第四章:大増員と縦割り組織の誕生 第10話「【明智光秀】中間管理職の憂鬱と第一回経営会議」
第四章:大増員と縦割り組織の誕生
第10話「【明智光秀】中間管理職の憂鬱と第一回経営会議」
「……重い」
翌朝。
開店一時間前の、まだ薄暗く静まり返った喫茶『本能寺』のバックヤード。
表のフロアは金屏風と提灯という、戦国時代と現代が正面衝突して大事故を起こしたような悪趣味な装飾が施されているが、この裏方の小部屋だけは違った。殺風景なグレーの鉄製パイプ椅子と、冷たい質感の事務机、そして無機質なロッカーだけが置かれた、いかにも裏方といった空間である。空気は冷え切り、換気扇の低い駆動音だけが単調に響いている。
その薄暗い部屋の中心で、店長・明智光秀はパイプ椅子に深く腰掛け、事務机の上に置かれた分厚いクリアファイルを血走った目で睨みつけながら、地の底から這い出るような深いため息をついた。
中身は、財務担当として着任したばかりの丹羽長秀が、昨夜から徹夜でまとめ上げた、新規設備導入のための融資申請資料である。
その一番上。何十枚にも及ぶ分厚いファイルの表紙には、提出先となる金融機関の名前が、嫌がらせのように仰々しい極太の明朝体で印字されていた。
――『株式会社 足利金融 御中』。
「…………」
その四文字を見るだけで、光秀の胃が、きゅう、と嫌な音を立てて激しく縮み上がった。
昨日の営業終了後。
社長である織田信長から、実質的な絶対命令が下された。
『現在の一人依存型厨房設備を脱却し、並列処理を可能とする第二世代本能寺システムを開発しろ。そのための莫大な設備投資資金を、足利金融から引っ張ってこい』
命令の内容自体は、企業経営という観点から見れば極めて正しい。ぐうの音も出ないほどの正論である。
現在の本能寺は、営業本部長の柴田勝家やホール責任者の前田利家らによる、もはや物理的な連行や脅迫に近い強引な集客によって、連日店舗の外に長蛇の列ができる異常な大盛況となっている。
しかし、そのすべてのオーダーを捌く心臓部である「厨房」が、万能バイトリーダー・羽柴秀吉ただ一人に完全に依存しているという、致命的かつブラックすぎる構造的欠陥を抱えていた。
昨日など、秀吉は両手にフライパンを持ち、頭に三つのタイマーを乗せ、足でエスプレッソマシンの抽出ボタンを操作し、口にレシートを咥えるという、千手観音もかくやという異常な状態に陥り、ついには白目を剥いてぶっ倒れてしまったのだ。
秀吉一人が過労で潰れれば、この店は即座に崩壊する。
店を――いや、過労死寸前まで追い詰められた秀吉を救うためには、システム化と機械化による「第二世代」への移行は、一刻の猶予も許されない不可欠な投資だった。
問題は、その数千万円規模となる融資の相談先である。
「……よりによって、なぜあそこなんですか……」
光秀は、震える手で資料を閉じた。
できれば二度と会いたくなかった、あの傲慢で底意地の悪い人間。できれば二度と関わりたくなかった、理不尽の極みのようなあの場所。それが今、自分から出向いて頭を下げ、数千万円という大金を借りに行かなければならない相手になってしまったのだ。
「……人生とは、本当にままならないものですね」
「何がです?」
「うわぁぁぁッ!?」
背後から突然かけられた冷徹な声に、光秀はパイプ椅子から数センチ跳び上がり、あわや後方へ転倒しかけた。
激しく動悸を打つ胸を必死に押さえながら振り返る。
そこには、銀縁眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせた丹羽長秀が、足音ひとつ立てずに立っていた。その右手には、机の上のものとは別に、さらに分厚い黒革のバインダーが抱えられている。
「丹羽殿……! 驚かせないでください。心臓が止まるかと思いましたよ。ノックくらいしてほしいんですが」
「開店まであと五十五分です。驚いて寿命を縮めている暇があるなら、経営会議の準備をしてください」
「経営会議? 会議なら昨日やったじゃないですか。我が社の赤字の原因は、各部署の過剰な部分最適の暴走だと……」
「原因の究明と、方針の決定は別です」
丹羽は小脇に抱えていた分厚いファイルを、ドサリ、と重い音を立てて光秀の前の机に置いた。
「数千万円規模の融資を申し込む以上、金融機関に対して『我が社は何を目指し、何に金を使い、どうやって利益を出し、どうやって確実に借金を返すのか』という論理的な事業計画を説明できなければなりません。適当な夢物語で数千万は貸してくれませんから」
「それは……まあ、そうでしょうね」
「ところが、昨日から各部署の責任者たちが、好き勝手に今後の『事業計画』と称する紙を提出してきているのです」
「……嫌な予感しかしません」
丹羽は一切の感情を交えない無表情のまま、ファイルを開いた。
「まず、営業部の案です」
一枚目。そこには半紙のような質の良い和紙に、極太の筆ペンで力強くこう書かれていた。
『客数、三倍』
「…………」
光秀は無言で天を仰いだ。
「柴田殿曰く、『客が三倍になれば売上も三倍だ。ガハハハハ!』とのことです」
「だからそれが捌ききれないから厨房が死ぬって、昨日結論が出たでしょうが!」
「私もそう言いました。しかし、『ならば気合で焼かせろ』と一蹴されました。次です」
二枚目。今度はチラシの裏に、乱暴な殴り書きでこう書かれていた。
『仕入れ量、五倍』
「佐々殿の案です。『まとめ買いすればするほど単価が下がる。一気に五倍買えば原価はタダ同然だ』とのことです」
「算数ができないんですか、あの人は! そもそも倉庫が死にます! 五倍のパンなんてどこに置くんですか! パンで圧死しますよ!」
「私もそう言いました。しかし、『気合で上に積め』と返されました。次です」
三枚目。伝票の裏に、異常なスピード感あふれる斜体で書かれている。
『配送速度、二倍』
「滝川殿です。『もっと高速道路とヘリコプターとチャーター便を自由に使わせろ。そうすれば速い』とのことです」
「物流費で会社が死にます! なぜ徒歩三分のご近所さんの出前にヘリコプターを使おうとするんですか!」
「私もそう言いました。しかし、『気合で飛べ』と返されました。次です」
四枚目。血文字のような赤いインクで、恐ろしい筆致で書かれている。
『クレーム、ゼロ』
「前田殿です」
「……客を物理的に沈黙させる気ですか?」
「そこまでは明記されていませんでしたが、先ほどバックヤードの隅で、巨大な槍の穂先を砥石で一心不乱に磨いていました。目の焦点は完全に合っていませんでしたね」
光秀は両手で顔を覆い、深く、絶望的な息を吐いた。
全員が、自分の部署の数字――KPIしか見ていない。
営業は客を呼ぶことだけを。購買は単価を下げることだけを。物流は速さだけを。ホールはクレームをなくすことだけを求めている。
各担当者の視点からすれば、どれも目標達成のための至極合理的な要求なのだろう。しかし、全体を繋ぎ合わせると完全に破綻している。典型的な「部分最適」の成れの果てだ。これでは会社というより、単なる欲望の寄せ集めである。
「……で、肝心の厨房は?」
光秀が恐る恐る尋ねると、丹羽が最後の一枚を差し出した。
そこには、ミミズが這ったような、今にも事切れそうな震える細い字で、たった一行だけ書かれていた。
『秀吉を三人にする』
「無理でしょうがァァァァッ!!」
光秀の悲痛な絶叫が、バックヤードに響き渡った。
「分身でもさせる気ですか!? 忍術の類ですか!? それとも本能寺の裏でクローン技術でも開発したんですか!?」
「本人にヒアリングしたところ、『三人に分裂できたら助かります……』とのことでした」
「本人が言ったんですか!?」
「はい。目は完全に死んでいましたが」
「それ、人員配置の相談じゃなくて、ただの限界労働者のSOSですよ! いますぐ救急車を呼んであげてください!」
「いずれにせよ」
丹羽は淡々とファイルを閉じ、銀縁眼鏡を中指でクイッと押し上げた。
「現状のままでは、とても銀行の融資申請書には書けません。『客を三倍にしてパンを五倍買ってヘリで運んでクレームを武力で封殺し、厨房の人間を細胞分裂させます』という頭の湧いた事業計画に、数千万を貸す金融機関はこの世に存在しません」
「当たり前です! 警察と精神科を呼ばれますよ!」
丹羽は冷静に続けた。
「だから、決める必要があります。我が社が、何を目指す会社なのかを」
「…………」
光秀は黙った。
昨日までの自分は、ただ目の前の問題を片っ端から処理していればいいと思っていた。
営業が客を呼ぶ。購買が食材を買う。物流が運ぶ。ホールが客を捌く。厨房が命懸けで料理を作る。自分はただ、その間を取り持って、ひたすら頭を下げて謝罪して回ればいいのだと。
しかし、その結果が――「売上絶好調・現金絶不調」という破綻寸前の現状だ。
『第二世代本能寺システム』という巨額の投資を行うなら、誰かがこのバラバラで狂った組織をまとめ上げ、一つの方向へと導かなければならない。
「……分かりました」
光秀はスーツのポケットから胃薬を取り出し、水も飲まずにボリボリと噛み砕きながら立ち上がった。
「第一回・本能寺経営会議を開きます。全員をフロアに集めて――」
「その前に、明智店長」
丹羽が光秀の言葉を遮った。
「さきほど、秀吉が三人に分裂するという狂った事業計画の話をしましたが」
「ええ。限界労働者の悲鳴ですね」
「どうやら本人も、そう思ったようです」
丹羽は淡々と続けた。
「今朝、厨房を確認したところ、見慣れない人間が二人増えていました」
「…………はい?」
光秀の眉間に、深い皺が刻まれる。
「まさか……」
「はい。秀吉殿が昨夜、勝手に呼んだようです」
「勝手に?」
「弟の秀長殿と、友人の仙石秀久殿です」
「…………」
光秀は数秒間、完全に停止した。
脳内の処理回路がショートし、現実を一時的に拒絶した。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「社長の許可は?」
「ありません」
「私の許可は?」
「ありません」
「人事への申請は?」
「ありません」
「雇用契約書は?」
「ありません」
「……何があるんです?」
丹羽は少しだけ間を置いた。
「秀吉殿の善意です」
「一番いらないやつでしょうがァァァァッ!!」
光秀の絶叫がバックヤードに響き渡った。
「もう限界だったんでしょうね」
丹羽は淡々と続ける。
「本人曰く、『俺一人ではもう無理ですがね。弟なら料理ができる。仙石なら体力がある。だから二人とも来てもらいました』とのことです。どうやら限界を超えていたようで、完全に素の名古屋弁でした」
「無断採用ですよ! 人事も稟議も契約も全部すっ飛ばして、現場の人間が勝手に人を増やしてるんですよ! 万が一怪我でもしたら、会社として説明できないでしょうが!」
「しかし、秀吉殿の気持ちは理解できます」
「理解できても許可はしてください!」
「そこまでは私の管轄ではありません」
「財務担当でしょうが!」
「財務担当だからこそ、予算のない人件費は認められません」
「正論で殴らないでください!」
丹羽は無表情のまま、厨房の方を指差した。
「ちなみに、二人ともすでに働いています」
「もう働いてるんですか!?」
「はい」
「契約前に!?」
「はい」
光秀は頭を抱えた。
秀吉は、決して会社を裏切ろうとしたわけではない。
物理的に人が足りず、必死に助けを求めても会社は誰も助けてくれなかった。だから、自分で人を連れてきた。――ただ、それだけなのだ。
なのに、その純粋な生存本能からの行動こそが、この会社のルールをさらに根底から壊している。
「……最悪ですね」
光秀は乾いた声で呟いた。
「現場を守るために、現場が会社を壊し始めている……」
「……で、その二人は今どこに?」
「厨房です」
「……嫌な予感しかしない」
丹羽は静かに頷いた。
「私もです」
光秀は意を決し、バックヤードの扉を荒々しく押し開けた。
「皆さん! 会議を――」
その瞬間。
『シャラン……シャラン……チリンチリーン!!』
「な、なんだこの音は!?」
光秀が厨房を覗き込む。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
轟音を立てて火を噴く『本能寺オーブン』の前で、過労で顔色を完全に土気色にした秀吉が、フラフラとゾンビのようにフライパンを振っている。
その横には、見慣れない男が二人、真新しいエプロンをつけて立っていた。
一人は、真面目そうな顔つきの青年だ。
彼は手際よくトマトやレタスをカットしながら、必死に秀吉のサポートに回っている。だが、その声は完全に焦っていた。
「兄者! 火加減がおかしいがね! これ、人間の扱う熱量じゃないわ! まつ毛が焦げとるがね!」
「すまん小一郎……助かるわ……お前が来てくれんかったら俺は死んどったで……」
上司がいない厨房の中で、秀吉が涙目で弟――羽柴秀長に、コテコテの名古屋弁で感謝している。
だが、問題はもう一人だった。
厨房の中央で、全身に大小さまざまな黄金の鈴を大量に縫い付けた特注の服を着た大男が、シャランシャランとけたたましい音を立てながら、謎のステップを踏んで踊るように動いている。少し動くたびに全身の鈴が共鳴し、凄まじい騒音を撒き散らしている。
さらにその男の両手には、立派なハンドベルが握りしめられていた。
「チリンチリーン!」
男が力強くベルを振り鳴らした。
「シャランシャラン!」
「うるさァァァァい!!!」
光秀の怒号が厨房に炸裂した。
その声にビクッとした秀吉の姿勢が正され、瞬時に「よそゆき」の顔になった。
「あっ、明智殿……!」
秀吉はフライパンを振りながら、申し訳なさそうに振り返った。先ほどの名古屋弁の欠片もない。
「か、勝手に連れてきました……。俺一人じゃもう店が回らなくて……。料理のできる弟の秀長と、体力だけはある昔からの友達の仙石秀久を……」
限界を迎えている証拠に、語尾がかすかに震えている。
「仙石秀久!? なんで全身に鈴を付けてるんですか! しかも、なんでさっきからハンドベルで会話してるんですか!」
「チリチリッ!!(俺は存在感が薄いんで、音で補ってるんですよ!!)」
仙石秀久と呼ばれた男が、光秀に向かってハンドベルを綺麗な和音で鳴らした。
「言葉が聞こえる気がする私が怖い!! ベルじゃなくて普通に喋りなさい!」
「すみません、明智殿」
秀長のほうが、包丁を動かしながら苦笑した。
「こいつ、昔から鈴に対する異常な執着がありまして」
「昔から!?」
「ええ。実は兄者って、人間はもちろん、犬や野良猫、ハトやカラス、虫や魚、なんならその辺の幽霊まで、ありとあらゆるモノに異常に好かれる特異体質でして。……なぜか美人の女性だけは寄ってこないんですが。それに関しては兄者も『知らんがね』と嘆いていますが」
「美人の女性だけ除外された理由は気になりますが、それと鈴に何の関係が?」
「だから普段、本能寺の外を街歩きするときは、仙石がこうやって鈴を鳴らして群れを散らす『誘導員』をやってるんです」
「誘導員……?」
「ええ。で、以前兄者と仙石が小田原へ遊びに行った時のことなんですが……なぜか山中にいたツキノワグマ数頭に異常なほど懐かれてしまって。兄者はまるでお姫様のように大事に担がれて、そのまま深い山奥へ連れ去られたんです」
「どういう異常な状況ですかそれは!?」
「兄者を助けに行くために、仙石が『熊よけの鈴』を全身に大量に縫い付けて、けたたましい音を鳴らしながら山へ突入しました」
「なぜそんな奇抜な装備に!?」
「結果的に兄者は助かったんですが……」
秀長が、哀れむような遠い目をした。
「それ以来、こいつは『鈴こそが命を救い、己の存在を証明する』と完全に思い込んでしまいまして」
「シャラァァン!!(あの時の熱いビートは忘れません!!)」
仙石が誇らしげにベルを鳴らした。
「……トラウマの産物じゃないですか」
「チリンチリーン!(イエス!!)」
「そして結局うるさい!!」
仙石は誇らしげに胸を張った。
そのまま勢いよくシンクに飛び込む。
しかし全身の鈴が激しく邪魔をして、洗ったばかりの皿にガチャンガチャンとぶつかり、あわや大惨事になりかけた。
「そういう問題じゃない!!」
光秀は頭を抱え、自身の髪をかきむしった。
「だいたい、ただ人を三人に増やしたところで、この『怒り』を燃料にする異常な火力のオーブンは、秀吉以外には扱えないでしょう!」
「……おっしゃる通りです」
秀長は、業火のように燃え盛るオーブンを見つめた。
「兄者の『怒り』を燃料にする仕組みそのものが、兄者一人に依存しすぎている。人を増やすだけじゃ、また誰かが潰れます」
「……」
光秀は黙った。
その言葉は、妙に重かった。
人が足りないのではない。人一人に、背負わせすぎているのだ。
小手先の人員増強で解決する段階は、とうに過ぎている。
システムそのものを、根底から作り変えなければならない。
「ええい、だからこれからそのシステムを変えるための会議をするんです! 全員、直ちにフロアに集合ォォォッ!!」
光秀の号令により、開店前のフロアに武将たちが一堂に会した。
「会議だと!? 客を呼ぶのなら俺も忙しいぞ!」
柴田勝家が拡声器を抱えながら叫ぶ。
「クレーム対応の武力介入についてなら俺に任せろ!」
前田利家が鋭く磨き上げられた槍を構える。
「会議が終わったら隣県の農家を脅して仕入れに行くぞ!」
佐々成政が鼻息を荒くする。
「とりあえずヘリコプターの手配をしておくか!」
滝川一益がスマートフォンを取り出して航空会社を検索し始める。
仙石秀久が、その異様な熱気に当てられて、空気を読まずにベルを鳴らしかけた。
「チリン……!」
「鳴らすな」
仙石はビクッとしてベルを下ろした。
その阿鼻叫喚の光景を眺めながら、特等席で一人優雅にモーニングコーヒーをすすっていたオーナー・織田信長が、一番奥の席にドカッと座り直した。
「面白い」
信長は口元を凶悪に吊り上げる。
「本能寺の未来を決める会議だ。始めよ」
「……では」
光秀はフロアの中央にホワイトボードを引きずり出し、キュッ、と乾いた音を立ててマーカーを握りしめた。
「昨日、我々は一つの結論を出しました。そして今朝、秀吉が勝手に呼び寄せた二人を見て、その結論が絶対的に正しいと確信しました」
白いボードに、ゆっくりと大きな文字を書く。
【第二世代・本能寺システム】
「今の本能寺は、柴田殿たちの営業努力により、客が増えれば増えるほど厨房が限界を迎えます。この『ボトルネック』を解消しない限り、我々は全員共倒れです」
秀吉と秀長が、涙を流さんばかりの勢いで激しく頷いた。
「だから、次の数千万円の設備投資では、単純に火力を上げたり、人を無駄に増やしたりするのではなく――」
光秀はホワイトボードを指差した。
「『怒りを燃料にする仕組み』そのものを、分業・並列化します」
丹羽が眼鏡の奥で鋭く頷く。
「つまり、秀吉殿を設備の一部にするのではなく、怒りの抽出と燃料化を独立させる。そして複数の厨房設備へ安定供給するのですね」
「そうです」
光秀は頷いた。
「これなら、人が潰れるたびに生産能力が落ちるという致命的な問題も解消できます」
「なるほど。これが、第二世代本能寺システムというわけですか」
信長が立ち上がり、バサァッとマントを翻して、ニヤリと笑って口を挟んだ。
「そうだ。一人の狂人に頼る小さな個人店から、狂人を大量生産する巨大プラント企業へ進化するのだ!」
「言い方ァ! 金融機関に狂人プラントなんて言えませんよ! 反社と間違われて口座を凍結されます!」
光秀が即座にツッコミを入れ、社会で通用する言葉に翻訳するように、気を取り直してホワイトボードに新しい項目を書き込む。
『目的:厨房処理能力の大幅向上』
「これを、我が社の事業計画の第一目的とします」
すかさず柴田が手を挙げた。
「待て。客数を三倍に増やすのはどうなる?」
「第二です。厨房が整ってからです」
佐々が手を挙げる。
「仕入れ価格を極限まで下げるのは?」
「第二です」
滝川が手を挙げる。
「配送速度を――」
「第二です」
前田が手を挙げる。
「クレームを――」
「第二です」
仙石がそっとベルを持ち上げた。
「チリン……」
「お前は帰れ!!」
「…………」
仙石は悲しげに俯いた。
光秀はゼェゼェと息を切らしながら、最後の項目をホワイトボードの中央に、一番大きな文字で書き殴った。
『利益を残す』
その五文字に、店内が水を打ったように静まり返った。
「皆さん、聞いてください」
光秀は全員の顔を順番に見渡した。
「売上を増やすだけでは意味がないのです。最終的に、会社に『現金』が残らなければ、それは経営とは呼べません。ただのボランティアか、壮大な暇つぶしです」
柴田、佐々、滝川、前田。
一人ずつ、その顔を見る。
「柴田殿が客を呼ぶのも、佐々殿が安く仕入れるのも、滝川殿が速く運ぶのも、前田殿が秩序を守るのも……すべては、利益を出すためです」
光秀はホワイトボードに書かれた「利益を残す」の文字を、バンッ!と強く叩いた。
「今バラバラになっている皆さんの力を、一つの方向に向けなければならない」
丹羽が横から静かに補足する。
「つまり、『もっと客を呼ぶから数千万を貸してくれ』という博打のような計画ではなく、『すでに来ている客を厨房の限界によって捌き切れていない。だから設備投資をして、確実に存在する需要を利益に変える』」
丹羽は全員を見渡した。
「これなら、厳しい審査にも説明がつく、極めて現実的で手堅い事業計画になります」
沈黙。
武将たちは、顔を見合わせた。
誰も、心から完全に納得したわけではないだろう。
柴田はまだ客を呼びたそうにうずうずしている。
佐々は安く買いたそうにしている。
滝川は今にもヘリを手配しそうだ。
前田は槍を磨きたそうにしている。
仙石はベルを握りしめて震えている。
全員の心が、感動的な企業ドラマのように一つになったわけではない。
ただ、光秀が「融資を引き出す」という絶対の目的のために、彼らの無軌道な欲望を『事業計画』という一つの箱の中に無理やり押し込んだだけだ。
だが、それこそが――
現場の調整役から、経営の視点を持つ者へと一歩を踏み出した、中間管理職の泥臭い仕事だった。
「よし。話はまとまったな」
信長が満足そうに立ち上がった。
「第一回経営会議は終了だ。では光秀、さっさと金を引っ張ってこい」
「…………」
光秀の手が、ピタリと止まった。
「……結局、そこに戻るんですね」
「当然だろう」
「いや……皆のわがままをどうにか一つの計画に押し込んで、自分なりに経営方針を定めて、何かこう、リーダーとしての達成感みたいなものが……少しは労いの言葉とか……」
「金がなければシステムは作れん。夢だけでは飯は食えぬぞ。結果を出せ」
「現実的ですねぇぇ……!!」
光秀は成長している。
だが、待遇は何も変わらない。
むしろ、責任だけが純増していく。
信長がマントを翻し、出口をビシッと指差した。
「行け、光秀。我が社の未来は貴様の交渉力にかかっている」
「……はい」
光秀は机の上のブリーフケースを手に取った。
中には、丹羽が完璧に仕上げた第二世代本能寺システムの事業計画書と、数千万円規模の融資申請書が入っている。
「待て」
ドアノブに手をかけた光秀を、信長が呼び止める。
「はい? 何でしょうか」
「手土産は持ったか? 頭取に会うなら、饅頭くらい持っていけ」
「それで数千万の融資が決まるなら誰も苦労しませんよ!」
「では、気合いだ」
「関係ありません!」
「根性!」
「関係ありません!」
「大声!」
「もっと関係ありません!」
光秀は頭を抱えながら、店の入口の扉を勢いよく開けた。
その背中に、丹羽の冷静な声が飛んでくる。
「明智店長! 帰りに米を買ってきてください!」
「数千万の融資を頼みに行く帰りにですか!?」
「今後の定食屋化……もとい、経営改善に必要不可欠です!」
「もういいです行ってきます!!」
光秀はそのまま、半ば逃げるように店を飛び出した。
背後から、我慢できなくなった仙石のベルが、
「チリンチリ~ン!(行ってらっしゃいませ!!)」
と陽気に鳴り響いた。
光秀はさらに歩みを速めた。
* * *
数十分後。
光秀は、ある建物の前に立っていた。
パリッとした黒いスーツ。
右手には、会社の未来が詰まったブリーフケース。
見上げる先には、仰々しい明朝体で書かれた、重厚な看板が掲げられている。
――『株式会社 足利金融 本店』。
「…………」
明智光秀の顔から、さぁっと血の気が引いた。
足利金融。
かつて足利尊氏が築き上げた、国内最大級の金融帝国。
その巨大な看板の下で――光秀は、かつて地獄のような日々を過ごしていた。
数千万円程度――。
――少なくとも、光秀はそう思っていた。
頭取である、あの因縁の男に再び頭を下げるのは屈辱だ。
だが、店の未来――そして過労死寸前の秀吉を救うためには、ここで引くわけにはいかない。
「……まさか、借金をお願いする日が来るなんてなぁぁぁ……」
光秀は覚悟を決めた。
かつての上司――頭取・足利義昭が待つ、足利金融本店の中へ。
大きく深呼吸をし、重い足取りで、一歩を踏み出す。
(「【足利義昭】没落金融と将軍の融資条件」へ続く)




