野辺陸生という男
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停留所で『蛇』が来るのを待ちながら、お雛はご満悦だった。
片手には怨獣の骨入り風呂敷。これは白蜘蛛庵に戻った後、さざれに味噌汁の出汁にしてもらうのだ。獣系の妖が食べたいと思っていた所だったので、陸生の依頼はちょうど良かった。狩りに行く手間が省けた。
恨みつらみの強く残った骨肉は、味に深みがあって出汁にすると最高だ。ちょっと恨みが強すぎて苦い時もあるが、そこもまた良し。
具は何にしてもらおうか、とうきうき考えていると、「ううん」と紀平が眉を寄せた。
「どしたの、紀平」
「んー……なんか、あのな、怨獣に関して、忘れてることがある気がして」
のす、と紀平の頭に顎を乗せ、ぐりぐりとやりながらお雛は首をかしげた。
「忘れてること?」
「うー、それやめろ、重い」
顔をしかめてお雛を振り払った後、紀平が頷く。
「怨獣のことについて、まだなんかあった気がして。後で探してみる」
「ふーん。てか、あの爪結局なんだったんだろうね。美味しかったけど」
紀平も、ううんと唸って地面を軽く蹴る。
「もし、奥さんが怨獣に食われてたとしたら、その爪だよな。殺されたことを野辺さんに伝えようとしたとか? ……でも、なんで今日いきなり爪が現れたんだろうな」
「出せるんだったら最初っから出してるよねえ。あー、怨獣が野辺さんを狙ってるっていうのを夢で訴えてたけど、気づく様子が無いから焦れて爪を出した、とか?」
「……だからって旦那の弁当の中に大量に爪ぶち込む奥さん、俺やだ……」
「大丈夫だよー。ぼくなら、例え奥さんがお弁当に爪入れたとしてもすぐ気づくから。安心して入れていいからね、紀平」
「なんでお前と結婚する前提で話進んでんだよ。しかも俺が嫁で」
ここ二ヵ月ですっかりおなじみとなったやり取りを傍観していた藤野が、ふと視線を転じた。絡繰の軋む音を立てて、鮮やかな蛇体が近づいてきている。
「ほら、蛇来たし白蜘蛛庵に戻るぞ」
「ていうか藤野さあ、なんか知ってるでしょ」
「はぁ? なんだよいきなり」
「藤野、あの爪について野辺さんになーんにも言ってないじゃん。ぼくも紀平も見鬼は無いけど、藤野はあるんだから奥さんがどうなったとかも視えたんじゃない?」
じとー、とお雛は藤野を睨みつける。ちなみに藤野とお雛は身長が同じなので、すぐそこに目がある。
「藤野ー。俺とお前の間に隠し事は無しだろ、何隠してんだよ。教えろよ」
紀平もじとーっと藤野を見上げる。二対の視線に晒された藤野は、軽く肩をすくめた。黒漆に描かれた金藤が、午後の陽光を弾いて光る。
「ま、その内分かるって。ほら行くぞ」
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あれから、五日ほど経った。
今までのことは、全て夢であったのかと思うほど、陸生の周りには何も起きなくなった。夢も見ない。毛が落ちていることもない。至って平穏で、穏やかな日が続く。
お雛達が来た翌日、尋ねてきた宝楽には簡単に事情を説明した。怪異を祓ってもらったと言うと、「そうでしょうそうでしょう! あそこの店主は本当に、若いのにしっかりしていて……」と話が長くなりそうだったので、用事があると嘘を吐いて早々に引き取ってもらった。
命を助けてくれたお雛達はまだしも、あの白蜘蛛庵の店主はどうしても好きになれない。
あの、人を小馬鹿にしたような目と口調を思い出すと、胸の辺りがむかついてくるので、陸生は忘れることにした。
あれはもう、必要無いことだ。必要無いことを覚えていたってしょうがない。
「やれやれ、今日は暑い。梅雨もそろそろ終わりになるね。ねえさやか」
ついさやかに声をかけてしまう癖は、中々消えてくれない。だが、今はそれでいい。
もう水無月も半ば。これから雨は段々と遠くなっている。赤津国は火山が多いせいなのか、他に原因があるのかは知らないが、雨期の終わりが早く夏が長い。その為、団扇は飛ぶように売れる。かき入れ時だ。
忙しくなる時に、人手が足りないのは少々きつい。さやかと二人だったら――と思い、陸生は静かに首を振った。
「帰ってきたら、また手伝ってくれよ、さやか」
そんな事を呟いて、昼八つ半に店を開ける。午後から夜にかけ、湯冷ましがてら散歩している遊山客が、店を覗いて団扇を買う事も多いからだ。爪切りなどを忘れた客の為に、爪切りや櫛、手鏡なども売っている。
おかげで陸生の店は、結構繁盛していた。
「いらっしゃいまし、一つ団扇を見て行ってください。これ、涼し気で良いでしょう。赤津といえばやはり亀。なんてったって、うちの国守神は亀の御姿をしていますから。これを持てば怪異どころか禍神まで退散間違いなしと評判ですよ」
店に入ってきた客に歌うように団扇を宣伝しながら、陸生は愛想笑いを浮かべた。
午後に開けた店は、夜四つ|(二十二時)には閉める。流石にその時間ともなれば、人気が無くなるからだ。しかし本日は、それより一刻|(約二時間)も早く店を閉めた。
苛々としながら音高く戸を閉め、畳を踏み荒らして家中を歩き回る。腹の底から炎のような怒りが湧き上がってきて、罵倒となって口をついて出た。
「ああ、くそ、腹の立つ! なんだ、あの客は! 店の商品を台無しにしやがって!」
今日は暑かった分、団扇は面白いくらいに売れた。特に、宝楽の描いた金魚と亀の団扇が人気で、在庫が無くなってしまったほどだった。それは良い。そこまでは良かった。
陸生の気分をささくれ立たせていたのは、ちょっと前に訪れた客だった。
遊山に来た別国の武士のようだったので、陸生も丁寧に接していたのだが――この客が、しこたま酒を飲んで泥酔しており、店の中で吐くわ転ぶわの大騒ぎだったのだ。
しかも悪い事に売り物に向かって嘔吐した為、並べていた団扇は駄目になり。自分の吐瀉物で転んで棚ごと倒れ、飾っていた手鏡や櫛がいくつも割れる有様。
連れだっていた武士が連れ帰ってくれたものの、棚も起こさず、己の吐いたものすら片付けず。詫びだと置かれたのはたった銀一枚。ふざけるな、と叫びたくなるのを何とかこらえて頭を下げたが、腸は煮えくり返っていた。
「銀一枚。はっ。子どもの小遣いじゃあるまいし、その程度で賄えると思ってるのかっ! 金二枚の櫛もあったんだぞ! お笑いだ! 所詮、武士如きに櫛の価値など分かるもんか、あの抜け作共が!」
憤然とし、肩を大きく上下させていた陸生の耳に、愛らしい声が響いた。怒りのままに叫び散らしていた口が、ぴたりと閉まる。
ゆっくりと、首を巡らせた。
――にゃぁーお。
いつの間にか、陸生は厨房に来ていた。細く開けた勝手口の隙間から、猫がぬるりと入り込んできていた。上半身だけ厨房に突っ込み、こちらを見あげている。天井に吊った玻璃竹の明かりに、さび柄の毛並みが光った。
いつも遊びにくる、さび柄の猫だ。
まん丸の目と、目が合う。餌の催促をするように、猫がもう一度にゃぁーお、と鳴いた。
――ちょうどいい。
陸生は暗い目つきのまま、手を伸ばして素早く、猫の背中を鷲掴んだ。
動物を虐めると、驚くほど気分が晴れると気づいたのはいつ頃だったか。確か、七歳くらいの時だったように思う。
教え処の友達が、先生に文字が丁寧で良いと褒められたと自慢してきたのが鬱陶しくて、喧嘩をした。先生に見つかって怒られたのもあり、家に帰ってもくさくさした気分が続いていた。
丁度その時、陸生は白鼠を飼っていた。親にねだって、買ってもらったものだ。竹組みの小さな籠の中、鼠は暢気に寝ていた。夢でも見ているのか、小さな手が時々ぴくぴくと動いている。
なんで、こいつは幸せそうに寝ているんだ。こっちは胸がぎゅうぎゅう引き絞られるように痛くて、友達の顔を思い出すだけで顔が真っ赤になって涙が出そうになって、小さな身体の中に渦巻く激情を押さえ込むのに必死なのに。くぷくぷ、と寝息を立てる鼠を見ていると無性に腹が立ってきて――気づけば小さな陸生は鼠を掴み、畳に向かって力いっぱい叩きつけていた。
哀れな鼠はあっという間に死んだ。血を吐いて、びぐっと痙攣して、動かなくなった。その様を見ていた陸生は、胸がすーっとした。あれほど荒れていた心が落ち着いたのが、分かった。それが始まり。
親には間違って籠ごと落として死なせてしまったと、言い訳した。
当然、凄まじく怒られた。以後、動物を飼う事は禁じられたが、陸生は構わない。鼠、猫、犬。町を見渡せば、あちこちに動物はいるからだ。
それから苛ついた時には、動物を虐め殺すようになった。最初は殴る蹴るだけだったが、その内に刺したり焼いたり潰したり埋めたりと殺し方が増えた。殺したものは川に流したり藪の中に捨てたりしていたが、家の厠に続く濡れ縁の下に埋めることも多かった。
あそこは元々臭うから、更に臭くなっても気にならない。
「やだ、また。最近、鼠や猫の死骸が落ちてるのよ。何かしら」
「犬の仕業じゃない? この間、子猫を咥えているのを見たよ」
たまたま死骸を見つけた母が気味悪がっていたが、陸生はすました顔でそう答えていた。
「最近、庭によく動物の死骸があるんだが。陸生、なにか知らないか。お前この間、庭を掘っていただろう」
一度、父にばれそうになった事があった。その時は何とか言い訳を並べ立てて誤魔化したが、陸生は内心焦った。まずい。このままじゃ、ばれてしまう。父に本気で問い詰められれば、きっと喋ってしまう。自分はあまり嘘が上手じゃない。
考えて、考えて、考え抜いて、陸生は忘れることにした。
嫌なことがあれば、人は忘れようと努力する。陸生はそれが、少しだけ他の人より上手だった。
だから父親がまた問い詰めてきても、本気で分からず首をかしげた。だって陸生は、動物を殺していないんだから。
そうやって三十年近く、生きてきた。罪悪感はない。誰だって、不平不満があればどこかにぶつける。自分はただ、それが動物だっただけだ。
――陸生さん! 何をしているんですか!
なのに、さやかはそれを分かってくれなかった。さやかは、憂さ晴らしに力いっぱい野菜を切り刻む癖があった。だから、分かってくれると思っていたのに。なのに、だから――
「だから、ころしたんですか」
――はッ、と我に返った。




