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今日も元気だ怪異が美味い  作者: 所 花紅
怨獣の出汁入り味噌汁

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7/31

夢から出で来た影

 それはいつからか、心のどこかで思っていたことだった。

 厨房で料理を作る、細い後ろ姿が目の奥に浮かんだ。とんとん、と心地良い音を立てて包丁を動かし、陸生の気配に気づいたさやかが空想の中で振り返る。


 ――あら、陸生さん。待ちきれなかったんですか? もう、子どもじゃないんですから。そんな所で待たないでください。


 笑み混じりに陸生を呼ぶ、声。

 あの声を聴くことは、もう二度と叶わないのだろうか。


「あ、あの……!」


 紀平が慌てた様子を見せた。


「それはまだ分から……」


 何かを言いかけた、その言葉をかき消すように。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 庭から、凄まじい獣の絶叫が轟いた。

 びくっ、と大きく紀平の肩が跳ねる。紀平をくっつけたまま、お雛が動いた。

 足の(すく)んだ陸生の横を通り過ぎ、障子を勢いよく開け放つ。


「ちょっと藤野、うっさいよ何してんの?」


 返答は、大音声の獣声だった。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 巨大な獣がいた。

 唖然(あぜん)として、陸生はそれを見上げた。

 横にも縦にもでかい身体は、庭を埋め尽くすほどだ。石灯籠は崩れ、さやかの植えた紫陽花が無残にも踏みにじられている。

 平面に飽いた影が実体を得て立ち上がったかのように、身体は漆黒。その姿は犬のようにも、猫のようにも、鼠のようにも見える。獣だとは思うのだが、瞬きするごとに形がぐにゃぐにゃと歪んで、安定しない。

 藤野が、それに真っ向から対峙している。手には鋭い槍が握られていた。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 獣が吠えた。夢で聞いていたのと同じものだ。恨みと苦しみ、そして怒りがたっぷりと混ざった、凄まじい音だ。咆哮が空気を震わせ、鼓膜を叩く。

 鋭くしなった尾が藤野を襲う。足を後ろに引いて藤野が(かわ)す。暗緑色の髪が風圧で(ひるがえ)った。お返しとばかりに槍が振るわれる。銀光の残像。斬り飛ばされた尾が宙を舞い、硝子のように一瞬で砕けた。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 怒りの遠吠え。切断面から新たな尾が伸び、竹垣を打った。ち、と藤野が舌打ち一つ。


「やっぱり霊力まとわせねえと効かねえか。まーしゃあねえな」

「うっわー、でっかいねえ! 食べ応えあって美味しそうー!」


 濡れ縁から飛び降りたお雛が裸足のまま、藤野に並ぶ。目の上に手で(ひさし)を作り、目を輝かせた。もう片手には包丁。藤野の槍といい、どこから取り出したのか。


「あれ持って帰って、揚げ肉にしてもらおーっと! 藤野も食べる?」

「あんな瘴気まみれの肉、お前以外に食えるわけねーだろ」


 巨大な獣を前に、言葉を交わす二人。暢気なやり取りはまるで、散歩の途中の会話のようだ。

 うきうきと楽しそうなお雛と、冷静な態度を崩さない藤野の背後で、陸生はひっひっと喉を鳴らしていた。膝が激しく笑っている。

 なんだこれは。なんだこれは。毎日落ちていたあの毛はこいつのものなのか。さやかはこいつに食われたのか。だから夢で陸生に訴えていたのか。

 不意に、ぎゅるん、と獣の顔面が陸生を向いた。

 獣にあるはずの長い鼻面も、髭も、口も、そこには無かった。平坦で、陶器のようにつるりとしている。なのに、無数の視線を感じる。


「……あっ」


 ぽちり、と小さな赤い光が顔面に浮いた。

 赤。赤。赤。赤。赤。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤――

 真っ黒な獣の顔に、身体に、尾に、ぽちぽちぽちぽちっと赤い光が次々浮かび上がった。

 夏に飛ぶ紅蛍(べにほたる)のように、可愛いものではない。目だ。赤い光は全て獣の目だった。全身に浮かび上がった無数の目が陸生を見つめ、凝視し、睨み、射抜く。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 犬と猫と鼠の鳴き声が、三重になって庭中に響いた。

 お雛と藤野の狭い間を()()()()と、身体を捻じってすり抜け、獣が陸生に一瞬で肉薄する。視界一杯にのっぺりとした顔が広がった。


「――――――っ!」


 自分の喉から金切り声が(ほとばし)っていることに、陸生は気づかなかった。

 力が抜け、その場にへたり込む。身体がその場から逃げようとするが、恐怖に縛られた身体は指先しか動いてくれない。

 死ぬ。死ぬ。殺される。あいつらに殺される。同じように殺される。蹴られて殴られて、刺されて焼かれて潰されて埋められて殺される。奥歯ががちがち震える。冷や汗が流れる。嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない嫌だ殺される嫌だ。

 思考が空転する。獣の前脚がゆるりと振り上げられ、雷のように鋭く振り下ろされた。零れんばかりに見開いた目の中、脚の先端に備わった白い爪が、やけにくっきり映る。

 陸生と獣の前に、人影が飛び込んできた。


「――織りなすは布、(つくろ)うは針、破れるに(あた)わず、崩れるに能わず……!」


 薄緑色の壁が、音も無く織り上がる。

 陸生を引き裂くはずだった爪が弾かれ、それた一撃が濡れ縁に五つの線を刻んだ。破片が石礫(いしつぶて)のように飛んでくるが、陸生に当たる前に薄緑の壁に弾かれ、ばらばら落ちる。


「早くなんとかしろよ、お雛、藤野! 俺、怖いんだよ、馬鹿!」


 紀平だ。ついさっきまで、怖い怖いと情けなく泣いていた少年が獣と陸生の間に立ち塞がり、両手を前に突き出している。

 肩を大きく上下させて全身ぶるぶる震わせながら、怨獣を睨みつつ紀平が叫んだ。


「そ、そこにいてください! 俺が結界張ったので、あいつは野辺さんに、手出しできませんから……!」


 言われて初めて、薄緑色の壁が己と紀平を丸く取り囲んでいるのに気付いた。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 結界に阻まれた獣が怒りの咆哮を上げた。全身に散った目が星のように輝く。邪魔をするな、と言いたげだった。

 犬にも猫にも鼠にも見える姿がぐねぐね歪み、苛立ったようにしなった尾が地面を抉った。凄まじい音と土煙が壁の向こうに立ち込め、紀平が小さく悲鳴を上げる。


「ひっ、ぅ……!」


 腰が引けたまま、それでも紀平は両手を前に突き出し続けている。


 ――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう


 もくもくと立ち込める土煙が散り、獣の姿がまたしても現れた。上体を低くし、腰を高く上げている。猫がよく、獲物に飛びかかる際にやる仕草だ、と察した刹那。

 獣の後ろに立っていた藤野が、懐から抜き出した札を鋭く投じたのが見えた。


「悪しきもの射て、閃火(せんか)(かぶら)


 藤野の言葉を受け、短冊状のそれが燃える矢に姿を変えた。狙い(あやま)たず、獣の首に刺さる。獣の巨体からすれば蚊に刺された程度の、小さな火矢。それが爆発した。絶叫。衝撃に耐えきれず獣が横倒しになる。地響き。砂混じりの風が結界を叩いた。

 獣の首が大きく抉れていた。傷口を覆うように白い炎が燃え盛っている。炎は燃え続け、漆黒の肉体をどんどん蝕んでいく。四本の足が、空しく宙をかく。


 ――ぎゃぉう みゃぉう ちゅうぅ


 弱々しい悲鳴が上がった。


「ま、お前は悪くねえんだが。助けるって約束したからな」


 倒れた獣の背後で、藤野が軽く肩をすくめた。その隣に立つお雛が、包丁を持つ手を肩からぐるんぐんと大きく回す。


「紀平、結界張ってくれてありがとね。そのままよろしくー」


 陸生達……正確に言えば紀平に顔を向け、お雛は笑顔で手を振った。金ぴか袴を翻し、立ち上がろうと足掻く獣の元へ近寄っていく。


「確かさあ、獣系の妖って普通の動物と同じで、傷を負ったら死ぬんだよね。じゃあ、首落とせば死ぬよねー」

「おう」

「りょうかーい」


 お雛が包丁を振り上げた。獣が地面をかく。立ち向かうというより、逃げようというような動きだった。首は白い炎にすっかり焼き尽くされて、かろうじて皮一枚で繋がっている。

 無数の目で己を殺そうとする相手を見上げ、獣が鳴く。それは死にかけの獣がいつもあげる、弱々しい声だった。

 へらり、と獣を見下ろしてお雛が笑う。


「だいじょーぶだいじょーぶ。残さず美味しく食べてあげるから」


 勢い良く包丁が振り下ろされ、獣の首が、ぶつんっ、と切り落とされた。

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