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第二話「メイク&クック」

 撮影練習から一夜明けた翌日。


 芸能科A棟2階、201号室には、昨日と同じように長机とキャスター付きの椅子が並んでいた。


 ただ、昨日と違うことがひとつある。


 天門愛希は、その扉の前で深呼吸をしていた。


 昨日は、撮影モデルの応募者としてここへ来た。

 けれど今日は違う。


 三色修人が、自分をプロデュースしてくれることになった。


 まだその実感は薄い。

 夢のようでもあった。


 けれど昨日の夜、寮に戻ってから何度も思い出した。


 ――君の夢を、俺も見てみたくなった。

 ――だから、引き受ける。君をプロデュースするよ。


 その言葉を思い出すたびに、胸の奥が熱くなる。


 愛希は両手で頬を軽く押さえた。


「……よし」


 小さく気合いを入れて、扉をノックする。


「どうぞー」


 中から聞こえたのは、昨日と同じ気の抜けた声だった。


 愛希は扉を開ける。


「お疲れ様です。今日もよろしくお願いします!」


 部屋の中には、すでに九郎と加奈子がいた。


 九郎は椅子に深く腰かけ、机の上に置いたカメラを弄っている。加奈子は書類を広げて、何かを確認していた。


「ういー、お疲れ」


 九郎が片手を上げる。


「愛希ちゃん、お疲れさま!」


 加奈子が明るく笑った。


 その声を聞いて、愛希の緊張が少しだけほぐれる。


「三色先輩は、まだですかね」


 愛希は室内を見回した。


「あー」


 九郎がカメラから目を離さずに言った。


「なんか、芸能科の事務方のところ行くの見たぞ」


「ん? 事務方?」


 加奈子が顔を上げる。


「そう、事務方。なんか申請でもあるんじゃないか」


「申請……」


 愛希が首を傾げたところで、廊下から足音が近づいてきた。


 次の瞬間、扉が開く。


「悪い、遅れた」


 修人だった。

 昨日と同じように落ち着いた表情をしているが、その手にはクリアファイルが握られている。

 中には数枚の書類が入っていた。


「三色先輩、お疲れ様です!」


 愛希が立ち上がる。


 修人は小さく頷き、扉を閉めた。


「天門さん、ちょっと」


「は、はい」


 修人が手招きする。


 愛希は少し緊張しながら、ちょこちょこと修人の横に並んだ。

 修人は軽く咳払いをする。


「えー……私事ですが」


 その言葉に、九郎がわずかに口の端を上げた。

 加奈子も目を瞬かせている。


「本日付で、芸能科アイドルコース高等部1年、天門愛希さんを担当プロデュースすることになりました」


 一瞬、部屋の空気が止まった。


 次に声を上げたのは、加奈子だった。


「えっ、マジですか!」


「おー」


 九郎が気の抜けた声で拍手する。


 愛希は慌てて両手を握った。


「ま、マジです!」


「いやー、よかったね、愛希ちゃん!」


 加奈子が勢いよく愛希の両手を取った。


「修人先輩みたいな敏腕プロデューサーがついてくれたら、もうアイドル街道爆走間違いなしだよ!」


「そ、それは言い過ぎでは」


 愛希は照れながらも、顔がにやけてしまうのを止められなかった。


 修人は苦笑しながら、加奈子を見る。


「加奈子」


「はい?」


「お前も手伝ってくれ」


 今度は加奈子が固まった。


「え、えー!? いいんですか!」


「ああ。頼れる奴が必要だからな」


 修人の言葉は短かった。


 けれど、軽くはなかった。


 加奈子は一瞬だけ目を丸くして、それからぱっと笑った。


「愛希ちゃん!」


 加奈子が愛希に視線を向ける。


 愛希は、迷わず頷いた。


「私も、加奈子先輩が一緒にいてくれたら心強いです!」


「きゃーー! うれしー!」


 加奈子がその場で跳ねるように喜んだ。


 九郎が椅子にもたれたまま、にやりと笑う。


「ま、撮影が必要だったら、オレに声かけてくれや」


 そう言って、親指と人差し指をこすり合わせる。


 お金のジェスチャーだった。


「わかりやすいですね……」

 愛希が思わず呟く。


 修人は淡々と頷いた。


「ああ、そうだな。必要な時は頼む」


「お、いい返事」


「ただし、相応の成果物は出してもらう」


「はいはい。プロの仕事しますよ」


 九郎は軽く肩をすくめた。


 修人は書類を机の上に広げる。


「といっても、本格的な活動はこの広報素材撮影が終わってからだ。並行して、色々申請やら登録やら必要だしな」


「なるほど……!」


 加奈子が両拳を握る。


「忙しくなりそーですねー!」


 愛希は机に並べられた書類を見つめた。


 担当プロデュース申請。

 活動登録。

 施設利用関連などエトセトラ。


 昨日まで、自分には何もなかった。


 でも今、こうして書類が並んでいる。

 自分の名前と、三色修人の名前が、同じ紙の上に書かれている。


 それだけで、何かが始まったのだと感じられた。


「天門さん」


 修人が言った。


「はい」


「ここからは、夢だけじゃなくて手続きも必要になる。面倒だけど、これも活動の一部だ」


「はい!」


 愛希は背筋を伸ばす。


「よろしくお願いします!」


     *


 そこからの数日は、目まぐるしく過ぎていった。


 担当プロデュースを受けるための正式な申請。

 設備利用の登録。

 広報素材撮影の確認。

 撮影に向けた練習。


 愛希は授業とレッスンの合間に、修人たちと何度も集まった。


 九郎は撮影の構図や立ち位置を教えてくれた。

 加奈子は香盤表や現場での動き方を噛み砕いて説明してくれた。

 修人は多くを語らないが、必要なところだけ的確に口を挟んだ。


 あの日の案内板の写真以来、愛希は少しだけカメラの前に立つことが怖くなくなっていた。


 自分がどう見えるか。

 何を見せたいのか。

 その場所で、どんな表情をするべきなのか。


 まだうまくはできない。

 けれど、考えることはできるようになってきた。


 そして、ついに本番の日が来た。


     *


「お疲れ様です!」


 いつもの201号室に入ると、愛希は元気よく挨拶した。


「お疲れさま」


 修人が返す。


「いよいよ本番だな。天気よくてなによりだ」


 九郎は窓の外を見ながら言った。


 春らしい柔らかな光が差し込んでいる。

 屋外の撮影にも向いた天気だった。


 加奈子が愛希の手を引く。


「愛希ちゃん、こっち座って待ってて!」


「はい?」


 昨日まで部屋になかった化粧台が、窓際に置かれていた。

 ライト付きの鏡と、背もたれのある椅子。

 その前に座るよう、加奈子が促す。


「今日は先輩が、メイク兼スタイリストさんを呼んでくれてるから。超!可愛くしてもらおう!」


「は、はい!」


 愛希は椅子に座り、鏡の中の自分を見る。


 いつもの自分だ。


 けれど、今日はこれから撮影本番。

 自分が広報素材として使われるかもしれない。

 そして、アイドルとしての最初の一歩にもなるかもしれない。


 そう思うと、背筋が自然と伸びた。


 その時、扉が開いた。


「おまたせ」


 入ってきたのは、黒いロングストレートの髪を綺麗に整えた女性だった。


 手入れの行き届いた髪。

 大人っぽいメイク。

 右耳に髪をかけた先には、いくつものピアスが光っている。

 片手にはジェラルミンのメイクボックス。もう一方の肩には、ガーメントバッグを担いでいた。


 その立ち姿だけで、部屋の空気が少し変わった。


「急に頼んで悪かったな、(かぶ)


 修人が言う。


 株と呼ばれた女性は、軽く肩をすくめた。


「いいよ。三色先輩には、資格取ったばかりの私に仕事くれたことあるし」


 加奈子が愛希の横に立つ。


「こちら、芸術科のメイク兼スタイリストの株さん」


 愛希は慌てて立ち上がろうとした。


「天門愛希、アイドルコース高等部1年です!」


「天門さんね。よろしく」


 株は短く頷く。


「じゃ、早速仕事にかかろうかな」


 ガーメントバッグをテーブルに置き、メイクボックスを開く。

 中にはブラシやパレット、スポンジ、細かな道具が綺麗に収められていた。


 愛希は再び椅子に座る。


 株は鏡越しに愛希の顔を見て、ふっと目を細めた。


「髪、つやつや。ちゃんと手入れしてるね」


「あ、ありがとうございます」


「私ほどじゃないけど」


「え? あ、はぁ……」


 愛希は返答に困った。


 九郎が少し離れた場所で小さく吹き出す。


 株は気にする様子もなく、愛希の髪を軽く整え、顔立ちを確認する。


「初々しさを意識してナチュラル寄り。屋内も屋外あって、灯体はあまり意識しすぎない感じでしたっけ」


 鏡越しに、後ろに立つ修人へ尋ねる。


「そうだ」


「了解です」


 株は迷いなく手を動かし始めた。


 下地、ファンデーション、眉、目元、頬、唇。


 手際がよかった。

 まるで愛希の顔の上に、必要なものだけを置いていくようだった。


「天門さん、乗りがいいわ。肌つやもいい」


「あ、ありがとうございます」


「私ほどじゃないけど」


「え、えぇ?」


 愛希は今度こそ困惑した。


 九郎が修人の方へ顔を寄せる。


「アイツ、相変わらず変だな」


「お前には言われたくないだろうけどな」


「俺より変だろ」


「種類が違う」


 修人は静かに言った。


「それに、株は飲み込みも早いし、現場での動きもいい。高等部の中ならトップクラスの実力者だぞ」


「えぇ? マジかよ」


 九郎が笑う。


 しばらくして、株が手を止めた。


「よし、メイクはこんなところかな」


 愛希は鏡の中の自分を見て、思わず息を止めた。


 大きく変えられたわけではない。

 濃いメイクでもない。

 けれど、目元はいつもより少しだけ明るく見え、肌は柔らかく、髪は光を受けて自然に艶めいていた。


 自分のままなのに、自分より少しだけ前に出られるような顔だった。


 株はメイクボックスを閉じると、ガーメントバッグに手を伸ばした。


「今回は、このパリッパリの新品でいいんだよね?」


 バッグの中から取り出されたのは、高等部の制服だった。


 新品らしく、ブレザーの布地にはまだ固さが残っている。折り目も美しく、リボンもスカートも、まるで広報写真のために用意されたように整っていた。


「バッチリ」


 九郎が頷く。


 株は制服を椅子の背に掛けると、男二人の方へ顔だけ向けた。


「じゃ、着せちゃうから、男連中は出てって~」


「はいはい」


 九郎がカメラを持って立ち上がる。


 修人も黙って部屋の外へ向かう。


「じゃあ、加奈子。頼む」


「はい!」


 加奈子が元気よく返事をする。


 扉が閉まると、部屋の中には愛希と加奈子、そして株だけが残った。


 愛希は制服を見つめて、少し緊張する。


「これ、私が着るんですよね」


「そうだよ~。愛希ちゃん、絶対似合うよ」


 加奈子が笑う。


 株は手際よく制服を整えながら言った。


「広報素材だからね。清潔感と新入生らしさは大事。制服の皺ひとつで印象変わるから」


「は、はい」


「大丈夫。ちゃんと可愛くする」


 株はそこで一拍置き、当然のように続けた。


「私ほどじゃないけど」


「そこは変わらないんですね……」


 愛希は小さく笑った。


 スタイリングはすぐに終わった。


 新品のブレザーに袖を通し、リボンを整え、スカートの位置を合わせる。髪の流れをもう一度整え、最後に全体のバランスを見る。


 株は一歩下がって、愛希を上から下まで確認した。


「うん。良い感じ。可愛くなった」


「あ、ありがとうございます……」


「私ほどじゃないけど」


「え、え、はい……」


 愛希はもう、そう返すしかなかった。


 廊下から九郎の声がする。


「終わったかー?」


「いいよー」


 加奈子が扉を開ける。


 九郎と修人が戻ってきた。


 九郎は愛希を見るなり、腕を組んだ。


「おお」


「どう、ですか?」


 愛希は少しだけ恥ずかしそうに尋ねる。


「いいじゃん。新品制服、広報っぽい」


 九郎は軽く頷く。


 続いて修人も愛希を見る。


「うん。いいと思う。初々しさがちゃんと出てる」


「ありがとうございます!」


 愛希の顔が明るくなる。


     *


 撮影は、予定通りに始まった。


 レッスン室。

 スタジオ。

 廊下。

 打ち合わせ室。

 コンサートホールの客席。


 九郎は淡々と、しかし確実にシャッターを切っていく。


 数日前とは違い、愛希の表情にはほどよい緊張感があった。

 固すぎず、崩れすぎず、指示に合わせて少しずつ表情を変えることができている。


 加奈子は香盤表を確認しながら、タイミングを見て声をかけた。


「愛希ちゃん、次は資料抱えて移動するカット!」


「はい!」


「今の表情いいよ。ちょっとだけ目線上げよっか」


「はい!」


 修人は少し離れた場所で、全体の流れを見ていた。


 株は必要に応じて髪やリボンを直し、メイクの崩れを確認する。


「汗、ほとんど出てないね。優秀」


「あ、ありがとうございます」


「私ほどじゃないけど」


「はい……!」


 愛希はだんだん返し方を覚えてきた。


 九郎はカメラを下ろして、ふっと笑う。


「慣れてきたな」


「えぇ、まぁ...」


「緊張はしても、緊張に飲まれてないね」


「あ、撮影の方でしたか…!」


 撮影は順調に進んだ。


 広報素材としても使いやすく、同時に天門愛希というアイドルコース生徒の魅力も少しずつ映り込んだ写真が、いくつも撮れた。


 最後のカットを撮り終えた時、九郎が大きく息を吐いた。


「ふー。終わった。お疲れ様、天門さん」


「お疲れ様~!」


 加奈子が拍手する。


「かなり良かったんじゃないかな」


「ありがとうございます。みなさんのおかげです!」


 愛希は深く頭を下げた。


 それから、少し緊張した面持ちで修人を見る。


「あの、三色先輩。どうでしたか」


 修人は一瞬、カメラから伝送されている画像を手元のモニターで確認してから言った。


「すごくよかったよ。この前教えたことが、よくできてる」


「ほ、本当ですか!」


「ああ」


 その一言だけで、愛希の顔がぱっと明るくなった。


「うれしいです!」


 修人は小さく笑う。


「よし。無事撮影を終えたことだし、打ち上げでもするか」


「お、マジで?」


 九郎が反応する。


「本当ですか、うれしー!」


 加奈子も目を輝かせた。


「本格的なプロデュースも始まるからな。今後の話の場も兼ねてる」


 修人は株の方へ視線を向けた。


「株、よかったら一緒にどうだ?」


「いえ、私はこれで。お疲れ様でした」


 株はすでに荷物をまとめ始めていた。


 そそくさとメイクボックスを閉め、ガーメントバッグを担ぐ。


「早いですね!?」


 愛希が思わず言う。


「仕事終わったから」


 株はそれだけ言って、軽く手を振る。


「また必要なら呼んで。私ほど使える人、あんまりいないから」


 そして、振り向きもせず歩いていった。


 残された四人は、しばらくその背中を見つめていた。


「……ドライだ」


 加奈子がぽつりと言う。


「まぁ...予想通りだけどな」


 九郎は肩をすくめる。


「で、打ち上げどこでやるんだ?」


 修人はクリアファイルを鞄にしまいながら言った。


「まあ、ついてきな」


     *


 修人に連れられて、三人は芸能科の施設が並ぶエリアから少し離れた場所へ向かった。


 歩くにつれて、景色が変わっていく。


 ガラス張りのスタジオやレッスン棟が少なくなり、代わりに低層の建物や農園のような区画が増えてきた。土の匂いがわずかに混じる。遠くにはビニールハウスのような建物も見えた。


「この辺、来るの初めてです」


 愛希が周囲を見回す。


 加奈子が得意げに頷いた。


「そうなんだ。この辺りはね、調理学科とか農業科のエリアだよ。食べ物関係!」


「食べ物関係……!」


「生徒がやってるレストランなんかもあるし、あれ見て!」


 加奈子が指差した先には、数台のキッチンカーが並んでいた。

 それぞれの車体には、個性的なロゴやメニュー表が描かれている。


「キッチンカーまであるんだよ!」


「すごい……この学園、本当になんでもあるんですね」


「千の才能を育てるってのは伊達じゃねぇな」


 九郎が感心したように言う。


 修人は歩きながら、愛希の方を見た。


「さて。歩きながらで申し訳ないけど、天門さんにこの学園のシステムについて説明しなくちゃいけない」


「はい」


「この学園には、全学科共通で活動実績に応じて“活動実績点”が与えられる仕組みがある」


「あ、軽く説明は受けてます……!」


 愛希は思い出しながら言った。


「その活動実績点を使って、学内の施設利用とか、活動費用の申請ができるんですよね」


「そう。さらに累計取得点によっては、ある程度の優遇も受けられる」


 修人は続ける。


「たとえば、プロへの楽曲制作依頼。振り付けの依頼。外部講師のレッスン。大型施設の優先利用。そういうものにも活動実績点が絡んでくる」


「なるほど……」


「あればあるほど、活動を効率的に運べる。素晴らしい制度なんだが」


 そこで修人は、少しだけ肩をすくめた。


「当たり前だけど、今の天門さんの活動実績点はゼロだ」


「ゼロ……」


「今回の撮影で、一点つくかどうかってところかな」


「一点……!」


 愛希は数字の重みを感じた。


 自分は本当に、何も持っていないところから始まるのだ。


 加奈子がふと顔を上げる。


「でも、修人先輩の実績点は相当ありますよね。なんてったって凛子さんのプロデュースしてたんですから!」


 愛希も思わず修人を見る。


 確かにそうだ。

 神仙凛子をプロデュースしていた修人なら、相当な活動実績点を持っているのではないか。


 しかし修人は首を横に振った。


「残念ながら、俺も今まで貯めていた実績点はほとんどない」


「えっ」


「凛子とは契約を解消した時に、実績点を凛子に移譲したからな」


「がーん……」


 加奈子がわかりやすく肩を落とした。


 愛希も少し驚いたが、何も言えなかった。


 修人は淡々としている。

 けれど、その言葉の裏には何かがあるように感じた。


「だから、まずは活動実績点を稼ぐために動かなきゃならない」


 修人は前を向く。


「夢を見るにも、場所と金と人手がいる。そこを無視すると、続かないからな」


 その言葉は、妙に現実的だった。


 でも、愛希には嫌な感じはしなかった。


 むしろ、夢を本当に叶えるための話をしてくれているのだと思えた。


     *


 四人が到着したのは、少し古いが雰囲気のいいレストランのような建物だった。


 木製の扉の上には、看板が掲げられている。


『調理科実習教室 エポック』


 修人が少し重い扉を開けると、中から温かな空気といい匂いが流れてきた。


 店内は綺麗な洋風の内装だった。

 大きなテーブルがいくつも並び、そのうちの一つには、すでにいくつもの料理が用意されている。

 フライドチキン、サラダ、焼き野菜、スープ、小さなパン。見ただけでお腹が鳴りそうだった。


「いらっしゃい、待ってたぞ」


 奥から現れたのは、コックコートに身を包んだ高身長の女性だった。


 清潔感のある佇まいで、笑顔が明るい。


「こちら、調理科の味野素子(あじのもとこ)さん」


 修人が紹介する。


「はーい、みんなよろしくぅ!」


 味野素子は軽く手を振った。


「聞いてるよ。三色クンの新しい担当アイドルだってね。ライブとかのときはケータリングに呼んでね! ごちそう作るよー!」


 愛希は慌てて頭を下げる。


「天門愛希です。よろしくお願いします!」


「うんうん、元気でよろしい。さぁ、あったかいうちに食べてねー」


 九郎が小声で呟いた。


「すげぇ名前だ。()()()()()()()()()()()()()()だ」


「九郎先輩」


 加奈子が低い声でたしなめる。


「すまん、心の声が漏れた」


 味野は聞こえていたのかいないのか、にこにこと料理を並べている。


 四人はテーブルにつき、食事を始めた。


 料理はどれも美味しかった。


 フライドチキンは衣が軽く、肉は柔らかい。スープは野菜の甘みがしっかり出ていて、パンにつけるとさらに美味しかった。


「おいしい!」


 愛希が思わず声を上げる。


「でしょでしょ」


 味野が嬉しそうに笑う。


「三色先輩、お知り合いが多いんですね」


 愛希が修人を見る。


 加奈子がすかさず頷いた。


「人脈もプロデュースに欠かせない要素の一つだからね!」


「まあな」


 修人は短く答える。


「どんなに良い企画でも、協力してくれる人がいなきゃ形にならない。ステージに立つ人間だけで、ステージは作れないからな」


 その言葉に、愛希は少しだけ背筋を伸ばした。


 輝く者と、輝かせる者。


 その言葉をまた思い出す。


 九郎はフライドチキンを口いっぱいに頬張っていた。


「おいしい……」


 妙に幸せそうな顔だった。


「九郎先輩、揚げ物ばっかり食べてませんか……?」


 加奈子が呆れる。


「久しぶりなんだヨ。幸せだぁ」


「は、はぁ……」


 愛希は少し笑った。


 修人も小さく息を吐く。


 しばらく他愛のない雑談をし、食事が一段落した頃、修人が水の入ったグラスを置いた。


「それで、今後についてだが」


 空気が少しだけ変わる。


 愛希は姿勢を正した。


「活動実績点と注目の機会を同時に獲得できる、絶好のチャンスがある」


「チャンス……」


 修人は頷いた。


「高等部一年限定イベント――1st.fest。まずは、そのユニット部門に参加しようと思う」


「ゆ、ユニットですか」


 愛希の声が少し跳ねた。


「ああ」


 修人は説明を続ける。


「1st.festは、オーディションなしで参加者全員に平等なステージパフォーマンスの機会が与えられる。高等部一年生限定だから注目度も高い」


 加奈子が補足するように言った。


「毎年、めちゃくちゃ盛り上がるんだよね。一年生の最初の大きな見せ場って感じ!」


「三人揃っていれば、即席ユニットで挑むことも許されている。ハードルは低いが、注目は集められる。第一歩としては好ましい」


 修人はさらに続ける。


「ファン投票の結果次第では、外部の有名イベントで特別にパフォーマンスできる可能性もある」


 愛希の目が輝いた。


 1st.fest。


 その名前は、もちろん知っている。


 入学する前から、毎年映像で見ていた。

 中等部の頃には、観客として見に来たこともある。


 高等部一年生たちが、初めて大きな舞台で自分の輝きを見せるイベント。


 自分も、いつかあそこに立ちたいと思っていた。


 修人は少しだけ愛希を見る。


「……まあ、天門さんがソロのみで活動したいなら、別の方向も考えるが」


「いえ!」


 愛希は勢いよく首を振った。


「ユニット、組んでみたいです!」


 声に自然と力が入る。


「私、毎年1st.festは見に来てたので、すっごく嬉しいお話です!」


 修人は小さく頷いた。


「ならよかった」


 そして、少しだけ表情を引き締める。


「さて。肝心のユニットメンバーを集めなくちゃな」


「そうですね。どうすればいいでしょうか」


 愛希が真剣に尋ねる。


 加奈子が片手を上げた。


「修人先輩のネームバリューで、オーディションでもやればいいんじゃないですか?」


 修人は少し沈黙した。


「……最終手段だな」


「え、そうなんですか?」


「ああ。悪いが、その子たちはイベント限りの短期契約になる可能性もあるからな。変な期待はさせられないよ」


 愛希はきょとんとした。


「え、どうして短期契約になるんですか?」


 素朴な疑問だった。


 その時、少し離れた場所でフライドチキンを食べていた九郎が、何気なく言った。


「そら、修人が本当にプロデュースしたいのは、君だけだからだろ」


 空気が一瞬止まった。


 愛希の顔が一気に赤くなる。


「!! し、失礼しました!」


「いや、謝ることじゃない」


 修人は少し照れくさそうに頭をかいた。


 加奈子はにやにやしている。


「ほほう」


「なんだよ」


「いえいえー?」


 加奈子は楽しそうに笑った。


 修人は咳払いをする。


「とにかく、今回はまずこちらから声をかける。条件や目的を最初から伝えた上でな」


 加奈子がぐっと拳を握った。


「となると、こっちからスカウトですね。これは私の腕が鳴りますよ~!」


「ああ。頼む」


 修人は頷く。


「天門さんも、同級生で仲が良い子とかに声をかけてみてよ」


「わかりました!」


 愛希は力強く頷いた。


 まだ誰に声をかければいいのか、すぐには思いつかない。

 けれど、胸は弾んでいた。


 自分と一緒に、1st.festのステージに立つ誰か。

 まだ知らないユニットメンバー。


 その出会いが、どんな光を連れてくるのか。


 考えるだけで、少しだけわくわくした。


「加奈子」


 修人が言う。


「はい!」


「まずは中等部からの内部進学組から当たってくれ」


「即戦力ってことですね。了解です!」


「実力がある子ほど、もう声がかかっている可能性も高い。けど、全員じゃないはずだ。」


「なるほど。そこを探るわけですね」


「そういうことだ」


 加奈子はメモを取り始めた。

 先ほどまでの騒がしさとは違い、その表情は真剣なプロの顔になっている。


 愛希はその横顔を見て、少し感動した。


 自分のために、誰かが動いてくれている。

 自分の夢のために、具体的な計画が立てられている。


 それが、こんなにも心強いことなのだと初めて知った。


 修人は三人を見回した。


「さて。今後のことも決まったし、今日のところは……みんな、お疲れ様」


「お疲れ様です!」


 愛希は元気よく返事をした。


 食事の香りが残る調理科実習教室で、彼女は胸の奥に小さな熱を感じていた。


 昨日まで、自分は一人だった。


 何度も落ちて、何度も焦って、何も始まっていない気がしていた。


 けれど今は違う。


 三色修人がいる。

 笹枝加奈子がいる。

 九郎がいる。


 メイクをしてくれる人がいて、料理で支えてくれる人がいて、これから出会うユニットメンバーがいる。


 ステージに立つ者だけではない。

 その光を見つけ、支え、形にする者たちがいる。


 愛希はそっと拳を握った。


 1st.fest。


 最初の目標が、決まった。


 まだ何者でもない天門愛希の物語は、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


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