野辺送り
陸生は、周囲を見渡す。
さやかの声が聞こえた気がした。空耳だろうか。真っ暗だ。何も見えない。立ち上がり、手探りで壁を探す。すぐに、馴染みのあるざらついた壁に辿り着いた。ここは己の部屋だ。
壁に手を付いたまま、ゆっくりと足を前に踏み出した。つまみを探さないと。壁に取り付けてあるつまみ。あれを捻れば、天井に吊った玻璃竹が灯って明るくなる。
やけに外が静かだ。いつもの酔漢の声も、人の足音も聞こえない。
――猫は?
ふと、気づく。
猫がいない。
さっきまで毛並みをぼろぼろにして足を引きずり、陸生から逃げ惑っていた猫が、どこにも。壁に叩きつけてやろうと首根っこを掴み、持ち上げていたはずなのに。
壁に手をついていない片手は、猫を掴んでいた形のまま、空になっている。
――あぁ
嫋やかな腕が、ぬぅ……と闇に浮かんだ。
月光を塗りつけたように、しらじらと光っている。
――なぁ
両腕の間から、額が滲み出るように浮かんだ。
水の中から浮かび上がるように緩慢に、鼻筋が。右に黒子のある鼻先が。唇が。ぬぅっ……ぬぅ……と浮かんでくる。その輪郭は仄白く、肌に色は無い。
――たぁ
白い唇の中の白い舌が動く。
「あ、ぁ……さや、さやか……!?」
壁に手を付いたまま、呆然と陸生は呟いた。
いつも夢で見るさやかの白い顔と両腕が、ぼう……と闇の中に浮かんでいる。手を伸ばせば届く、その距離に。
――あぁなぁたぁ
がさついてひび割れた声が、陸生の耳朶を打つ。
「さ、さやか……」
駆け寄らねば、と思う。
さやかが、愛しい妻がすぐそこにいるのだ。駆け寄りたい。駆け寄って、抱きしめたい。そう思っても、足が動かなかった。骨が糸にでもなったかのように、太腿の辺りがぶるぶると震えて力が抜ける。
陸生を見据えるさやかの目は暗く、澱んでいた。
黒曜石のようにきらめいていた瞳は、今や一片の光も通さぬ泥沼のように濁っている。
――あぁなぁたぁ
――あぁなぁたぁ
淡々と、絡繰のようにそればかりが繰り返される。
それでも彼女は、自分の愛しい妻だ。どれだけ姿が変わっていたとしても、さやかであることには変わりないじゃないか。なのになぜ、自分は恐ろしいと、見たくないと感じているのだ。
どくっどくっ、と心臓が駆け足になる。
「な、なんだい……さやか……」
糊でくっついたように強張った舌を、陸生はどうにか動かした。
「お前……今までどこに、いや……今、お前は……」
怨獣に食われたのか。それとも自分の意思で出て行ったのか。
そう、問いかける前に。
「しっているでしょう、あなたは」
さやかの手のひらが両頬に当てられ、真っ白い顔がぐいと近づいた。息がかかるほど近くに、濁った双眸がある。ひゅ、と陸生の喉が鳴った。
「しっているでしょう、あなたは」
先程までの、がさがさとひび割れた声ではない。女性にしては少し低い声が鼓膜を震わせる。いつもの、さやかの声だ。
だがその声は墓場の土を溶かしたように冷たく陰気で、彼女の持つ明るさと力強さを全く感じない。
「しっているでしょう、あなたは」
ゆっくりと、さやかが首を仰け反らせていく。
細く白い喉首を、陸生の眼前に晒そうとしている。それだけの動作。さやかが首を仰向けるだけ。なのにどうしてか、その動きがひどく怖い。心臓が馬鹿みたいに早く高鳴り、短く浅い呼吸が喉を焼く。陸生は咄嗟に、目をつぶろうとした。
「ぎゃ……っ! さっ、さやか止めろ、止めてくれ……!」
冷たい指が瞼にかかって、凄まじい力で開かされた。
ならばと顔を反らそうとしたが、さやかの力は強く振りほどけない。いつの間にか、身体は壁に手をついた状態で、ぴくりとも動かなくなっていた。金縛りだ。
さやかの首がとうとう真後ろにがくんっ、と落ちる。
細い喉首には、紐で締め上げたかのような跡がくっきりと残っていた。
首を横断する跡の上に、縦線がいくつも走っている。まるで、首を絞められた苦しさから逃れようと、何度も何度も爪で掻きむしったかのように――。
「あっ……」
ぱちっ。
陸生の脳裏で光が弾けた。弾けた光の中に、いくつもの光景が垣間見える。
――さやか、さやか! どこへ行くんだ!
――出て行きます! あなたがそんな人だと思わなかった! 犬を虐めて愉しんでいる人と一緒になった覚えなんてありません! あんなに餌をあげて可愛がっていて、あなたに懐いていた子にこんな、こんな……っ!!
――こいつは俺の憂さ晴らしに必要なんだ、お前と同じだよ!
真っ青になって声を荒げるさやかに、自分が言い返している。己の足の下には傷だらけの犬が横たわっていて、ぴくりとも動かない。
――ふざけないで、野菜と犬じゃぜんっぜん違うでしょう! 違う、違うに決まってるじゃない!
――待て、さやか! どこに行くんだ、番所か!? やめろ!
――離して!
――行かせるもんか、待て!
ぱちっ。
――お前だって、お前だって同じじゃないか、さやか! だってのになんで、なんで分かってくれないんだ! お前は俺の気持ちが分かるはずだろう!!
――が、ぁ……っ、ぁなっ、た……たす、け……てぇ……っ!
さやかの首を後ろから紐で締め上げる自分。金魚のように口をぱくぱくさせるさやか。
細い指が己の首を紐ごと搔きむしり、歪な縦線がいくつもいくつも刻まれていく。畳を蹴って暴れるさやかの首に回る紐に、更に力を込める。やがてその手から、身体から、力が抜けてさやかの膝が砕けた。
はぁー……と己の口から、大仕事をやり遂げた時のような溜息が零れた。
手から力が抜けた。さやかの身体が、蒟蒻のようにぐんにゃりと、畳の上に頽れる。
ぱちっ。
――よし。これでいい……こうして埋めてしまえば……誰にも見つからない。
闇の中。濡れ縁の下をいつものように掘り返して、さやかと犬を埋めた。黒い土の隙間に無数の白が覗く。暗い眼窩が、新入りを眺めている。
ぱちっ。
――さやか、そろそろ休まないか? ……さやか、どこに行ったんだ、さやか!?
誰もいない家の中を、必死に探す自分。草履をつっかけて、表通りへと飛び出していく。
それを最後に、脳内の光が消えた。
陰鬱な声が響く。
「おもいだした?」
「あ、ぁ……ちがっ、違う……こんな、嘘だ、こんな……」
嘘だ。嘘だ。あれは嘘だ。幻だ。怪異が見せた幻に過ぎない。そう必死に否定するも、陸生の喉はからからに乾いていた。両の手に、紐の感触が染み出すように蘇ってくる。
「おもいだした?」
「だ、だって……お前が、お前が止めるから……!」
瞬きできない目が乾く。痛くて涙がこぼれた。闇に浮かぶ紐の跡と、搔きむしった傷が歪んでぼやける。
「でなきゃ、お前を殺すことなんてしなかったんだ! おっ、俺だって憂さを晴らさなきゃやってけないってのに、お前が……お前のせいだ、お前が死んだのはお前のせいだ!」
重い闇の中に、陸生の絶叫が消える。
視界に映る細い首が、ぴくりと揺れた。
「――そう」
さやかが、溜息のように呟いた。
「わかったわ」
〇 ● 〇
「陸生さんっ、陸生さん! しっかりしてくださいな、陸生さん!」
「さっ! さやか、さやかが今ここに!」
「さやかさんはいませんよ、しっかりなすってください! あたしです、宝楽ですよ!」
肩を強く揺さぶられ、目を覚ます。
そこは庭だった。すぐそばに厠と濡れ縁が見える。陸生は厠の壁に額を付けるようにして、へたり込んでいた。
正気に返ると同時に糞便と肉の腐臭が混ざった悪臭が鼻を突き刺して、むせる。
「大丈夫ですか、陸生さん。背中をさすりますからね、落ち着いてください」
咳き込む背中に手が添えられ、優しくさすられる。
「近くまで寄ったので声をかけたんですけどね、お返事が無くって。もう休んだのかと思ったら、庭から悲鳴が聞こえるじゃありませんか。失礼ですが庭に入らせてもらったら、陸生さんがここで叫んでいるので、驚きましたよ」
「そ、そうでしたか……それは、ご迷惑をおかけしまして……」
隣の温泉宿の玻璃竹行灯が、しらじらとした月に負けないくらい明るい。広小路からは、深夜でもなお遊びに繰り出す人々のざやめきと、調子外れの歌声が聞こえてくる。
それらに助けられ、ようよう息が落ち着いた。
「それにしても、どうしたんです、一体。さやかさんがどうとか叫んでいましたが」
心配そうな宝楽の声に、陸生は顔を上げた。
「いえ、なんでも……悪い夢を見たようで……」
と、言いながら宝楽の方に顔を向ける。明かりがあるはずなのに、その顔だけが不自然なまでに真っ黒だった。
「えっ」
息が止まる。
唐突に、小柄な老人とは思えぬ力で顔を殴られた。
「ぎゃっ!?」
陸生はそのまま横に倒れる。すかさず足が来た。がんがんっ、がづがづっと凄い力で蹴られ、踏みつけられ、咄嗟に頭を抱えてうずくまる。背中が遠慮無しに蹴りつけられ、息ができない。
「なにっ、な――びぎゃっ!」
顔面を蹴り上げられ、顔全体に火がついたような痛みが襲った。鼻から血があふれ出し、口にも逆流して窒息しそうになる。
がんっがんっと脇腹を蹴られ、それから逃げようと必死に転がる。足が追いかけてくる。転がる。逃げる。
――どさっ、と。
一瞬の浮遊感の後、どこかに落ちた。そこそこの深さだったようで、強か打ち付けた身体が痛い。だが、蹴りはこない。それに少しほっとする。痛む身体に鞭打って上体を起こす。手のひらに湿った土の感触。陸生は固まった。
「――こ、ここ、は」
隣からの明かりと月のおかげで、自分の周囲がよく見える。
濡れ縁の下に掘られた、四尺|(約百二十一センチ)ほどの深さの穴。自分はその穴底にいた。
虐め殺した動物と、さやかを放り込んだ時の光景が目の奥に蘇った。一気に血の気が引く。
まさか、まさかまさかまさかまさか――!
顔を上向ける。少し高い位置にある束柱の隣に、宝楽の両足が見えた。湿った土が降ってくる。顔に当たる。払いのけるが、土は次々降ってくる。止めろ、止めてくれ。
「やめっ、やめろ、やめて! やめてください! ほうっ、宝楽さん、お願いします、何か気に障ることをしたなら謝ります、だからやめて!」
土の雨は止まない。陸生の身体が埋まっていく。ひぃ、と声が上がった。
「すみません、ごめんなさいやめて、死んでしまう、死んでしまいますから!」
涙がぶわっと噴き出す。まだまだ土は降ってくる。叫ぶ口に土が入って息ができなくなる。
「分かった、分かりました! さやかは殺したんです! おっ、俺が殺したんです、だからやめて、助け……」
土の雨が止んだ。
咳込みながら、陸生は土の混じった唾を吐き出す。
宝楽がゆっくりとしゃがみ込み、穴の中を覗き込んだ。
月光、玻璃竹。二種類の明かりに照らされたのは、黒々とした瞳に陰惨な光をたたえた、さやかの顔だった。
息が止まる。白い唇がゆっくりと開かれた。
「わたしも、うさをはらさなきゃ、やってけないのよね」
湿った声が穴の底に落ちる。
「あ――――っ!」
陸生の絶叫を封じるように、大量の土が一気に降り注いだ。




