「これが向かいのカフェの料理ですわ……見た目はめちゃくちゃ綺麗でオシャレですな」
光秀はレシートを見つめながら、力なく呟いた。
「これだけ買って、合計八百三十円です。うちならナポリタン一皿分にも満たない価格です……」
カウンターのパイプ椅子から、信長がゆっくりと立ち上がった。
缶ビールを置き、一切の無駄がない動作でテイクアウトの容器を受け取ると、まずはコーヒーの蓋を外し、静かに香りを嗅いだ。
「……香りに角がない。焙煎のブレが一切存在せん」
一口、飲む。
「……やはりな。抽出条件まで全自動で管理されておる。雑味がない。苦味も酸味も、すべてが計算された『中央値』に収まっておるわ。誰が淹れても、どの店で飲んでも、寸分違わぬ味が再現できる仕組みだ」
信長は続いて、フォークでナポリタンをひとくち口へ運んだ。
光秀と秀吉が息を呑んで見守る。
信長はゆっくりと噛み締め、目を閉じた。
静寂が店内を支配する。一秒が永遠のように長く感じられた。
やがて信長は目を開け、ぽつりと呟いた。
「……美味い」
「「えッ!?」」
光秀と秀吉の声が重なった。
信長の口から他店の料理に対する「美味い」という言葉が出るとは、夢にも思っていなかったのだ。
「し、社長!? 今『美味い』とおっしゃいましたか!?」
光秀が身を乗り出す。信長は静かに容器の中のナポリタンを見つめたまま、もう一度呟いた。
「美味いぞ、光秀。トマトの酸味が尖っておらん。甘みと旨味が重なって丸くまとまっておる。麺はセントラルキッチンで一次加熱された後、急速冷凍されて店舗に届く。それをスチームコンベクションで再加熱しておるため、茹で置きの伸びもなければ、生の芯残りもない。……100人食べれば、ほとんどの人間が『美味しい』と言うだろうな」
信長はナポリタンの容器をゆっくりとカウンターへ置いた。
「これが……顕如の言う『安心』だ。いつどこで誰が食っても、失敗がない。大きく外すこともない。誰もが安心して食える。完璧にコントロールされた『弱火』……平熱の美味さだ」
光秀は唇を噛み締め、膝の上に置いた拳を強く握りしめた。
「そんな……。徹底的にコストを削ったチェーン店の料理なら、粗悪で不味いと言ってくれた方が、どれだけ救われたか……! 相手は安いうえに、本当に『美味しい』だなんて……! これでは……うちの出る幕などないではありませんか……!!」
光秀の目から、一筋の悔し涙が零れ落ちた。
第一部の地獄のような炎上経営を生き延び、第8話から地道に築き上げてきた「普通の喫茶店としての正解」。
信長の天才的な技術と、自分の徹底的な経営管理。その両方が組み合わさった
『本能寺特製ナポリタン(1,100円)』は、味でも価格でも、この完璧なシステムに敗北しているのではないか。
「……美味い。だからこそ、気に食わん」
信長の声が、静かに店内に響いた。
光秀が顔を上げると、信長は静かに言った。
「あの料理は完璧だ。誰が食っても、きっと美味いと言うだろう」
信長は、カウンターに置かれたナポリタンを見つめた。
「だが、俺が作りたいのは、それだけじゃない」
信長は厨房へ入り、重い鉄のフライパンをガツンとガスコンロの上に置いた。
ツマミをひねる。
ボッ!!
青い炎が勢いよく立ち上がり、フライパンの底を包み込んだ。
「万人を安心させる料理を作る必要はない。俺の料理を食った奴が――『また食いたい』と思う。一度食った奴の心を掴む料理を作る。それで十分だ」
信長は炎を見つめながら、静かに笑った。
「本願寺が万人を安心させる料理を作るなら、俺は一度食った奴の心を掴む料理を作る」
光秀は息を呑んだ。
信長は本願寺カフェを否定しているわけではない。
あれはあれで、ひとつの完成された正解なのだ。
ただ――自分たちが同じものを作る必要はない。
(そうだ……)
光秀は涙を拭った。
(本願寺には本願寺の正解がある。ならば、私たちは私たちの正解を貫けばいい)
「……わかりました、社長」
光秀は胸元のネームプレートを強く握りしめた。
「本願寺カフェの真似はしません。私たちは、この店でしか食べられない料理を守りましょう」
「そうですわ!」
秀吉もモップを強く握り直す。
「ワシらの料理を好きになってくれる客がおるなら、それでええんですわ!」
信長は満足そうに頷いた。
「フン……それでいい」
こうして、喫茶『本能寺』は自分たちの料理を捨てることなく、営業を続けることになった。
ただ――。
本願寺カフェの勢いは、衰えなかった。
朝から駐車場は埋まり、昼には行列ができる。
仕事帰りの客が立ち寄り、家族連れが休日の席を埋めていく。
一方、本能寺にも――それでも、客は来た。
「ここのナポリタン、やっぱり美味しいな」
「この焦げ目が好きなんですよ」
「また食べたくなって来ちゃいました」
信長の料理を気に入った客たちは、何度も店を訪れてくれた。
来てくれた客は、料理をきちんと注文してくれる。
信長の腕も衰えていない。
光秀の経営管理にも、大きな間違いはない。
それでも――。
「……明智殿」
秀吉が、レジ横のタブレットを覗き込んだ。
「今月の売上、どうですの?」
光秀はしばらく画面を見つめていた。
「……先月より、落ちています」
「えっ?」
「赤字ではありません。まだ、なんとか利益は出ています」
そこで光秀は、一度言葉を切った。
「ですが……このまま客数が減り続ければ、いずれ利益は消えます」
店内を見渡す。
空席のほうが多い。
それでもカウンターには、信長の料理を待つ常連客が数人いる。
「……美味しい料理を作ることと、店を繁盛させることは、同じではないんですね」
光秀の呟きに、信長は答えなかった。
ただ、鉄のフライパンを握り直した。
本願寺カフェは、街に根を張り始めている。
そしてその影は、少しずつ、確実に――喫茶『本能寺』へ伸びていた。




