のんべんだらりといつもの昼
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そやそやと、風が吹く。
誰もいなくなった庭を、月光と玻璃竹の光が照らす。一株だけ残った紫陽花の上で、一匹の蜘蛛がくつろいでいた。
色を抜いたように、染み一つ無い真っ白な蜘蛛。ぷっくり膨れた胴体に、緋色の炎模様が走っている。
「おや、まあ」
小さい頭が、人間のようにことりとかしげられた。象嵌された二つの目玉は刃物を溶かし込んだような銀色で、中央だけが炎のような赤橙に揺らめいている。
「女子とはやはり、怒らせると怖いものよなあ」
ころり、と笑う声が露の代わりに葉に落ちて弾けた。
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「赤津甲羅に相乗るはー、湯花飯酒、物言う花ー。あれあれこれぞ、あらまほしー」
昼時、お雛はいつものように白蜘蛛庵に向かっていた。流行りの戯れ歌を歌いながら、足をとんとん跳ねさせる。
雨の匂いのする風が、蜘蛛の形をした看板を揺らしている。空は今にも泣きそうなので、そろそろ雨が降ってくるだろう。それを見越して傘を持ってきたお雛に抜かり無し。
戸を勢いよく開け、土間のすぐ隣にある厨房に向かって大声を上げる。
「こーんにっちはー! さざれさーん! こないだの骨出汁でたー?」
しゃがんでいたのか、ひょいとさざれが顔を出した。銀瞳に内包されている炎が、うるさそうに揺らめく。
「喧しいわ、童。そう大声を出さんでも聞こえとる」
「そう? だって時々さざれさん裏とか二階にいるし、いない時だってあるじゃん。あ、じゃなくてさ、骨出汁でた? こないだ持ってきた怨獣の出汁」
「出汁取りは今朝終わっておるから、座って大人しく待っとれ。ああ、そうそう。今日は良い鯵が入っておるぞ」
白蜘蛛庵は、さざれの気まぐれで名物がころころ変わる。壁に品書きは貼ってあるが、あれは信用ならないのだ。通い始めのころ、品書きにある鱈の煎り酒和えなる美味そうなものを頼んだら、それはもう作っとらんと言われてお雛は泣いた。
二度とあの悔しい思いをしたくないので、お雛はなるべく食材を持ってくるようにしている。満面の笑みで、下げていた風呂敷包みをさざれに向かって突き出した。
「じゃあね、鯵のなめろう丼食べたい! あと昨日、藤野と紀平と山でけもどき狩ってきたから、これ味噌汁に入れてよ。んで、こっちは紙だからどうやって食べようかなあ。醤油かけたら美味しいかな。さざれさんどう思う?」
本日持ってきたのは肉と、ここに来る際に見知らぬ少女達がやっていた菓子問答――神様を呼んで質問をするおまじない――に使う紙だ。紙から神ではなく美味そうな怪異の匂いがしたので、適当に言いくるめてもらって来たのである。
風呂敷を受け取って、さざれが赤い唇を艶やかに微笑ませる。
「お主の鼻は犬並よなあ。ようもまあ次々見つけること」
「美味しいものは逃したくないからね!」
腕を組み、お雛はふんすっと胸を張る。
赤津国、ひいては陽之戸大陸全土に美味いものはあふれている。様々な料理、菓子。酒も美味い。西から渡ってきた西極料理なんかも最高だ。
しかしやはり、頂点に君臨するのは怪異だと思う。奴らは、普通の食べ物よりも味に深みがあり、甘味、苦味、酸味、辛味、渋味、全ての味を兼ね備えている。最高だ。
灰白色の髪をさらりと揺らし、さざれが首をかたむける。
「骨はどうする? 食うか、捨てるか?」
「食べるに決まってるでしょ! 骨煎餅にしてよ、骨煎餅! ……あ、そうだ。あとさー、さざれさん」
「却下よ」
「ぼくまだ何も言ってないのに!」
「お主の言いたいことなど、手に取るように分かるわ」
右手で何かを放り投げるような真似をしながら、さざれが嘲笑う。
お雛は地団太を踏んだ。
「さざれさん怪我とかすぐ治るんでしょ。じゃあいいじゃん、指一本くらいさあ! 食べたいよー、食べさせて!」
「ぬかせ小童。お主にやつがれの肉はもったいないわ」
ころころと笑んださざれが厨房と土間の仕切りに肘を乗せ、こちらに手を伸ばしてきた。
人差し指がつぅとお雛の唇に触れる。指先が唇の上で遊び、芳醇な香りが鼻を突き抜けた。頭がくらりとして、沸き上がった唾液が口の端から零れ落ちる。食べたい。食べる。口を開ける。鋭い歯が空を切った。
噛み切られる前に引っ込めた指を、そのまま自分の唇に当てたさざれが、楽しそうに笑った。
「やつがれを食らいたければ、もうすこぅし良い男になってから出直すことよなあ」
「ぐぬぬ」
まるで遊女のような台詞の後、猫の子を追い払うようにしっしと手を振られ。お雛は歯ぎしりして座敷に上がった。口の中にたっぷり溜まった唾液を飲み込んで、座布団を壁際から取り、座る。
視線を向けると、風呂敷包みを抱えたさざれが厨房に引っ込むところだった。
「……絶対、怪異なんだよね、さざれさんって。ぼくの鼻は誤魔化せないんだからね」
怪異の匂いは独特で、すぐ分かる。
完璧に隠形したなら流石のお雛も分からないが、さざれは正体を隠す素振りすら見せない。いつもいつもお雛を誘惑するように、美味そうな匂いを振りまいている。
「絶対あとで指一本もらってやる」
拳を握り一人、決意表明するお雛。その脳裏に、青みを帯びた宵色の長い髪が扇のように広がった。宵色の髪の中に浮かぶ玲瓏な顔が、ふぅと笑む。
――偉い貴方にはご褒美を。私と同じように、美味しいものを沢山食べられるご褒美を。肉も魚も野菜も酸いも甘いも辛いも苦いも渋いも紙も木も土も鉄も毒も薬も金も人も魂も怪異も神も。何でも全て食べられますよ。
甘ったるい蜜のような声が耳奥で蘇った。
まだ幼少のみぎり、お雛はご褒美を貰った。どんなものでも食べられるようになれる、素晴らしいご褒美だ。ご褒美をくれたその存在は更に、怪異を料理したものを食べさせてくれて、その美味さを教えてくれた。
美味しいものを好きなだけ、何でも食べていいと言われているのだ。だからさざれの指一本くらい、貰ったっていいはずだ。
はーぁ、とお雛は大きく息を吐く。
他の客が食べている料理の匂いが、容赦無く胃袋を刺し貫いた。腹が減っているところに、さざれにおあずけをされたせいで空腹は増し増しである。
そういえば、この店に来る祓い屋や異怪奉行所の同心達は、さざれの正体に気づいているのだろうか。見鬼持ちはわんさか来るが、怪異だなんだと騒ぐ人は見かけたことがないから、暗黙の了解なのかもしれない。
後で藤野と紀平に聞いてみよう。それにしてもお腹が空いた。
「あー、絶対絶対食べたいなあ……どんな味するんだろ……楽しみー……」
「何ぶつぶつ言ってんだよ、馬鹿雛。気持ち悪い」
「あ、紀平」
横合いからかけられた声にひょいと顔を上げる。お雛は真っ黒な目をぱちぱちとさせた。
「どしたの、それ」
紀平の頬に、赤い引っかき傷。しかも両頬に幾つも走って、血が滲んでいる。髪もぼさぼさだし、着物も汚れている。
「喧嘩? 珍しいねー、怪我したの?」
「俺が喧嘩で怪我すると思ってんのか」
紀平は引っかき傷だらけの頬を膨らませながら、お雛の向かいに胡坐をかいた。相変わらず、膨れた頬が餅のようで可愛い。
「五棚町の辺りで怪我したさび猫がいたから捕まえたんだけど、そん時に抵抗されたんだ。多分、人間に虐められたんだと思う」
「猫同士の喧嘩とか、犬に追っかけられたとかじゃなく?」
「俺とか他の人に対して異様に怯えてたし、傷口が完全に人間の手口だったんだよ。だってお前、犬猫が喧嘩で焼け火箸使うか?」
一応、犬猫専門の医者に連れてったけど、大丈夫かなあ。
そう呟いた紀平は、心配そうに肩をそわそわさせている。
「お医者に連れてったなら大丈夫じゃない? 心配ならご飯食べた後に様子見に行こうよ。ぼくも一緒に行くからさ」
「そだな」
「それにしたって、馬鹿な奴もいるもんだね。猫苛めたって、なーんにも面白くないのにさー」
「な。……あ、違う違う。そうじゃなくて、これ。今朝の奴」
「なに?」
四つ折りに畳んだものを紀平が懐から取り出し、広げる。瓦版だ。何やら派手な見出しが付けられて、人間が土の中から必死に這い出ようとしている絵が隣に描かれている。
「えーっと……見つけたのは隣の遊山客。朝風呂の後で窓を開け、隣家の濡れ縁下から手が突き出しているのを見つけ、身体の熱が逃げる始末。四半刻|(約三十分)後に掘りだされたのは、隣家の主人野辺陸生。遺体の形相凄まじく……」
瓦版の内容をつらつら読み上げ、紀平を見る。さっきまでの心配そうな表情とは打って変わり、精悍な顔に険しい表情を浮かべて腕を組み、下手な事を言ったら許さないとでも言いたげだ。
お雛は首をかしげた。野辺陸生。野辺陸生。
「……誰だっけ?」
手刀が飛んだ。
「いっだぁ!?」
「お前、頭に脳味噌詰め直せよ! この人、こないだ俺らに怨獣祓ってほしいって依頼してきた人だよ!」
「え、あ、あー。そういえばそんな名前だっけか。すっかり忘れてたよ」
手刀を落とされた脳天をさする。
そうそう、怨獣を祓って、怪異除けの札をあげた人だ。奥さんがいなくなったとかで、随分気落ちしていたのを慰めたのだっけ。そこは覚えていたが、名前は忘れていた。
「で、なんでその人が死んでんの? 盗人にでも入られたのかな?」
「それが、物を盗られた形跡は無かった、って。遺体に殴打の痕があったから、誰かに襲われたらしい。で、生きたまま埋められたようだって。ほら、ここに書いてる」
「うわ、やだねー。ぼく絶対に死ぬ時は生き埋め以外がいいなあ」
穴に落とされ、生きたまま上から土をかけられ、ちょっとずつ動けなくなっていって、息もできなくなって、土の中でじわじわ死ぬなんて最悪だ。
空腹も忘れるほど嫌な気持ちになって、お雛は眉をしかめる。
瓦版を見下ろす紀平の表情がふいと翳った。
「野辺さん、奥さんに会えないで死んじゃったのか……ひどい話」
「よしよし紀平、そう落ち込まないの。赤津の同心は優秀だから、すぐ犯人見つかるよ」
しょん、と落ち込む紀平の頭を撫でて慰め、ついでに頬をもちもちする。すぐに「やめろー」と振り払われたが、すぐに捕まえ、またもちもち。
「やめろよ牛」
「ぼくのあだ名まだ牛のまんまなの。……うーん、でも本当、なんで殺されたんだろうね」
「な」
紀平も、ことんと首をかしげる。
そりゃあ、ほんの一刻|(約二時間)ほどしか一緒にいなかった相手だから、その人となりを全て知ってるわけではないが。それでも、生き埋めにされるほどの怨恨を買うようには思えなかったのに。
「それはお主らが甘かったのよ」
ころころ、と楽し気な笑声が落ちた。
同時に振り仰ぐと、料理を持ってきたさざれがそこにいた。




