第三話「ロードライト」
広報素材の撮影と、調理科実習教室エポックでの打ち上げから数日が過ぎた。
放課後の教室で、天門愛希は机に肘をつき、ひとり深いため息をこぼしていた。
「……はぁ」
芸能科アイドルコース高等部、1年1組。
授業が終わった教室には、もうほとんど生徒が残っていない。レッスンへ向かった者、プロデューサー専攻の生徒と打ち合わせに行った者、自主練のためにスタジオ棟へ急ぐ者。
入学して一ヶ月と少し。
教室の放課後風景にも、少しずつ差が出始めていた。
活動の予定がある者は、放課後すぐに動き出す。
予定のない者は、なんとなく教室に残る。
そして今日の愛希は、後者だった。
もっとも、何もしていないわけではない。
三色修人が最初の目標として掲げた、高等部一年限定イベント――1st.fest。
そのユニット部門へ挑むために、愛希たちは残り二人の一年生メンバーを探さなければならなかった。
愛希はこの数日、自分にできることから始めた。
同じクラスで少しでも話したことのある子。
基礎レッスンで隣になった子。
昼休みに挨拶を交わすようになった子。
まだプロデュースを受けていなさそうに見えた子。
声をかけた。
勇気を出して、何人にも声をかけた。
その結果は、見事なまでの全敗だった。
「ごめん、愛希ちゃん! もう出るユニットできちゃったんだよね」
「あー、私、もう先輩からプロデュース受けちゃってるんだー」
「ソロ部門で出る予定だから、ごめんね」
どの子も、愛希を馬鹿にしたわけではない。
むしろ申し訳なさそうに断ってくれた子の方が多かった。
けれど、断られるたびに、愛希は自分が少し出遅れていることを思い知らされた。
「ま、まぁ……しょうがないか」
自分に言い聞かせるように呟く。
でも、愛希の頭を悩ませている問題は、それだけではなかった。
ここ数日で、妙な噂が広がっていた。
天門愛希は、あの神仙凛子をプロデュースしていた三色修人に担当されている。
どこから広まったのかはわからない。
愛希が勧誘の中で話したことが原因かもしれないし、加奈子や九郎と一緒に動いているところを見られたのかもしれない。あるいは、修人が正式に担当プロデュース申請をした時点で、自然と誰かの耳に入ったのかもしれない。
どちらにせよ、愛希は不用意な注目を集めるようになっていた。
ついこの間まで、鳴かず飛ばずだった新入生。
この一ヶ月、企画にもオーディションにも落ち続けていた少女。
そんな愛希が、中等部からの内部進学組や、すでに頭角を現している同級生たちを差し置いて、神仙凛子の元プロデューサーに担当されている。
そう聞けば、奇異の目を向ける者もいる。
少しのやっかみを口にする者もいる。
愛希は机にうつぶせになった。
自分で掴んだチャンスなのだと、加奈子は言ってくれた。
修人も、愛希の夢を見てみたいと言ってくれた。
それでも、周囲の視線はなかなか慣れない。
「天門ちゃん、大変だね~」
ふいに、のんびりした声が降ってきた。
愛希が顔を上げると、机の上に紙パックのジュースが置かれていた。
オレンジジュース。
大きく、果汁100%と書かれている。
「それあげるよ~。オレンジジュース。100%だよ~」
声の主は、黄世美苑乃だった。
同じ1年1組の生徒である。
明るい黄色の、ゆるく波がかった髪。
柔らかい雰囲気をまとった、どこか陽だまりのような少女。
同じクラスではあるが、こうしてちゃんと話すのは初めてだった。
「あ、ありがとうございます! えっと、黄世さん」
「ふふ~、いいよー」
美苑乃はにこにこと笑った。
その笑顔は、愛希の焦りとはまるで違う時間の流れの中にいるみたいだった。
美苑乃も、愛希と同じく高等部からの入学組だ。
この一ヶ月、授業や基礎レッスンにはきちんと参加していたが、積極的に企画へ応募したり、誰かと組んで活動したりしている様子はあまり見えなかった。
愛希と同じように、少し出遅れているようにも見える。
けれど、本人にはその焦りがまったくないようだった。
愛希はオレンジジュースを手に取りながら尋ねた。
「黄世さんは、1st.fest出るの?」
「ん~、どうしよっかな。考え中~」
美苑乃は顎に手を当てて、少しだけ首を傾げる。
その仕草が妙に様になっていて、愛希は少し驚いた。
のんびりしている。
でも、だらしないわけではない。
焦っていない。
でも、何も考えていないわけでもなさそうだった。
「あの……焦ったり、しないの?」
愛希は思わず聞いていた。
「みんな、結構もう動き出してるし。不安になったりとか」
美苑乃は目をぱちぱちさせる。
それから、いつもの調子で笑った。
「うーん。わたし、おっとりしてるからなぁ」
「そ、そうなんだ」
「それに、わたしが不安じゃ、誰も癒せないでしょ~」
愛希は息を止めた。
美苑乃は、当たり前のように続ける。
「わたし、そんな人たちを癒せるアイドルを目指してるから~」
それは、柔らかい言葉だった。
けれど愛希の胸には、はっきりと刺さった。
ブレない芯。
自分がどんなアイドルになりたいのか。
誰に、何を届けたいのか。
美苑乃は、のんびりしているように見えて、それをちゃんと持っている。
愛希は思わず、紙パックを握る手に力を込めた。
「……すごい」
「ん~?」
「あ、いえ。なんでもないです」
美苑乃はふんわり笑った。
「じゃあね、天門さん~」
教室の出口へ向かいながら、ふと思い出したように振り返る。
「それ、ちゃんと飲むんだぞ~!」
そして、美苑乃は片目をつむって、ゆっくり手を振った。
ものすごくアイドルっぽかった。
愛希はオレンジジュースを見下ろす。
ただの差し入れなのに、不思議と少し元気が出ていた。
*
その後、芸能科A棟付近。
愛希はゆっくりと寮へ向かって歩いていた。
ここ数日は、修人主導で放課後に基礎的なダンスレッスンやボーカルレッスンを受けていた。けれど今日は久しぶりに予定がない。
何もない放課後は、本来なら少し嬉しいはずだ。
けれど今の愛希は、何をしていいのかわからず、なんとなく歩いているだけだった。
そんな時、近くのベンチに見覚えのある小柄な姿を見つけた。
笹枝加奈子だった。
片手に缶コーヒーを持ち、膝の上にはいくつもの資料を広げている。普段は騒がしく明るい加奈子だが、今は真剣な表情で紙面を見比べている。
「お疲れ様ですっ、加奈子先輩!」
愛希が声をかけると、加奈子は顔を上げた。
「愛希ちゃん! お疲れ様~」
ぱっといつもの笑顔になる。
愛希は隣に腰かける。
「資料、ですか?」
「うん。ユニットメンバー候補の洗い出し中」
「そっか……」
愛希は少し肩を落とす。
「私の方は、お友達全敗でした」
「そっか。お友達は全敗だったか……」
加奈子は苦笑する。
「それに……三色先輩に担当していただいてることを、よく思ってない子もいるみたいで」
「あはは……いらない気苦労をかけてしまっているようで」
「いえ、そんな」
「でもね、愛希ちゃん」
加奈子は缶コーヒーをベンチに置いた。
「それは愛希ちゃんが、自分の力で勝ち取ったチャンスなんだから、胸張っていいんだよ!!」
小柄な身体から、やけに力強い声が出る。
愛希は目を瞬かせ、それから、少しだけ笑った。
「加奈子先輩……ありがとうございます。元気出てきました!」
「いいんだよ~。可愛いアイドルを元気にするのも、マネージャーのお仕事だからねっ」
加奈子は得意げに胸を張る。
その姿に、愛希はまた笑った。
加奈子は資料をめくる。
「で、こっちの本題なんだけど」
「それって、中等部からの内部進学の人たちの資料ですか?」
「そうだよ~。やっぱ内部進学組はすごいねぇ」
加奈子は感心したように息を吐く。
「もう、ほとんど一線級の実力者ばっかりだよ。まあ、すでにプロデュース受けてる子も多いから、難儀してるけど」
そして、四枚の資料を愛希の前へ並べた。
「今、誰からもプロデュースを受けてなくて、ピックアップしてるのはこの四人かな」
資料には、四人の名前と簡単なプロフィールが記されていた。
火星災禍。
雪水吹雪。
王木帝子。
却白蒼。
赤い髪に、きらりと光る八重歯を持った元気そうな少女。
氷のような印象を持った、クールで美しい少女。
金髪で、ゴージャスな雰囲気の少女。
そして、神秘的で威厳があり、どこか近寄りがたい雰囲気の少女。
愛希は思わず資料に見入った。
「この、火星さん、雪水さん、王木さんは特にすごいよ」
加奈子が三枚の資料を指差す。
「火星さんは、ライブでのパフォーマンスがすごい。アドリブもできるし、激しいダンスをこなせる体力もある。小柄なのに、ステージ上だと何倍にも大きく見えるタイプだね」
「すごい……」
「雪水さんは、このビジュアルと表現力と歌声が魅力。火星さんが燃えるタイプなら、雪水さんは空気を締めるタイプかな」
「なるほど」
「王木さんは、中等部からの活動で熱狂的なファンを構築してるし、そのファンへのサービス力は断トツ。ファンの欲しいものをわかってる子」
加奈子は腕を組んだ。
「どうにかして、この中から一人でもスカウトできたら大きいんだけど……敵に回ったら、ライバル間違いなしだよ」
愛希は三人の資料を見比べる。
「なるほどぉ……もし、この三人が組んだら、大変なことになっちゃいそうですね」
加奈子は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「あははっ、そうだね。でも、そんな足し算だけの料理するかなぁ?」
「ですよね。単純でしたっ」
愛希も笑う。
けれどその時は、まさかその単純な想像が、すぐに現実になるとは思っていなかった。
愛希は四枚目の資料へ視線を落とす。
「ところで、四人目の……この却白さんは?」
「あー、彼女はね」
加奈子は少しだけ声を落とした。
「中等部での成績はかなりいいし、実際に何度かプロデュースを受けて活動も行ってたんだけど……そのどれもうまくいかなかったみたい」
「そうなんですか?」
「すっごく素敵だし、歌もピカイチなんだけどね。すっごく感情表現に乏しいっていうか、無表情な子なんだよね」
資料の写真の中で、却白蒼は静かにこちらを見ていた。
青みがかった長い髪。
澄んだ空のような色を感じさせる瞳。
整った顔立ち。
たしかに、神秘的だった。
けれど、その表情はあまりにも静かで、何を考えているのかわからない。
「勧誘はしないんですか?」
「うーん。どうにもフラれちゃいそうだし、まずはさっきの三人から当たってみようかな」
「これから行くんですか? よければ私も一緒に行ってもいいですかっ」
愛希が身を乗り出すと、加奈子の顔がぱっと明るくなった。
「え、来てくれるの!? 大歓迎だよ~! 愛希ちゃんもいれば、向こうも一緒に活動する子のことを知れるし、色々想像しやすいから助かるはずだよっ」
「ありがとうございます!」
「三人は、学内のプチライブ配信に出てるみたいだから、それが終わったあとに声をかける予定!」
「プチライブ……すごいなぁ」
「まあ、持ち歌もあるしねぇ。芸能科のスタジオ棟のエントランスでやってるし、行ってみよー」
*
スタジオ棟のエントランスには、簡易ステージが組まれていた。
照明が当たり、床にはカメラ用のテープが貼られている。ステージの前には、ドリーに乗せられたビデオカメラが何台も並び、それぞれをカメラマンやスタッフが操作していた。
その中に、九郎の姿もあった。
「あ、九郎先輩だ」
愛希が小さく声を上げる。
「そうそう。あの人、実は専門はビデオなんだよね」
加奈子が言う。
「そうなんですね。てっきり写真なのかと思ってました」
「カメラだったら何でも扱えるみたいよ」
「すごいですね……」
「私生活はあれだけどね」
加奈子が一言付け加えた。
二人が到着した時、配信はちょうど終盤だった。
ステージ上では、出演したアイドルたちが一人ずつカメラに向かってコメントしている。今日の感想。見てくれたファンへのお礼。次の出演予定。緊張しながら話す者もいれば、慣れた様子で手を振る者もいた。
やがて、順番は火星災禍に回ってきた。
カメラが一斉に、小柄な赤髪の少女を捉える。
彼女は、周囲の子より頭ひとつ小さく見えるほど小柄だった。
けれどステージの中央に立つと、不思議なほど小さく見えない。
燃えるような赤い髪。
覗いた八重歯。
全身からあふれる熱量。
火星災禍――サイカは、カメラに向かって力いっぱい笑った。
「今日も、アタシのステージ見てくれてありがとねっ!」
声がよく通る。
ステージの空気が、一瞬で彼女のものになる。
「アタシをおーえんしてくれるファンのみんなに、大発表!」
サイカは左右に目配せした。
それに応えるように、雪水吹雪と王木帝子が彼女のもとへ駆け寄ってくる。
フブキは、氷のように白い髪を揺らし、静かにサイカの隣へ立った。
テイコは金髪のライオンヘアーをふわりと揺らし、カメラに向かって優雅に微笑む。
サイカが胸を張った。
「みんなが楽しみにしてる1st.festに、ここにいるテイコとフブキとユニットを組んで挑むぞ!」
愛希と加奈子は固まった。
「え」
「なっ……」
サイカはさらに声を張る。
「ユニット名は――phoEniX! みんな、ぜっったい応援してよねっ!」
テイコがカメラへ向かって、完璧な角度で手を振る。
「皆さん、わたしたちのこと、ちゃーんと見ていてくださいませ」
フブキは静かに頷く。
「必ず、良いステージにします」
コメント欄の盛り上がりを映すモニターが、スタッフの近くで流れていた。
その文字の勢いだけでも、今の発表がどれほど反応を呼んでいるのかわかる。
嘘から出た誠。
口は禍の元。
そんな言葉が、愛希の頭をよぎった。
配信が終了し、撤収作業が始まっても、愛希と加奈子はしばらくその場に立ち尽くしていた。
「ん?」
機材を片づけていた九郎が、二人に気づく。
「加奈子に天門さん、なにしてんだヨ」
「く、九郎先輩……!」
「撤収作業始まるから危ねーぞ。あっち行ってな」
「はぁい……」
愛希と加奈子は、九郎に促されるまま、トボトボとスタジオ棟を後にした。
*
しばらく頭を抱えて歩き回ったあと、二人はスタジオ棟近くのベンチに腰を下ろした。
「なんか……すみません。冗談で言ったつもりだったんですけど……」
愛希がうなだれる。
加奈子は慌てて手を振った。
「いやいや、謝らないでよっ。予想外だよ~」
そう言いながらも、加奈子はスマートフォンを操作する。
「配信のコメント欄も、SNSも、今はあの三人で話題もちきりだしさぁ」
画面を愛希へ傾ける。
そこには、phoEniXの発表に対するコメントが次々に流れていた。
『サイカとフブキとテイコ!?』
『この組み合わせ強すぎない?』
『1st.fest荒れそう』
『テイコちゃんのファンサ最高~!』
『フブキ様、歌声きれいすぎ!!』
『サイカ、今日も爆発してたなぁ、現地で見たい!』
「タイミングもチャンスも、バッチリな告知だったね……私たち的にも!」
「どうしましょうか、加奈子先輩」
愛希が不安そうに尋ねた、その時だった。
「おや、見つけたぞっ。噂の天門愛希!」
自分の名前を呼ぶ声に、愛希の肩がビクッと跳ねた。
振り返ると、そこに立っていたのは、さっきステージにいた火星災禍だった。
その横には、雪水吹雪と王木帝子もいる。
サイカはずん、と胸を張った。
「あの、神仙凛子のプロデューサーが担当してるらしいねっ!」
八重歯を覗かせながら、自信満々に言う。
「中等部でトップクラスの実力者のアタシたちが組んだら、素人のアンタなんか目じゃないよっ!」
愛希は思わず圧倒された。
サイカは自分よりもずっと小柄だ。
可愛らしい体格ですらある。
なのに、圧がすごい。
ステージの熱をそのまま持ってきたような勢いに、愛希は声を縮ませた。
「は、はいぃ……」
サイカは眉を上げた。
「こういうときは、言い返すんだよ、天門愛希! しっかりしな!」
「は、はい! ありがとうございますっ!」
「そうじゃないっ!」
「あっ!」
愛希は慌てて背筋を伸ばした。
「負けません!」
サイカは満足そうに頷いた。
「よしっ」
そして、堂々と歩き出す。
「ちょっと、サイカちゃん。置いていかないでほしいですわ!」
テイコが慌ててその後を追う。
金髪の髪がふわりと揺れ、去り際にも彼女は近くのカメラを見つけると小さく手を振っていた。
最後に残ったフブキが、愛希と加奈子へ向き直る。
「天門さん、いきなりごめんなさいね」
クールな印象に反して、その声は丁寧だった。
「サイカはイジワルで言ったわけじゃないの。ただ少しおバカなだけで」
そう言って会釈すると、フブキは二人の後を追っていった。
愛希と加奈子は、しばらく三人の背中を見送っていた。
「なんか、すごい三人だね……全然キャラクターが違う」
加奈子が呟く。
「ば、バランス取れてるんじゃないでしょうか?」
「そうかもねっ」
加奈子は小さく笑い、それから急に立ち上がった。
「さて……こうなる前に、却白さんに声かけないと」
「え?」
「またね、愛希ちゃん!」
加奈子は気を取り直したように、資料を抱えてぱたぱたと歩いていった。
愛希はその背中を見送りながら、少しだけ呆然としていた。
phoEniX。
あの三人が、ライバルになる。
そう思うと、胸がざわざわした。
*
加奈子と別れたあとも、愛希はぼんやりと学園内を歩いていた。
これからどうなるのだろう。
1st.festに出るためには、あと二人。
けれど有力候補だった三人は、すでにphoEniXを結成していた。
美苑乃は考え中と言っていた。
却白蒼には、加奈子が声をかけに行ったはずだ。
自分には何ができるのだろう。
そんなことを考えながら歩いているうちに、愛希は見覚えのない場所へ来ていた。
広い学園の中でも、ここは少し静かだった。
木々が立ち並び、建物は少ない。
森や公園のような場所。
夕日が差し込み、広場の中央にある噴水の水面がきらきらと光っている。
その水音に混じって、歌声が聞こえた。
透き通るような声だった。
高く、澄んでいて、どこか冷たい。
けれど、ただ冷たいだけではない。水面に差し込む夕日のように、静かな光を含んでいる。
愛希は足を止めた。
噴水の縁に、ひとりの少女が腰かけていた。
青みがかったロングストレートの髪。
神秘的で、どこか威厳すら漂う横顔。
資料に載っていた少女。
却白蒼だった。
愛希はしばらく、声をかけることも忘れて歌に聞き入っていた。
やがて、蒼の瞳がこちらを向く。
目が合った。
少しの沈黙が流れる。
「すごい……」
愛希は思わず呟いた。
蒼は、表情をほとんど変えない。
「……何?」
「あ、邪魔しちゃってごめんなさい」
愛希は慌てて頭を下げた。
どうしよう。
加奈子はもう声をかけたのだろうか。
結果はどうだったのだろう。
それとも、まだ会えていないのだろうか。
吸い込まれそうな蒼の瞳を前に、愛希の頭の中は激しく回転した。
ここは、自分から話すべきだろうか。
そう思った時、蒼の方が先に口を開いた。
「天門愛希、だよね」
「は、はい!」
「さっき、マネジメントの人に声をかけられた」
「そ、そうだったんですね!」
やはり加奈子はもう接触していたらしい。
愛希は恐る恐る、一歩ずつ蒼へ近づいた。
噴水に腰かけているだけなのに、蒼は幻想的に見えた。
近づくほど、その神秘性が強くなる。
「ま、前向きに考えていただけたら、嬉しいんですけど……!」
蒼は何も言わない。
「あの、隣、座ってもいいですか?」
「いいよ」
短い返事だった。
愛希は蒼の隣へ腰かける。
噴水の水音が、二人の間に流れた。
蒼は前を向いたまま、静かに言った。
「私、今までユニットとかプロデュースとか、一回も上手くいかなかった」
「……はい」
「だから、神仙凛子のプロデューサーでも、多分上手くいかないよ」
蒼の声は平坦だった。
感情がないように聞こえる。
けれど、その言葉の奥に何かが沈んでいるようにも感じた。
「それに、素人同然のあなたと組んでも、メリットがない」
「し、素人……同然っ」
思わず愛希は面食らった。
まさかの辛辣な発言だった。
普通なら、ここで傷ついて立ち去るところかもしれない。
しかし愛希の頭に、ふと別の人物がよぎった。
広報素材の撮影本番で出会った、不思議なメイク兼スタイリスト。
株さんの不思議な言動と雰囲気が蒼に重なる。
それに蒼も、隣に座ることは許可してくれた。
隣に座らせておいて、ただ辛辣な言葉を浴びせるだけの人がいるだろうか。
いや、これはきっと言葉通りの意味ではないのだ。
むしろ、特に意味はないのかもしれない。
ここ数日で出会った学園の尖った人物たちのせいで、愛希の中に妙なポジティブシンキングが育っていた。
普通なら引くところで、愛希はなぜか、言葉の続きを期待する目で蒼を見上げていた。
蒼がわずかに眉を動かす。
「……何、その顔」
「えっ」
「私……今、断った、よね?」
「えっ?」
「え?」
二人は見つめ合い、愛希は少し考える。
「メリットはない……けど?」
「けど?」
蒼は初めて、明らかに戸惑った顔をした。
自分の言葉に続きがあるような反応をされるとは思っていなかったのだろう。
蒼はもう一度、少しはっきりと言った。
「その……だから、素人同然のあなたと組んでも、私には何のメリットもない。私が低いレベルに合わせても意味がない」
「そうですね!」
愛希は真剣に頷いた。
「それでっ?」
「それで?」
蒼の声が少しだけ揺れた。
さらに強く伝えたつもりだった。
けれど、天門愛希はまったく傷ついていないように見える。
むしろ、ますます期待を膨らませた視線を送ってくる。
「私の方が、歌もダンスもあなたより優れているわ。だ……から」
厳しい言葉を続けようとするほど、愛希のまなざしは強くなっていく。
蒼は言葉に詰まった。
一度、息と共に言葉を飲み込む。
そして、ぽつりと言った。
「あなた、すごく変」
「いやいや、そんな」
愛希は申し訳なさそうに笑う。
「却白さんよりは! 私なんて全然、変じゃないですよっ!」
「えっ」
蒼は今度こそ、はっきり驚いた。
愛希は褒め言葉を謙遜するように返している。
何かが、明らかにおかしい。
蒼は、自分が口下手であることを自覚していた。
感情表現に乏しいことも、言葉が足りずに誤解されやすいことも知っている。
そのせいで、これまで何度も人間関係がうまくいかなかった。
けれど今は、いつもとは違う。
明らかに異なる方向の、奇妙な誤解をされている気がする。
蒼の胸に、小さな不安が生まれた。
自分の言葉とコミュニケーション能力では、この少女を断ることはできないのではないか。
「よく聞いて」
蒼は少し姿勢を正した。
「私は、あなたとは……」
「はい!」
愛希の相槌は元気だった。
あなたとは組まない。
そう言いかけた蒼は、その明るさに驚いて言葉を止めた。
もしかしたら。
蒼は、ほんの少しだけ思った。
この変な、異様にポジティブに解釈する少女とだったら、自分も一緒に過ごせるのではないか。
そんな考えが浮かんでしまったことに、自分でも戸惑う。
「……私は昔から口下手で、いつも人に誤解されたり、結局それで中等部でも上手くいかなかった」
蒼はゆっくりと言った。
「厳しい言葉を言ってしまったり……するの」
「そうですよね!」
「え? ……ええ、そうよ」
自虐を明るく肯定されたことに驚きながらも、蒼は続ける。
「だから……友達も、できなかったし。あなたたちとも、上手くできないわ」
「あー、なるほど!」
愛希はぽんと手を打った。
「まずはお友達からってことですね!」
蒼は固まった。
どういう解釈なのだろう。
「え、ちが……」
「もちろん、お友達になりましょう! 却白さん!」
愛希はすぐに言い直す。
「いえ、蒼さん!」
蒼が目を瞬かせる。
「私のことは、下の名前で呼んでください!」
愛希は勢いよく手を差し出した。
蒼は、その手を見つめた。
夕日が、噴水の水面に反射している。
水音が静かに響く。
差し出された手は、あまりにもまっすぐだった。
蒼は、なぜかその手を握り返してしまった。
「よろしくお願いします、蒼さん!」
「……よろしく」
小さな声で、蒼は答えた。
その後、蒼のコミュニケーション能力では、愛希の誤解を解くこともできなかった。
連絡先を交換するところまで、愛希に押し切られるように進んでしまった。
そしてその日、二人は別れた。
*
夜。
蒼は寮の自室で、ベッドに横になっていた。
天井を見つめながら、考える。
さて、どうしたものか。
天門愛希。
不思議な少女だった。
自分の言葉を、拒絶として受け取らなかった。
厳しい言葉をぶつけても、続きを待つような目をした。
友達ができなかったと言えば、まず友達からだと笑った。
変だった。
とても変だった。
けれど、不快ではなかった。
スマートフォンが、枕元で震えた。
蒼は手を伸ばし、画面を開く。
『蒼さん、明日は一緒にお昼食べましょうね!』
愛希からのメッセージだった。
能天気なくらい明るい文面。
蒼はしばらく画面を見つめていた。
それから、少しだけ息を吐く。
まぁ。
とりあえず、いいか。
蒼は短く返信を打った。
『わかった』
送信して、スマートフォンを閉じる。
部屋の中は静かだった。
けれど蒼は、いつもより少しだけ、その静けさが寂しくないような気がした。




