プロローグ
ステージの上に立つ者だけが、夢を見ているわけではない。
歌う者がいる。
踊る者がいる。
笑顔で手を振り、客席から名前を呼ばれる者がいる。
その一方で、客席の後ろからカメラを構える者がいる。
音響卓の前で、歌声の輪郭を整える者がいる。
照明を操り、たった一秒の光で表情を変える者がいる。
まだ誰にも見つかっていない才能を見つけ、その子が一番輝ける場所を探す者がいる。
輝く者。
輝かせる者。
その二つが出会ったとき、ステージはただの舞台ではなく、物語になる。
トーキョーの南西部に、その物語を生み出すための学園があった。
千才学園。
芸能、スポーツ、芸術、学問。
あらゆる“千の才能”を育み、支え、世界へ送り出すために作られた巨大複合教育機関である。
正門から続く桜並木は、春の光を受けて淡く輝いていた。
門の向こうには、講義棟、レッスン棟、スタジオ、コンサートホール、屋外ステージが重なるように並んでいる。初めて訪れた者なら、ここが学校なのか、ひとつの街なのか、少しだけわからなくなる。
高等部のブレザーを着た生徒たちが、案内板の前で足を止めたり、友人と笑い合ったりしながら、それぞれの学科へ向かって歩いていく。制服にはある程度の改造が許されているため、同じブレザーでも着こなしは少しずつ違っていた。
リボンを大きめに結ぶ者。
カーディガンを合わせる者。
髪飾りや靴下で自分の色を出す者。
その中でも、芸能科へ向かう生徒たちはひときわ華やかだった。
その流れの中に、天門愛希は立っていた。
真新しいブレザー。
まだ少し硬いリボン。
肩の下まで伸びたセミロングの髪。
小柄な身体に、少し大きめの鞄。
彼女は正門を見上げ、胸の前でそっと手を握った。
「……ここが、千才学園」
声は、思ったよりも小さかった。
何度もパンフレットを見た。
説明会にも参加した。
動画でも学園の紹介を確認した。
それでも、実際にこの場所へ立つと、想像していたよりずっと大きく見える。
愛希は、芸能科アイドルコースへ入学するためにこの学園へ来た。
人々を魅了し、夢を与え、笑顔を作り出すアイドル。
応援してくれる人から愛を受け取り、その愛に夢や希望や笑顔で返す存在。
愛希は、そんなアイドルになりたかった。
ただ有名になりたいわけではない。
ただ可愛いと言われたいだけでもない。
学校や仕事で疲れた人が、画面の向こうの自分を見て少しだけ笑えるように。
明日が怖い人が、もう一歩だけ進んでみようと思えるように。
誰かの胸の奥にある小さな夢を、そっと押し出せるように。
そういうアイドルになりたかった。
けれど、正門の前に集まる同じ芸能科の生徒たちを見ていると、胸の奥が少しだけ縮んだ。
すでに芸能人のような空気をまとった少女がいた。
立っているだけで目を引く少女がいた。
通り過ぎる上級生に名前を呼ばれ、自然に手を振り返す少女もいた。
歌が上手い子。
踊れる子。
見た目だけで人を惹きつける子。
きっと、そういう子たちがここにはたくさんいる。
愛希は、自分の手元に視線を落とした。
歌は好きだ。
カラオケも好きだ。
けれど、誰かを圧倒できるほど上手いわけではない。
踊ることも嫌いではない。
けれど、小さい頃からレッスンを積んできた子たちと比べれば、きっと足りないところだらけだ。
少女漫画が好き。
お菓子作りが好き。
人を笑わせるのも好き。
声帯模写は少し得意で、友達にはよく笑ってもらえた。
でも、それがアイドルとして通用する特別な才能なのかと聞かれたら、愛希には自信がなかった。
それでも、彼女は笑った。
不安を隠すためでもある。
自分を励ますためでもある。
でも何より、笑顔だけは自分に残された一番確かなものだと思いたかった。
「大丈夫」
小さく呟く。
「私は、アイドルになるんだから」
その声に応えるように、正門の横で上級生が案内を始めた。
「芸能科の新入生はこちらでーす! アイドルコース、俳優コース、モデルコースの方は、第一講堂へ向かってください!」
周囲の生徒たちが一斉に動き出す。
愛希もその流れに加わった。
歩きながら、彼女はコンサートホールの壁面に掲げられた大きなポスターを見つけた。
過去の学内イベントの実績を記したポスターだった。
その中央に、黒髪ロングストレートの少女が映っていた。
強い眼差し。
整った横顔。
画面越しでも人を従わせるような、圧倒的な存在感。
神仙凛子。
愛希でも、その名前は知っていた。
かつて千才学園アイドルコース高等部で頭角を現し、学内イベントを総なめにした伝説のアイドル。圧倒的な歌唱力とビジュアルで注目され、学外メディアにまでその名を響かせた少女。
今は体調を崩して休学していると聞いている。
けれど、ポスターの中の凛子は、今でも少しも色褪せていなかった。
愛希はその姿を見上げる。
同じ学園にいた人。
同じようにこの門をくぐったはずの人。
けれど、今の自分とはまるで違う場所にいる人。
胸が、少し痛くなった。
愛希はまだ知らない。
ポスターの中で誰よりも眩しく笑うその少女にも、まだ何者でもなかった頃があったことを。
かつて彼女も、ただ誰かを笑顔にしたいと願ったことを。
そして、その願いを隣で聞いていた少年がいたことを。
*
その年、空はいつも曇っていた。
雨が降っているわけではない。
けれど、太陽は分厚い雲の向こうに隠れたままで、街全体が薄い灰色の膜に包まれているようだった。
子どもの頃の三色修人にとって、夏はもっと眩しいものだった。
蝉の声がうるさくて、額に汗が浮かんで、夕方になってもアスファルトが熱を持っていて。
友達と走り回った公園には、夕焼けの中で長く伸びる影があった。
夏祭りの神社には、赤い提灯が並び、焼きそばの匂いと、太鼓の音と、誰かの笑い声があった。
けれど、その夏の記憶は、ある時から灰色になった。
何度も続いた大雨。
季節外れの突風。
聞き慣れない警報音。
学校の体育館に敷かれた毛布。
大人たちの硬い表情。
テレビの中で繰り返される、知らない街の壊れた景色。
それは、修人の住む街にもやって来た。
通っていた小学校の一部は、壊れたままシートに覆われていた。
遊んでいた公園の遊具は、曲がった鉄の塊になっていた。
夏祭りの思い出があった神社では、倒れた鳥居のそばに、濡れたお札が泥に貼りついていた。
子どもの修人は、それをただ見ていることしかできなかった。
大人たちは忙しそうに動いていた。
誰かが怒鳴り、誰かが泣き、誰かが黙って瓦礫を運んでいた。
その中で、最近になって街で見かけるようになった、ロボットのような重機が働いていた。
その腕が瓦礫を片づけるたびに、街は少しずつ元の形を取り戻していくはずだった。
けれど修人には、何かが消えていくようにも見えている。
自分が知っていた学校。
自分が走り回った公園。
自分が夏祭りで綿あめを買った神社。
それらが、大きな鉄の腕に掴まれ、どこかへ運ばれていく。
もう戻らないのだと、子どもの修人にもわかった。
「修人!」
その声が聞こえたのは、壊れた神社の前だった。
振り返ると、神仙凛子が立っていた。
幼なじみの少女だった。
黒い髪は雨上がりの湿気で少し乱れていて、靴は泥で汚れていた。
けれど凛子は、そんなことを気にしていなかった。
彼女は、灰色の空の下で笑っていた。
それは、修人がその夏に見た中で、一番明るいものだった。
「私、決めたの」
「私がみんなを笑顔にする」
「私がみんなを笑顔にするから、修人は私を助けて。私を一番輝かせて」
その言葉の意味を、当時の修人はまだよくわかっていなかった。
凛子は、ぱっと笑った。
その笑顔は、太陽みたいだった。
*
愛希は、ポスターの前で一度だけ足を止めた。
風が吹く。
桜の花びらが、ブレザーの袖に触れて落ちる。
ポスターの中の神仙凛子は、まるで今もステージに立っているかのように眩しかった。
愛希は、その眩しさに少しだけ目を細める。
「……すごいな」
小さく呟いた。
憧れとも、羨望とも、怖さともつかない感情が胸に残る。
でも、立ち止まってはいられなかった。
今日は入学の日だ。
ここから、自分も始めるのだ。
愛希は、もう一度前を向いた。
何年も前、壊れた街の中で、ひとりの少女が「みんなを笑顔にする」と言った。
その願いは、確かに誰かの胸を照らした。
けれど光は、強くなりすぎることがある。
誰かを照らすはずだった輝きが、いつの間にか周囲を影に変えてしまうことがある。
そのことを、今の愛希は知らない。
神仙凛子を一番近くで輝かせた少年が、今はもう誰もプロデュースしていないことも。
その少年が、やがて自分の笑顔に足を止めることも。
何も知らないまま、愛希は千才学園の門をくぐった。
まだ何者でもない少女の一歩だった。
けれど、その胸には、たったひとつだけ確かな願いがあった。
応援してくれる人に、夢や希望や笑顔を返せるアイドルになりたい。
それは、かつて曇り空の下で生まれた願いと、少しだけ似ていた。
そして、少しだけ違っていた。




