夢から出で来た影
それはいつからか、心のどこかで思っていたことだった。
厨房で料理を作る、細い後ろ姿が目の奥に浮かんだ。とんとん、と心地良い音を立てて包丁を動かし、陸生の気配に気づいたさやかが空想の中で振り返る。
――あら、陸生さん。待ちきれなかったんですか? もう、子どもじゃないんですから。そんな所で待たないでください。
笑み混じりに陸生を呼ぶ、声。
あの声を聴くことは、もう二度と叶わないのだろうか。
「あ、あの……!」
紀平が慌てた様子を見せた。
「それはまだ分から……」
何かを言いかけた、その言葉をかき消すように。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
庭から、凄まじい獣の絶叫が轟いた。
びくっ、と大きく紀平の肩が跳ねる。紀平をくっつけたまま、お雛が動いた。
足の竦んだ陸生の横を通り過ぎ、障子を勢いよく開け放つ。
「ちょっと藤野、うっさいよ何してんの?」
返答は、大音声の獣声だった。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
巨大な獣がいた。
唖然として、陸生はそれを見上げた。
横にも縦にもでかい身体は、庭を埋め尽くすほどだ。石灯籠は崩れ、さやかの植えた紫陽花が無残にも踏みにじられている。
平面に飽いた影が実体を得て立ち上がったかのように、身体は漆黒。その姿は犬のようにも、猫のようにも、鼠のようにも見える。獣だとは思うのだが、瞬きするごとに形がぐにゃぐにゃと歪んで、安定しない。
藤野が、それに真っ向から対峙している。手には鋭い槍が握られていた。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
獣が吠えた。夢で聞いていたのと同じものだ。恨みと苦しみ、そして怒りがたっぷりと混ざった、凄まじい音だ。咆哮が空気を震わせ、鼓膜を叩く。
鋭くしなった尾が藤野を襲う。足を後ろに引いて藤野が躱す。暗緑色の髪が風圧で翻った。お返しとばかりに槍が振るわれる。銀光の残像。斬り飛ばされた尾が宙を舞い、硝子のように一瞬で砕けた。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
怒りの遠吠え。切断面から新たな尾が伸び、竹垣を打った。ち、と藤野が舌打ち一つ。
「やっぱり霊力まとわせねえと効かねえか。まーしゃあねえな」
「うっわー、でっかいねえ! 食べ応えあって美味しそうー!」
濡れ縁から飛び降りたお雛が裸足のまま、藤野に並ぶ。目の上に手で庇を作り、目を輝かせた。もう片手には包丁。藤野の槍といい、どこから取り出したのか。
「あれ持って帰って、揚げ肉にしてもらおーっと! 藤野も食べる?」
「あんな瘴気まみれの肉、お前以外に食えるわけねーだろ」
巨大な獣を前に、言葉を交わす二人。暢気なやり取りはまるで、散歩の途中の会話のようだ。
うきうきと楽しそうなお雛と、冷静な態度を崩さない藤野の背後で、陸生はひっひっと喉を鳴らしていた。膝が激しく笑っている。
なんだこれは。なんだこれは。毎日落ちていたあの毛はこいつのものなのか。さやかはこいつに食われたのか。だから夢で陸生に訴えていたのか。
不意に、ぎゅるん、と獣の顔面が陸生を向いた。
獣にあるはずの長い鼻面も、髭も、口も、そこには無かった。平坦で、陶器のようにつるりとしている。なのに、無数の視線を感じる。
「……あっ」
ぽちり、と小さな赤い光が顔面に浮いた。
赤。赤。赤。赤。赤。赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤――
真っ黒な獣の顔に、身体に、尾に、ぽちぽちぽちぽちっと赤い光が次々浮かび上がった。
夏に飛ぶ紅蛍のように、可愛いものではない。目だ。赤い光は全て獣の目だった。全身に浮かび上がった無数の目が陸生を見つめ、凝視し、睨み、射抜く。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
犬と猫と鼠の鳴き声が、三重になって庭中に響いた。
お雛と藤野の狭い間をぐにゃりと、身体を捻じってすり抜け、獣が陸生に一瞬で肉薄する。視界一杯にのっぺりとした顔が広がった。
「――――――っ!」
自分の喉から金切り声が迸っていることに、陸生は気づかなかった。
力が抜け、その場にへたり込む。身体がその場から逃げようとするが、恐怖に縛られた身体は指先しか動いてくれない。
死ぬ。死ぬ。殺される。あいつらに殺される。同じように殺される。蹴られて殴られて、刺されて焼かれて潰されて埋められて殺される。奥歯ががちがち震える。冷や汗が流れる。嫌だ嫌だ嫌だ死にたくない嫌だ殺される嫌だ。
思考が空転する。獣の前脚がゆるりと振り上げられ、雷のように鋭く振り下ろされた。零れんばかりに見開いた目の中、脚の先端に備わった白い爪が、やけにくっきり映る。
陸生と獣の前に、人影が飛び込んできた。
「――織りなすは布、繕うは針、破れるに能わず、崩れるに能わず……!」
薄緑色の壁が、音も無く織り上がる。
陸生を引き裂くはずだった爪が弾かれ、それた一撃が濡れ縁に五つの線を刻んだ。破片が石礫のように飛んでくるが、陸生に当たる前に薄緑の壁に弾かれ、ばらばら落ちる。
「早くなんとかしろよ、お雛、藤野! 俺、怖いんだよ、馬鹿!」
紀平だ。ついさっきまで、怖い怖いと情けなく泣いていた少年が獣と陸生の間に立ち塞がり、両手を前に突き出している。
肩を大きく上下させて全身ぶるぶる震わせながら、怨獣を睨みつつ紀平が叫んだ。
「そ、そこにいてください! 俺が結界張ったので、あいつは野辺さんに、手出しできませんから……!」
言われて初めて、薄緑色の壁が己と紀平を丸く取り囲んでいるのに気付いた。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
結界に阻まれた獣が怒りの咆哮を上げた。全身に散った目が星のように輝く。邪魔をするな、と言いたげだった。
犬にも猫にも鼠にも見える姿がぐねぐね歪み、苛立ったようにしなった尾が地面を抉った。凄まじい音と土煙が壁の向こうに立ち込め、紀平が小さく悲鳴を上げる。
「ひっ、ぅ……!」
腰が引けたまま、それでも紀平は両手を前に突き出し続けている。
――ぎゃぁおおおおおおう びゃぁおおおおおおう ぢゅぅぅぅぅぅぅう
もくもくと立ち込める土煙が散り、獣の姿がまたしても現れた。上体を低くし、腰を高く上げている。猫がよく、獲物に飛びかかる際にやる仕草だ、と察した刹那。
獣の後ろに立っていた藤野が、懐から抜き出した札を鋭く投じたのが見えた。
「悪しきもの射て、閃火の鏑」
藤野の言葉を受け、短冊状のそれが燃える矢に姿を変えた。狙い過たず、獣の首に刺さる。獣の巨体からすれば蚊に刺された程度の、小さな火矢。それが爆発した。絶叫。衝撃に耐えきれず獣が横倒しになる。地響き。砂混じりの風が結界を叩いた。
獣の首が大きく抉れていた。傷口を覆うように白い炎が燃え盛っている。炎は燃え続け、漆黒の肉体をどんどん蝕んでいく。四本の足が、空しく宙をかく。
――ぎゃぉう みゃぉう ちゅうぅ
弱々しい悲鳴が上がった。
「ま、お前は悪くねえんだが。助けるって約束したからな」
倒れた獣の背後で、藤野が軽く肩をすくめた。その隣に立つお雛が、包丁を持つ手を肩からぐるんぐんと大きく回す。
「紀平、結界張ってくれてありがとね。そのままよろしくー」
陸生達……正確に言えば紀平に顔を向け、お雛は笑顔で手を振った。金ぴか袴を翻し、立ち上がろうと足掻く獣の元へ近寄っていく。
「確かさあ、獣系の妖って普通の動物と同じで、傷を負ったら死ぬんだよね。じゃあ、首落とせば死ぬよねー」
「おう」
「りょうかーい」
お雛が包丁を振り上げた。獣が地面をかく。立ち向かうというより、逃げようというような動きだった。首は白い炎にすっかり焼き尽くされて、かろうじて皮一枚で繋がっている。
無数の目で己を殺そうとする相手を見上げ、獣が鳴く。それは死にかけの獣がいつもあげる、弱々しい声だった。
へらり、と獣を見下ろしてお雛が笑う。
「だいじょーぶだいじょーぶ。残さず美味しく食べてあげるから」
勢い良く包丁が振り下ろされ、獣の首が、ぶつんっ、と切り落とされた。




