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第一話「輝くもの、輝かせるもの」

アイドルコース高等部、一年一組。


 その日の座学を終えた教室で、天門愛希(あまかどあいき)はひとり、窓の外を眺めていた。


 授業が終わったばかりの教室には、まだ何人かの生徒が残っている。机を寄せ合って談笑する者。レッスン用の着替えを鞄に詰める者。タブレットを覗き込みながら、次の予定を確認する者。


 窓の外では、同じ高等部のブレザーを着た少女たちが、中庭を横切っていた。


 そのうちの何人かは、上級生らしき生徒と並んで歩いている。手元の資料を見ながら、真剣な表情で何かを話し合っていた。


 プロデューサー専攻か、マネジメント専攻の生徒だろう。


 この一ヶ月で、愛希にもそれくらいはわかるようになっていた。


 ――()()()()()()()()()()()()()


 ふと、入学前に読んだアイドルコースの資料に書かれていたコピーを思い出す。


 最初に見たときは、少し大げさな言葉だと思っていた。


 入学したその日からアイドル。


 そんなこと、本当にあるのだろうか。


 けれど今の愛希は、そのコピーに偽りがなかったことを知っている。


 千才学園は、学園そのものがひとつのメディアであり、実戦の場でもある。


 常設のステージがある。

 配信設備がある。

 学内を取り上げた番組がある。

 学科を越えた合同企画がある。

 生徒が生徒を見つけ、企画を作り、誰かを世に出すための仕組みがある。


 だから、この学園では本当に、入学したその日から何かが始まる。


 同じ一年生の中には、すでに上級生のプロデュース専攻から声をかけられた子がいた。マネジメント専攻の生徒と一緒に企画を動かし始めた子もいる。中等部からのつながりでユニットを組み、学内配信へ出演することが決まった子もいた。


 オリエンテーションが終わって、基礎レッスンが始まって、座学と実技の毎日に慣れる前に、周囲の生徒たちはもうアイドルとして動き出している。


 その早さに、愛希は焦りを感じずにはいられなかった。


 もちろん、愛希にもチャンスがなかったわけではない。


 この一ヶ月、新入生を対象としたオーディションや企画には、できるだけ積極的に応募してきた。


 学内配信番組のアシスタント。

 新入生のオーディション企画。

 合同レッスンの選抜メンバー。


 結果は、どれも不採用だった。


 不合格。

 選考漏れ。

 今回は見送り。

 また次の機会に。


 丁寧な文章で送られてくる通知を見るたびに、愛希は笑って頷いた。


 次、頑張ろう。

 まだ一ヶ月しか経っていない。

 焦るには早い。

 私はまだ、始まったばかりなんだから。


 そう自分に言い聞かせてきた。


 けれど、周囲が少しずつ前へ進んでいくたびに、心の奥で小さな声がした。


 私だけ、止まっているんじゃないか。


 歌は好きだ。

 ダンスも嫌いではない。

 レッスンにも真面目に出ている。

 笑顔だけなら、誰にも負けたくないと思っている。


 それでも、誰かの目に留まるほどの何かが、自分にはまだない。


 机の上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。


「……?」


 愛希は我に返り、画面を覗き込んだ。


 メールが一件、届いている。


 件名を見た瞬間、胸が小さく跳ねた。


『応募いただいた、撮影モデルの件について』


 先日、芸能科の掲示板に貼られていた募集だった。


 芸術科の生徒による、芸能科広報素材撮影のための撮影モデル募集。芸能科生徒歓迎、初心者可。と書かれていた。


 アイドルとしての活動ではない。


 歌うわけでも、踊るわけでもない。

 ステージに立てるわけでもない。

 ファンの前に出られるわけでもない。


 それでも、一ヶ月間ずっと不採用が続いていた愛希にとって、その募集は確かにチャンスに見えた。


 誰かに見つけてもらえるかもしれない。

 自分の知らない自分を、誰かが見つけてくれるかもしれない。


 そう思って、応募した。


 けれど、件名を見たまま、すぐには開けなかった。


 この一ヶ月、同じように期待して、同じように落ち込んだことが何度もあった。

 最初の一文が丁寧であればあるほど、その後に続く「今回は見送り」という言葉が怖かった。


 愛希は一度、深く息を吸った。


「大丈夫……大丈夫です」


 誰に言うでもなく呟いて、メールを開く。


 そこには、まず応募への感謝が形式的に綴られていた。続いて、撮影内容についての簡単な説明がある。撮影は学内で行うこと。広報素材として学内の施設撮影が中心であること。初心者でも問題ないこと。


 そして最後に、こう書かれていた。


『詳しい内容については、会ってお話できればと思います。ご都合の良いタイミングはありますか?』


 愛希は画面を見つめた。


 不採用ではない。


 まだ決まったわけではない。

 けれど、少なくとも会って話をするところまでは進める。


 それだけで、胸の奥に小さな明かりが灯った気がした。


 愛希はすぐに返信した。


 授業時間以外でしたら、いつでも対応可能です。

 本日でも大丈夫です。


 送信してから、少しだけ後悔した。


 がっつきすぎだっただろうか。

 もっと落ち着いた返事をした方がよかっただろうか。


 けれど、その迷いが形になる前に、スマートフォンがもう一度震えた。


 返信は早かった。


『これから、芸能科A棟2階の201号室にてお待ちしております』


 短い文章だった。


 愛希は画面を見つめ、それから慌てて立ち上がった。


 椅子が小さく音を立てる。


 教室に残っていた何人かが、ちらりとこちらを見た。


「あ、す、すみません」


 愛希は小さく頭を下げ、鞄を抱える。


 心臓が、さっきよりもずっと速く鳴っていた。


     *


 芸能科A棟2階、201号室。


 そこは、芸能科の生徒が自由に使える小会議室のひとつだった。


 長机がいくつか並び、キャスター付きの椅子が壁際に寄せられている。部屋の隅にはホワイトボードがあり、古いマーカーと消し残しの跡がそのままになっていた。主に打ち合わせや企画会議に使われる部屋で、放課後にはさまざまな専攻の生徒が出入りする。


 その部屋には、すでに三人の学生がいた。


「おーう、お疲れ」


 窓際の椅子にだらしなく腰かけていた細身の青年が、片手を上げた。


 細い目に、軽い口調。

 黒いスタンドカラーのシャツを羽織り、首からカメラを下げている。机の上にはレンズケースやメモリーカードケース、工具の入った小さなポーチが置かれていた。


 九郎(くろう)


 芸術科映像コース、カメラマン専攻の学生である。


「先輩、お疲れ様です!」


 明るく返事をしたのは、笹枝加奈子(ささえだかなこ)だった。


 芸能科アイドルコース、マネジメント専攻。

 少しミーハーで、少し騒がしくて、けれど学内の事情にはやけに詳しい後輩である。


 そして、もう一人。


「お疲れ」


 静かな声で返したのは、三色修人(みいろしゅうと)だった。


 薄手のジャケットを羽織った長身の青年が、長机の端に腰を下ろしている。黒髪に、落ち着いた表情。大学部の学生らしく私服姿だが、机の上には実用書とタブレットがきっちり並べられていた。


 修人は椅子の背にもたれ、九郎と加奈子を交互に見た。


「それで」


 低く、穏やかな声だった。


「なんで俺が、広報素材の撮影に付き合わなきゃいけないんだ?」


 加奈子が両手を合わせて、にこっと笑った。


「まぁまぁ、一応今回の広報素材は芸能科関連ですからね。私と修人先輩がチェックしてほしいって、広報の人に頼まれたんですよ!」


「……そこの宿無しは、腕だけは確かだ。それに、お前もいる」


 修人が九郎を指して言う。


 九郎は口の端を上げた。


「褒めんなヨ」


 九郎は、カメラを操作しながら続ける。


「どうせ暇なんだし付き合えよ。修人」


 修人は一瞬だけ黙った。


 それから、諦めたように息を吐く。


「……まあ、気晴らしにはなるか」


「で、モデルは…?」


 修人が尋ねる。


 九郎はタブレットを操作しながら言った。


「昨日送ったろ。応募してきたのは、アイドルコースの新入生。これから来てくれるってよ。」


「……ああ、見たっけな」


 修人は少しだけ記憶を探るように視線を落とした。


 九郎から届いたメッセージ。

 撮影モデル募集。

 アイドルコース一年。

 そして、添付されていた短い志望理由。


『応援してくれる人に夢や希望、笑顔を返せるアイドルになりたい』


 よくある言葉だ。


 アイドル志望者なら、誰でも一度くらいは口にしそうな綺麗事だ。

 けれど、なぜか少しだけ引っかかった。


 応援を受け取り、返す。


 誰かを踏み台にして輝くのではなく、誰かからもらった光をもう一度誰かに渡す。


 修人は目を伏せる。


 関わるつもりはない。


 これは九郎の撮影だ。

 自分は、ただ呼ばれただけの付き添いにすぎない。


 そう思い直す。


 その時、扉の向こうで小さな足音が止まった。


     *


 愛希は、201号室の前で立ち止まっていた。


 扉の上に貼られた小さなプレートを確認する。


 間違いない。


 芸能科A棟2階、201号室。


 胸の奥で心臓が鳴っている。

 喉が少し渇いていた。


 愛希は、ごくりと唾を呑み込む。


 大丈夫。

 ただ話を聞くだけ。

 まだ決まったわけじゃない。

 でも、ここでちゃんとしなきゃ。


 鞄の持ち手を握り直し、愛希は扉をノックした。


「どうぞー」


 中から、軽い声が返ってきた。


 愛希は一瞬だけ目を閉じ、それから扉を開ける。


「失礼します……」


 部屋の中に入ると、三人の視線がこちらへ向いた。


 カメラを手に持って操作している、黒いスタンドカラーのシャツを羽織った細身の男。

 書類に目を通している、明るい雰囲気の少女。

 そんな二人をよそに、窓の外を眺めている薄手のジャケット姿の男。


 愛希は背筋を伸ばした。


「アイドルコース高等部、1年1組。天門愛希です!」


 少し声が上ずった。

 それでも、できるだけきちんと名乗る。


 カメラを持った男が、にっと笑った。


「早速来てもらって悪いね」


「いえ、全然。ありがたいですっ」


 愛希は慌てて答えた。


 緊張で、言葉が少し跳ねる。


 それを見て、書類を持っていた少女がふふっと笑った。


「そんな緊張しなくて大丈夫だよ!」


 彼女は後ろから椅子を引き、愛希に座るよう促してくれた。


「あ、ありがとうございます」


 愛希はぎこちなく頭を下げ、椅子に腰を下ろす。


 カメラを持った男が、机の向こうで軽く手を上げた。


「オレ、カメラマンの九郎」


「私は、マネジメント専攻の笹枝加奈子です!」


 少女が明るく名乗る。


 最後に、窓際にいた青年がこちらを見た。


「三色修人。よろしく」


 落ち着いた声だった。

 その声だけで、愛希は少し背筋が伸びるのを感じた。


「どうも、よろしくお願いいたします」


 深く頭を下げる。


 九郎はすぐに、机の上に置いてあった資料を手に取った。


「早速だけど、撮影の詳細はこんな感じ」


 数枚のコピー用紙がクリップでまとめられている。

 愛希は両手でそれを受け取った。


 資料の一枚目には、撮影目的が書かれていた。


『広報素材・芸能科施設案内および利用イメージ撮影』


 その下には、簡単な簡略図――コンテらしきものと説明書きが並んでいる。さらに場所、時間、必要機材、撮影内容が表にまとめられていた。


 見慣れない情報量に、愛希は少し目を丸くする。


「芸能科の施設案内と、その利用イメージ。天門さんには、その利用イメージのモデルをお願いしようかなって思ってる」


 九郎が説明する。


「どんなイメージかは、その香盤表(こうばんひょう)に載ってるから、見てみて」


「は、はい」


 愛希は資料に目を落とした。


 けれど、香盤表という言葉がすでにわからない。


 その戸惑いを察したのか、隣から加奈子がそっと身を寄せてくれた。


「香盤表って、これのことね。天門ちゃん、こういうの初めてだよね」


「あ、ありがとうございます……」


 加奈子が指差した表には、撮影場所と内容が細かく書かれていた。


 レッスン室でのストレッチ風景。

 スタジオでのマイクチェック風景。

 コンサートホール客席からステージを見上げる場面。

 廊下で資料を抱えて歩くカット。

 打ち合わせ室で台本を確認するカット。


 九郎と加奈子は、その香盤表と見合わせながら、愛希にいくつか質問をした。


 撮影経験はあるか、写真や映像の使用について問題はないか。


 愛希はひとつひとつ、少し緊張しながら答えた。


 撮影経験はほとんどない。

 使用については問題ない。

 現在、特定のプロデュースもマネジメントも受けていない。


 答えながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 まだ、何もない。


 けれど、その痛みを顔に出さないように、愛希は笑った。


 九郎は資料にチェックを入れ、満足そうに頷く。


「よしよし。必要事項の確認は大体済んだ」


 そして、加奈子と修人の方を見た。


「加奈子、修人。どう思う?」


 加奈子は資料から顔を上げ、愛希を見てにこりと笑った。


「いいんじゃないでしょうか。天門さん、清純派って雰囲気なので、広報の人も使いやすいと思いますよ!」


「あ、ありがとうございます」


 愛希は思わず頭を下げた。


 清純派。


 そんなふうに言われたのは初めてだった。


 続いて、修人が静かに口を開く。


「その初々しい感じも、いいかもな」


 淡々とした言い方だった。


 けれど、不思議と軽くは聞こえなかった。


 九郎がカメラを机に置き、軽く手を叩く。


「よし、決まりだ」


 愛希の胸が跳ねた。


 決まり。


 その言葉が、思った以上に嬉しかった。


 小さな撮影モデルの仕事かもしれない。

 アイドルとしての活動ではないかもしれない。


 それでも、選ばれた。


 一ヶ月間、何度も見送りの通知を受け取ってきた愛希にとって、その言葉は十分すぎるほど眩しかった。


 その時、修人が少しだけ身を乗り出した。


「……天門さんは、問題ないかな」


「え?」


「自身のイメージやビジョン的に」


 愛希は一瞬、言葉を失った。


 イメージ。

 ビジョン。


 そんなものを、自分が聞かれるとは思っていなかった。


 ただの撮影モデルとしてではない。

 この人たちは、自分を芸能科アイドルコースの生徒として、これから表に立つ可能性のある人間として見ている。


 まだ何者でもない自分を、アイドルとして扱ってくれている。


 そう気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 同時に、緊張も強くなる。


 自分にはまだ、語れるほどのイメージもビジョンもない。

 けれど、ここで曖昧に笑って逃げたくはなかった。


 愛希は背筋を伸ばした。


「はい。問題ありません。ぜひ、やらせていただきたいです!」


 修人は、静かに頷いた。


「ならよかった」


 そのやり取りを見て、九郎が口の端を上げる。

 加奈子も、何かを察したように小さく笑った。


「ただ確認しただけだ」


 笑みを浮かべる二人に、修人はさらりと言う。


 九郎はそれを聞いて、わざとらしく肩をすくめた。


「はいはい。ただの確認ね」


 加奈子も楽しそうに笑っていた。


 愛希は、その空気の意味をまだ完全には理解できなかった。

 けれど、目の前の三色修人という人が、ただの付き添いではないことだけは、なんとなくわかった。


 九郎は改めて愛希の方を見る。


「さて、天門さん。君にとっては初めての仕事であり、初めての被写体なわけだが」


 妙に芝居がかった口調だった。


「自信はあるかね~?」


 愛希は一瞬、答えに詰まった。


 ここであります、と言えたらよかったのかもしれない。


 でも、嘘はつけなかった。


「い、いえ……正直、ありません」


「だよな」


 九郎はあっさり頷いた。


「あ、あの」


「大丈夫。自信満々で来られても、それはそれで困るけど」


 九郎はカメラを持ち上げる。


「幸い、本撮影までには三日もあるんでね。練習あるのみだ」


「教えてくださるのですか?」


 愛希が思わず尋ねると、加奈子が明るく頷いた。


「もちろんだよ~」


 九郎は立ち上がり、カメラのストラップを首にかけた。


「まずはカメラに慣れよう。固まった顔で撮っても、広報素材には使いにくいしな」


「固まった顔……」


「今すでにちょっと固い」


「す、すみません」


「謝らなくていい。慣れればいいだけだよ」


 そう言って、九郎は部屋の扉へ向かう。


 加奈子が資料をまとめ、愛希の方へ笑いかけた。


「じゃ、ちょっと学園内を歩こっか。喋りながら撮ってもらえば、緊張もほぐれるよ」


「はい!」


 愛希は立ち上がった。


 小さなチャンスが、動き始めた気がした。


     *


 最初の撮影練習は、芸能科A棟の廊下から始まった。


 九郎は、歩きながら何枚もシャッターを切った。


「目線はカメラじゃなくて、あっちの窓の反射を見る感じ」


「は、はい」


「笑おうとしなくていい。ありのままでいいよ」


「えっ、でも」


「今の困ってる顔の方が自然」


「困ってる顔ですか!?」


「そう、それ」


 カシャ、とシャッター音が鳴る。


 愛希は思わず肩を跳ねさせた。


 九郎はカメラのモニターをちらりと確認し、軽く頷く。


「悪くない」


「そ、そうなんですか?」


「自信なさそうなところが、今の天門さんには合ってる」


「それ、褒めてますか?」


「褒めてるよ」


 九郎は即答した。


「今回の広報素材は見る人に、ここで何ができるかとか、利用する人をイメージさせなきゃいけない...それを踏まえて不慣れな新入生感ってのは消さないでいたい」


「な、なるほど……」


 愛希は少しだけ複雑な顔をした。


 加奈子が隣で笑う。


 撮影練習は、そのまま学園内を散策する形で続いた。


 レッスン棟の前。

 中庭のベンチ。

 コンサートホールへ続く渡り廊下。

 ガラス張りのスタジオ前。


 九郎は場所ごとに、少しずつ指示を変えた。


 歩いて。

 振り返って。

 資料を抱えて。

 窓の外を見て。

 深呼吸して。

 肩の力を抜いて。


 愛希は最初こそ緊張していたが、九郎の指示が具体的なことと、加奈子が隣で何度も声をかけてくれることで、少しずつ表情がほぐれていった。


「へー、愛希ちゃんって、長野出身なんだ!」


 移動の途中、加奈子が楽しそうに言った。


「あ、愛希ちゃんって呼んでいい?」


「も、もちろんです! 加奈子先輩!」


「やった。じゃあ愛希ちゃんね」


 加奈子は人懐っこく笑った。


「長野かあ。いいなぁ。空気おいしそう」


「自然は多いですね。あと、祖母の家の近くに果樹園があって、よくリンゴをもらってました」


「いいなあ、リンゴ! お菓子作り好きなんだっけ?」


「はい。アップルパイとか、よく作ります」


「え、女子力高い!」


「そ、そんなことは」


 そんな他愛のない会話をしながら歩くうちに、愛希は自然と笑う回数が増えていった。


 加奈子は、愛希の緊張をほぐすのが上手かった。


 こちらが言葉に詰まる前に、次の話題を出してくれる。

 失敗しても大げさに笑ってくれる。

 うまくできた時には、本人以上に喜んでくれる。


 まだ出会ったばかりなのに、愛希は少しずつ加奈子に親しみを感じ始めていた。


 やがて一行は、屋根のある休憩スペースで足を止めた。


 近くには自動販売機が並んでいる。


「ちょっと休憩しよっか」


 加奈子がそう言って、愛希を誘った。


「飲み物買いに行こう。愛希ちゃん、何飲む?」


「あ、私も行きます」


 二人は並んで自動販売機へ向かった。


 少し離れた場所では、九郎がベンチに腰掛け、カメラの設定を確認している。修人は柱に背を預け、腕を組んでいた。


 愛希は飲み物を選びながら、少し迷った。


 聞いていいのだろうか。

 初対面の先輩に、こんな相談をしてもいいのだろうか。


 けれど、今を逃すともう言えない気がした。


「あの、加奈子先輩」


「ん?」


「少し、相談してもいいですか」


「もちろん」


 加奈子は迷わず頷いた。


 愛希は缶のミルクティーを手に取りながら、ゆっくり口を開いた。


「私、学園に来てから一ヶ月、いろいろ応募してみたんです。新入生向けの企画とか、オーディションとか。でも、全然通らなくて」


「うん」


「同じクラスの子たちは、もうプロデュース専攻の先輩に声をかけられたり、ユニットを組んだりしていて……。私だけ、何も始まっていない気がして」


 言葉にしてしまうと、胸の奥が少し痛んだ。


 愛希は笑おうとした。


「焦るには、まだ早いってわかってるんですけど。でも、どうしても比べてしまって」


 加奈子は、すぐには軽い言葉を返さなかった。


 自動販売機から取り出した缶を手の中で転がしながら、少し考えるように空を見た。


「なるほどねー。ここは特別だしね」


「特別、ですか」


「うん。外でのデビューまでが数年でも、ここなら数日だったりするから」


 加奈子は缶のプルタブを開けた。


「千才学園って、学園自体がメディアみたいなところあるじゃない? 学内イベント、配信、広報、合同企画。うまく流れに乗った子は、ほんとにすぐ動き出すんだよね」


「はい」


「だから、焦るなっていう方が難しいと思う」


 その言葉に、愛希は少し驚いた。


 加奈子は笑う。


「でも、焦りすぎなくていいよ。愛希ちゃん可愛いし!」


「あ、ありがとうございます」


「それに、可愛いだけで終わる子じゃない気がする」


「え?」


「なんか、応援したくなるようなオーラが出てるよ!」


 愛希は目を瞬かせた。


 そんなふうに言われるとは思っていなかった。


「すぐに誰かがプロデュースとかマネジメントしてくれるよ」


「やっぱり、プロデュースを受けると変わるんですか?」


 愛希は思わず尋ねた。


 加奈子は大きく頷く。


「もちろん! 愛希ちゃんに合った仕事や企画を考えて、曲にライブに、撮影に配信にって組み立ててくれるからね。良い人を見つけたら、愛希ちゃんの魅力を何倍にもしてくれちゃうんだから」


「何倍にも……」


 愛希はその言葉を繰り返した。


 自分の魅力。


 そんなものが本当にあるのなら。

 それを、誰かが見つけてくれるのなら。


「今度、学内スカウトオーディションを受けてみたら? いい人に会えるかもよ」


「オーディションですか……正直、自信が」


「あはは、競争率高いしね」


 加奈子は苦笑した。


 愛希は缶を両手で包みながら、少しだけ視線を落とす。


「あ、あの……加奈子先輩」


「うん?」


「紹介とかって、お願いできませんか?」


 言ってから、愛希は慌てて頭を下げた。


「す、すみません! いきなりこんなこと」


「紹介か」


 加奈子は怒った様子もなく、むしろ真剣に考え込んだ。


「やっぱ修人先輩、かなぁ」


「三色先輩は、やっぱりプロデュース専攻なんですね」


「あ、わかる?」


「なんとなくですけど。私に対する質問とか、言動で」


 自身のイメージやビジョン的に問題ないか。


 ただの撮影モデル相手に、あんな聞き方をする人はあまりいない気がした。


 加奈子は少し得意げに笑った。


「修人先輩はすごいんだよ。なんてったって、あの神仙凛子のプロデューサーだからね」


「え?」


 愛希は思わず声を上げた。


 神仙凛子。


 その名前は、愛希にとっても特別だった。


 圧倒的な歌唱力とビジュアルで学内の企画を総なめにし、外部メディアにも何度も取り上げられた、千才学園アイドルコースの伝説のような存在。


 入学前から、愛希も彼女の映像を何度も見ていた。


 その神仙凛子を、三色修人がプロデュースしていた。


 愛希は、少し離れた場所に立つ修人の方を思わず見た。


 彼は柱に背を預け、九郎と何かを話している。

 その横顔は静かで、あの華やかな神仙凛子の影があるようには見えなかった。


「ただ、凛子さんが休学してからは、だーれもっプロデュースしてないんだけどね」


「それは、まだ凛子さんとの関係があるからでは?」


「うーん、それはないみたいだよ。凛子さんのマネジメント契約は破棄されてるって先生から聞いてる」


「そうなんですか……」


「凛子さんの実力はもちろんだけど、修人先輩の手腕もすごかったんだよ。学内のオーディションや企画を総なめして、その間にも学外のメディアで活躍して。ほんとすごかったなぁ」


「ええ。凛子さんのことは、私も好きでしたから。わかります」


 愛希は正直に言った。


 凛子の映像を見たとき、胸が震えた。


 こんな人がいるのかと思った。

 こんなふうに輝ける人が、同じ学園にいたのかと思った。


「もう、プロデュースはされないんですかね」


 愛希の言葉に、加奈子は少し寂しそうに笑った。


「うーん。もしそうなら、もったいないよねぇ」


     *


 その頃、少し離れた屋根付きの休憩スペースでは、九郎がベンチに腰掛け、カメラを弄っていた。


 修人はそのそばの柱に背を預けている。


 加奈子と愛希の声は、ここまでははっきり聞こえない。

 ただ、二人が何かを話しながら笑っているのは見えた。


 九郎はカメラのモニターを確認しながら、ぽつりと言った。


「うーん。良い子だな、あの子」


 修人は視線だけを九郎へ向ける。


「そう思うか」


「ああ」


 九郎はモニターを見たまま頷いた。


「俺はさ、いわゆるアーティストじゃなくて、撮れと言われた物を撮るプロを自負してるわけよ。こだわらないのがこだわり、みたいな」


「自分で言うと安いな」


「うっせえ」


 九郎は軽く笑った。


 けれど、すぐにその表情は少し真面目なものへ変わる。


「あの子をファインダー越しに覗いてて、思わず少し、自分の中のアーティストが顔出しかけたな」


「らしくないな」


「だろ」


 九郎はカメラのモニターを修人の方へ向けた。


 そこには、加奈子と話している愛希の写真が映っていた。


 カメラを向けられた時のような固さはない。

 上手く笑おうとしている顔でもない。


 ただ、相手の話を聞いて、少し驚いて、それからふわりと笑っている。


 その笑顔は、派手ではなかった。


 けれど、不思議と目が離せなかった。


「この子の笑顔を、もっと美しく、もっとかわいく撮りたい。そう思った」


 九郎は自分でも少し意外そうに言った。


「あの子が書いたプロフィール、覚えてるか?」


 修人は黙っている。


 九郎は続けた。


「応援してくれる人に夢や希望、笑顔を返せるアイドルに、だとさ。撮ってみて、ちょっとグッと来たよ」


 修人は何も言わなかった。


「で、お前から見ると、どんな印象?」


 九郎が、静かに問いかける。


 修人は、遠くを見るように目を細めた。


 そして、幼い頃のことを思い返していた。


 ──私がみんなを笑顔にする!

 ────みんなに希望を与えるアイドルになるからね!


 凛子は、太陽みたいに笑っていた。



 修人は目を開けた。


 視界に戻ってきたのは、千才学園の休憩スペースだった。


 ベンチに座る九郎。

 少し離れた自動販売機の前で、加奈子と話している天門愛希。


 愛希は、何かを言われて少し慌てたように手を振っていた。

 それから、困ったように笑った。


 その笑顔を見て、修人は小さく息を吐く。


「良い顔で笑う子、かな」


 九郎は、少しだけ目を細めた。


「へえ」


「なんだ」


「いや。何にも感じないわけじゃないんだなって」


 修人は答えなかった。


 ただ、もう一度だけ愛希の方を見た。


 天門愛希。


 まだ何者でもない、アイドルコース一年の新入生。

 一ヶ月間、何度も不採用を受け取ってきた少女。

 それでも、応援してくれる人に夢や希望、笑顔を返したいと書いた少女。


 その笑顔は、強い光ではなかった。


 誰かを圧倒するような輝きでもない。

 視線を奪って離さないほどの存在感でもない。


 けれど、彼女の笑顔を見ていると少しだけ頑張ろうと思える。


 そんな笑顔だった。


 その時、缶飲料を持った加奈子と愛希が戻ってきた。


「先輩たち~、飲み物どうぞー」


 加奈子が九郎に缶コーヒーを手渡す。


「お、サンキュー」


 愛希は少し緊張した面持ちで、修人へ缶コーヒーを差し出した。


「三色先輩、ど、どうぞ!」


「ありがとう」


 修人が受け取ると、愛希は少しだけほっとしたように笑った。


 九郎は缶コーヒーのプルタブを開け、立ち上がる。


「日が暮れるまでまだあるし、もうひと踏ん張りと行くか」


     *


 その後も、愛希への撮影練習は続いた。


 九郎は、光の向きや背景との合わせ方、見せたいものに対するアプローチを、雑なようでいて的確に教えてくれた。


 愛希は何度も頷きながら、少しずつカメラの前に立つことに慣れていった。


 修人は、ほとんど何も言わなかった。


 九郎や加奈子と時折目配せこそすれ、愛希に直接指示を出すことはない。

 ただ少し離れた場所で、愛希の様子を静かに見ていた。


 日が落ち始め、学園内の街灯がぽつぽつと点き始めた頃だった。


 芸能科棟からコンサートホールへ続く道の途中に、大きな案内地図があった。

 周囲の施設名や現在地、各棟へのルートが記された、学園内の案内板である。


 その前で、修人が初めて口を開いた。


「天門さん」


「はい」


「そこの案内板を見ている"()()()"()で立ってみて」


 愛希は少し緊張しながら頷いた。


「はい……こんな感じですかね」


 彼女はカメラを意識して、案内地図に対して斜めの位置に立った。顔は地図へ向けつつ、身体のラインがカメラに見えるようにする。これまで九郎に言われたことを、自分なりに思い出した結果だった。


 修人は少しだけ首を傾ける。


「惜しい」


「え、す、すみません」


「正解は、案内地図の正面に立つ」


「え?」


 愛希は思わず聞き返した。


「で、でもそうすると、私の背中で案内地図が隠れちゃいますよ?」


「その通り」


 修人は頷く。


「でも、その時は、カメラが動く」


 そして、九郎の方を見た。


「九郎、横から"ローアン"」


「へいへい」


 九郎は慣れた様子で愛希と案内地図の横へ回り、立膝をついてカメラを構えた。


 加奈子が小さく「お」と声を漏らす。


 修人は愛希へ視線を戻した。


「天門さんは、案内地図に対して真正面。上から地図の案内をしっかり読んでみて」


「は、はい」


 愛希は体の向きを変え、案内地図へと目を移した。


「ほ、本当に読むんですよね?」


「ああ。声には出さなくていいよ」


 修人は穏やかに言った。


「一つずつ、しっかりだ」


 愛希は言われた通り、案内地図を上から目で追った。


 普段、座学を行っている教室棟。

 基礎レッスンやトレーニングが行えるトレーニング棟。

 芸能科全体が利用する芸能科A棟とB棟。

 最新設備で彩られたスタジオ棟。


 そして、地図の端にあった。


 コンサートホール。


 アイドルコースの生徒が、最初に目指す場所。


 大きなステージ。

 客席。

 ライト。

 拍手。

 名前を呼ぶ声。


 いつか、自分もそこに立つのだろうか。


 そう思った瞬間、愛希の胸が少しだけ熱くなった。


 彼女は無意識に、コンサートホールの場所へそっと手を伸ばした。


 夢へ触れるみたいに。

 まだ遠い場所を、指先で確かめるみたいに。


 パシャ、とシャッターが切られた。


 九郎がカメラのモニターを見て、低く口笛を吹く。


「めっちゃ良いの撮れたぞ」


 加奈子と修人が九郎のもとへ近づき、今撮れた写真をチェックする。


「素敵!」


 加奈子が目を輝かせた。


 九郎はカメラを持ち替え、愛希の方へモニターを向ける。


「天門さん、見てみて」


 愛希はおそるおそる画面を覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、自分だった。


 案内地図の前に立ち、コンサートホールの場所へそっと手を伸ばしている。

 瞳は少しだけ大きく開かれ、そこには、まだ見ぬステージへの憧れと希望が映っていた。


 自分のことなのに、自分とは思えなかった。


 ただ地図を見ていただけのはずだった。

 案内を読んでいただけのはずだった。


 けれど写真の中の愛希は、まるでこれから始まる学園での生活と、いつかホールに立つ自分を想像しているように見えた。


 そこには、自分でも気づいていなかった夢への憧れが切り抜かれていた。


 愛希は、言葉を失った。


 修人が静かに言った。


「アイドルなら、広報素材として使えるだけじゃ五十点」


 愛希は顔を上げる。


「自分も魅力的に見えて、百点」


 修人の声は穏やかだった。


 けれど、その言葉はまっすぐ胸に入ってきた。


「アイドルなら、自分が輝くチャンスを逃さないように」


「私が、輝くチャンス……」


 愛希は、小さく繰り返した。


 その言葉の意味を、まだ完全には理解できない。


 けれど今、自分は確かに見せてもらった。


 ただ立つ場所。

 ただ読む地図。

 ただ伸ばした指先。


 それさえ、誰かの目と技術と少しの導きがあれば、輝きに変わるのだと。


 輝く者。

 輝かせる者。


 入学式で聞いた言葉を、愛希はふと思い出した。


 ステージに立つ者だけではない。

 その光を見つけ、支え、形にする者がいる。


 今、自分はその力を実感していた。


「さて、もう遅いし解散するかな」


 九郎がカメラを下ろす。


「そうですね!」


 加奈子も頷いた。


「やっとか」


 修人が小さく息を吐く。


 そう言いながらも、その表情はどこか柔らかかった。


     *


 学園の外へ用があるという九郎と加奈子は、途中で別れることになった。


 ただし、加奈子は別れ際に修人へ何度も念を押した。


「修人先輩、愛希ちゃんをちゃんと寮まで送ってくださいね!」


「わかってる」


「ほんとにちゃんとですよ。途中までじゃなくて、寮まで!」


「わかってるって」


 そうして、愛希と修人は二人で寮へ向かう道を歩き始めた。


 春の夜風が、少しだけ冷たかった。


 学園内の街灯が道を照らし、遠くのスタジオ棟にはまだ明かりが灯っている。どこかの練習室から、かすかに歌声が聞こえた。


「天門さん」


 修人が歩きながら言った。


「雰囲気くらいは掴めたかな」


「は、はい。おかげさまで」


「なんか偉そうに色々言ったけど、要はチームで動くわけだから、もっと気楽でいいよ」


「気楽に、ですか」


「そう。全部一人で正解を出そうとしなくていい。撮る人間がいて、見る人間がいて、支える人間がいる。今日みたいにな」


 愛希は、少し考えてから笑った。


「皆さんとなら、大丈夫な気がします」


「そう思ってくれてるなら、本番も安心だ」


 修人は小さく笑う。


「まあ、心持ちはあの二人を見習いな。あそこまで行くと、気楽すぎる気もするけど」


「ふふ」


 愛希は思わず笑った。


 緊張していたはずなのに、今は少しだけ呼吸が楽だった。


 この人は、話し方が落ち着いている。

 余計なことは言わない。

 でも、必要なことはきちんと見てくれている。


「あの、先輩たちって、どういう関係なんですか?」


 愛希は思い切って尋ねた。


「加奈子は後輩」


「はい」


「九郎は……友達かな」


 修人は少しだけ考えてから答えた。


「よく俺の部屋に風呂と洗濯をしに来る」


「風呂と洗濯……?」


「ああ」


「えっと……それは、どういう」


「そのままの意味だよ」


 修人はそれ以上説明しなかった。


 愛希は、九郎という人物への謎が深まった気がした。


 しばらく歩いてから、愛希は缶の残りを両手で包むように持った。


 聞いていいのだろうか。


 けれど、聞かずにはいられなかった。


「あの、気になったから聞いちゃうんですけど……」


「うん」


「先輩って、あの神仙凛子さんをプロデュースしてたんですよね」


 修人の歩みが、一瞬だけ止まった。


 ほんのわずかな間だった。


 けれど愛希には、その変化がわかった。


 修人はすぐにまた歩き出す。


「ああ。でも、もう昔の話だよ。契約は解消した」


「そう、なんですね」


「凛子が戻ってくるかどうかはわからない。けど、戻ってきても、俺はプロデュースする気はない」


 その言い方には、静かな線引きがあった。


 愛希は迷った。


 踏み込みすぎかもしれない。

 でも、どうしても聞きたかった。


「その……どうしてですか? 先輩と凛子さんなら、きっと……」


 修人は前を向いたまま、少しだけ目を細めた。


「天門さんは」


「はい」


「アイドルとしてより高みを目指すために、他人を蹴落としたり、仲間を捨てたり、何かを切り捨てたり……できる?」


「え……?」


 愛希は言葉に詰まった。


 問いの意味が、すぐには飲み込めなかった。


 より高みを目指すために。


 他人を蹴落とす。

 仲間を捨てる。

 何かを切り捨てる。


 それは、愛希が思い描いていたアイドルとは、あまりに遠い言葉だった。


「それは……」


 答えを探しているうちに、修人が静かに言った。


「凛子に、俺はついていけなかった。それだけだよ」


 愛希は黙った。


 神仙凛子。


 ポスターの中で、映像の中で、ステージの上で、誰よりも眩しく輝いていた少女。


 その光の裏に何があったのか、愛希は知らない。

 修人が何を見て、何を失ったのかも知らない。


 けれど、今の言葉だけで少しわかった。


 輝くことは、綺麗なことばかりではないのだ。


 愛希は足を止めた。


「私は、できません」


 修人も足を止める。


 愛希は、顔を上げた。


「私は、みんなを笑顔にしたいから。誰かの笑顔を奪うことは、したくありません」


 その声は震えていた。


 けれど、迷ってはいなかった。


 修人は、少しだけ苦笑した。


「はは。どうだろうね」


「本当です!」


 思わず強い声が出た。


 愛希自身も驚いた。


 けれど、引っ込めたくなかった。


「私は……まだ何もできません。歌もダンスも、すごく上手いわけじゃありません。何度もオーディションに落ちてますし、今日だってずっと緊張してました」


 言葉が少しずつ溢れてくる。


「でも、私がアイドルになりたいって思ったのは、誰かを負かしたいからじゃないんです」


 修人は黙って聞いていた。


「応援してくれる人に、夢とか、希望とか、笑顔を返したいんです。明日が憂鬱な人にも、私を見たら少しだけ元気になれるような、そんなアイドルになりたいんです」


 言いながら、胸の奥が熱くなった。


 恥ずかしいくらい、まっすぐな言葉だった。


 でも、それが愛希の本当の気持ちだった。


 修人は、静かに息を吐いた。


「ごめん」


「え?」


「疑ったみたいな言い方をした。天門さんなら、きっとそうなんだろうね」


 その言葉に、愛希の胸が少しだけ軽くなった。


 けれど同時に、今日一日で何度も思ったことが、頭の中で響いていた。


 アイドルなら、自分が輝くチャンスを逃さないように。


 チャンス。


 今が、それなのではないか。


 今日、自分をアイドルとして扱ってくれた人。

 自分の知らない表情を見つけてくれた人。

 ただ案内板を見ているだけの自分から、夢に手を伸ばす表情を引き出してくれた人。


 神仙凛子を輝かせた人。


 この人に、見てほしい。


 愛希は息を吸った。


「あの、先輩」


「うん?」


「私を、プロデュースしてくれませんか?」


 修人が目を見開いた。


「え?」


 愛希は両手を胸の前で握った。


「チャンスを逃すな……ですよね?」


 修人は何も言わなかった。


「私を……輝かせてください。先輩の力で」


 声が震える。


 でも、目は逸らさなかった。


「私は、みんなを笑顔にして、夢とか希望とか、明日が憂鬱な人にも少し元気を与えられるようなアイドルになりたいです」


 愛希は、一歩踏み出した。


「先輩なら、きっと……私をそんなアイドルにしてくれると思ってます」


 夜風が、二人の間を通り抜けた。


 修人はすぐには答えなかった。


 街灯の下で、愛希の髪が揺れている。

 その表情には不安があった。

 けれど、逃げる気配はなかった。


 凛子が活動を休止してから、修人のもとにプロデュースやマネジメントを希望する者は何人も来た。


 より高みへ。

 もっと強く輝かせてほしい。

 誰よりも上へ行きたい。

 トップに立ちたい。


 そんな言葉ばかりだった。


 それが悪いとは思わない。


 アイドルとして上を目指すことは、当然の願いだ。

 誰よりも輝きたいと願うことも、決して間違いではない。


 けれど修人は、その言葉を聞くたびに、凛子の最後の姿を思い出していた。


 強すぎる光。

 周囲を影に変える輝き。

 そして、輝いている本人さえ焼いてしまう熱。


 もう、自分は誰かを輝かせない。


 そう決めていた。


 なのに、目の前の少女は言った。


 みんなを笑顔にしたい。

 誰かの笑顔を奪いたくない。

 明日が憂鬱な人にも、少し元気を与えたい。


 案内地図を読むだけで、あんなに希望と憧れに満ちた目ができる少女。


 その純心を、信じてみたいと思った。


 もう一度、目指してみたいと思った。


 みんなに笑顔を届けるアイドルを、輝かせることを。


「本気?」


 修人は尋ねた。


 愛希はすぐに頷いた。


「本気ですっ!」


 迷いのない返事だった。


 修人は、しばらく彼女を見つめていた。


 それから、静かに笑った。


「わかった」


 愛希の目が大きく開く。


「天門さん。君の夢を、俺も見てみたくなった」


 修人は、はっきりと言った。


「だから、引き受ける。君をプロデュースするよ」


 愛希は一瞬、言葉を失った。


 それから、胸の奥から何かが込み上げてきた。


「……はい!」


 声が弾んだ。


「よろしくお願いします、三色先輩!」


 勢いよく頭を下げる愛希に、修人は少しだけ困ったように笑った。


「ああ。よろしく、天門さん」


 春の夜に、心地いい風が吹いた。


 遠くのスタジオ棟では、まだ明かりが灯っている。

 どこかの練習室から、歌声が聞こえる。

 学園のあちこちで、今日も誰かの夢が動いている。


 その中で、まだ何者でもない少女と、もう一度誰かを輝かせようとする青年が、同じ道を歩き始めた。


 これから始まる物語を予感させるように、千才学園の夜は静かに輝いていた。


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