美味なるモノ
〇 ● 〇
見慣れた己の家が、なんだか他人の家のようだ。
「もう一人連れてくるから、先に帰っててよおじさん!」と、お雛に言われて戻りはしたが、素直に家に入ることもできず、陸生は玄関の前で手持無沙汰で待っていた。
爪先で道をがりがりとやりながら考えるのは、お雛と藤野という若者二人の事だ。
自分の身に起こったことを全て話した後、結局陸生はお雛達に依頼をした。
どうか、自分に悪さをしている怪異を祓ってほしいと。
だが、あれはいわば雰囲気に流された勢い任せの言葉だった。やはり別の……それこそ評判の良い祓い屋を探して、依頼するべきだったのではないかと、そんな後悔が頭をぐるぐる回っている。
帰る前に見かけた「占い屋・朝染~それでも僕はあの夏に消えた君を想って~」という屋台に座っていた、紫尽くめ店主の方がまだ頼れそうに感じてくる。
だが今更、「手間賃は払うから帰ってくれ」とも言えない。切羽詰まっているのは事実だ。あの生爪の謎を解決してもらわねば、今日この家で眠れる自信が無い。
それに、さやかの事もある。彼女の手がかり一つでも、どうにか得る事ができれば。
本日何度目かの溜息を吐いた陸生の耳に、明るい声が飛び込んできた。雑踏の向こうからでも響くほどの、大きな声。
「あ、いたいた! おじさーん、じゃなくて野辺さーん!」
のろりと首を向けると、人込みの中にお雛と藤野の顔がいた。頭一つ突き出しているから、すぐ分かる。お雛が満面の笑みで、片手を大きく振った。
「いやー、ごめんね! ちょっと色々あって。あ、これがさっき話してた紀平。紀平、こっちが野辺さん」
「紀平です……よろしくお願いします」
お雛の隣にいた見知らぬ少年が、ぺこりと頭を下げる。精悍な顔つきをしているが、なんだかその表情が暗い。
片手を腰に当て、藤野が陸生の背後にある家に顔を向けた。
「んで、そっちがあんたの家か。なんだ、今日は閉めてんのか?」
「ああ、いや、いつも昼八つくらいに開けるので、まだ……」
開けていなくて、と言いながらぴっちり閉じた玄関を見やり、また顔をお雛達に戻す。
二人になっていた。
「ん?」
瞬き一つ。
お雛の左には藤野。右にいた、紀平という名の少年がいない。よくよく見るとお雛の薄い腹の辺りに、後ろから伸びた両腕がきつく巻き付いていた。
完全に悪戯っ子の顔で、お雛が背後を振り向く。そばかすの散った顔が、にまっと笑んだ。
「なになに、きっぺー、怖いの? ぷるぷるしちゃって、かーわいいね」
「ごわ゛ぐな゛い゛!」
ぶるぶる震えながら、全身で怖いと断言している。
「怖くないなら、ちゃんと顔上げなよ。ほら、あれが野辺さんの家だってさ」
紀平が陸生の家に、そっと視線を向けた。
「ひっ」
榛色の瞳にたちまち涙が浮いて、ぶわっと噴き出る。
紀平がお雛の背中から離れた。顔から出るものを全部出しながら、今度は藤野の背中に抱きついて、顔を押し付ける。
「み゛ーぢゃん、お゛ばげい゛る゛……!」
「おーよしよし紀平。お化け怖いなー。おにーちゃんがいるから怖くないぞー」
「ちょっとお、なんで藤野に引っ付くのさ、紀平。そのまんまぼくの方にくっついてりゃいいじゃん」
自由の身になったお雛が、むっとした顔をしながら紀平の方に向かって両手を広げる。紀平は背中に顔を埋めたまま、ぶんぶんと首を横に振った。
「悪いなお雛、これが付き合いの長さって奴だよ」
「はぁー? 付き合いで重要なのは長さより深さですけどー? ねえ野辺さん。野辺さんもそう思うよね」
得意気に笑った藤野をねめつけ、お雛が陸生を振り向く。急に振られた話題に、陸生は困惑の表情を浮かべた。
「いや……遊びに来たのなら、今すぐ帰ってほしいんだが」
陸生の依頼を受けたから、ここまで来たのではないのか。
そんな意味を込めて少し睨むと、お雛が自分の胸を自慢気にどんと叩いた。
「まあまあ、任せてよ。ぼく達にかかればちょちょいのちょーいであっさりすっぱり解決してあげるからさ」
そして、真面目腐った顔で藤野に向き直る。
「というわけで藤野、野辺さん家に何があるか視てよ」
「へーへー。……ほら紀平、お雛の方にくっつけ。俺ちょっと庭行くから」
「……庭?」
藤野の言葉が引っかかり、陸生はおうむ返しに呟く。怪現象が起きるのは、いつも家の中だ。庭ではない。だから、視るなら家の中ではないのか。
藤野が陸生に視線を向けた。目鬘の奥にある瞳が、宝玉のように煌くのが微かに見える。
「獣の臭いが庭の方からするんでな。んじゃあちょっと視てくっから、お前らもやることやれよ」
そう言い残し、藤野は家の脇にある細い道を通って消えていく。
陸生は首をかしげた。獣の臭い。するだろうか。鼻を動かしてみても、そんなものは感じられない。
お雛が、すんっ、と鼻を動かした。その背中に抱き着いた紀平は、顔を埋めて肩を震わせている。
「んふふー。確かに美味しそうな匂いするー。……あーあ、早く食べたいなぁ」
「え?」
最後、ぼそりと呟かれた言葉に陸生は顔を上げる。
お雛はぺろりと舌なめずりをしていた。
「じゃ、家の中に案内してよ、野辺さん」
三日月のように細まった瞳が、空腹の獣のような物騒な光を放っている。底無し闇のような黒に射すくめられ、陸生はごくりと生唾を飲み込んだ。
「ここで、食事をしていたんだ。そうしたらさっき言った通りに、爪が……」
自室は陸生が逃げ出した時と、何も変わっていなかった。食べかけの弁当と、部屋の隅に放り投げた血肉の付いた生爪と。
「爪……あっ、ほんとだ。生爪だあ。紀平ほら、あそこに爪」
「ひぎゅっ」
落ちた爪に恐る恐る視線を向けた紀平が、奇声を上げて肩を大きく跳ねさせた。
ようやく止まった涙がまた零れて、歪んだ口から嗚咽が漏れる。本当によく泣く少年だ。斜向かいの鼻たれ坊主だって、ここまで泣かない。
「ふーん、これに爪が入ってたのかぁ」
背に顔を押し付けて泣く紀平を引っ付けながら、お雛が弁当をひょいと持ち上げた。そのまま顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。
「おっ、冷めてるけど美味しそう! 『亀餅屋』のお弁当だー」
陸生はその様子を、壁際に立って無言で見守っていた。
赤津国は、陽之戸大陸の中でも怪異事件が多い。その多さは「五歳になる前に医者と異怪に一度は駆け込む」と揶揄されるほどだ。陸生は幸いにも、この年になるまで怪異にちょっかいをかけられることは無かった。陸生の父母や、さやかもだ。
だから祓い屋の仕事にほんの少し、興味があった。遠目で見たことは何度かあるが、どうやって怪異を祓うのかは詳しく知らない。こんな時でなければ、年甲斐もなくわくわくしていた所だ。
――ああ。できることなら、さやか。君とこの気持ちを共有したかったなあ。
「お雛あぁぁ――――ッ! おまっ、お前何食べてんだ、馬鹿あぁああ!!」
ぼんやりと、さやかに思いを馳せていた陸生の耳を、紀平の絶叫が貫いた。
「なにって、爪」
答えるお雛の口から、ぱりっ、ぱりっと、薄焼き煎餅を噛み砕くような音が響く。
その音の正体に陸生が辿り着く前に、背に張り付いた紀平が、お雛の身体をがくがく揺さぶった。
「なんでっ! 爪なんかっ! 食べてるんだよ! やめろよ! 怖い!」
「だってお弁当に入ってたし。これ美味しいよ。なんだろうなー、浅漬けって感じ。あっさりしてて食べやすいの」
「やめろ、馬鹿! 俺もう浅漬け食べれなくなる!」
のほほんと感想を述べるお雛を、半泣きで紀平が怒鳴りながら更に揺さぶる。
「ちょっ、ちょっと待て、待ってくれ! 君、今なにっ、何を食べたって!?」
今、とんでもない会話が聞こえた。陸生は慌てて駆け寄り、お雛を見上げる。
「だから、爪だってば。弁当の中にいっぱい入ってたよ? 気づかなかった?」
お雛は行儀悪く箸を咥えたまま、陸生にも見えるように弁当箱を傾けた。
中のものを直視してしまい、陸生の喉が潰れた悲鳴を上げた。胃の中のものが逆流して、噴き出しそうになる。
米の他、卵焼きや煮びたし、焼き魚が入る弁当箱の中。生爪が一枚、二枚、三枚四枚五枚……二十枚以上。まるで己も具材であると主張しているかのように、素知らぬ顔でおかずのあちこちに混ざり込んでいた。
頭から足に向かい、一気に血が流れ落ちるような感覚がした。砕けそうになる膝を、必死に鼓舞する。少年達の前で、無様にへたり込みたくはない。年上の矜持だ。
「し、知らない……爪なんて、こんなに入ってなかった! 本当だ!」
「じゃあ、野辺さんがここから逃げた後に、誰かが入れたんじゃないかな」
「誰かって、一体誰が……!」
くらくらと眩暈がする。
答えは言われずとも分かっていた。
「怪異だよ、怪異。ね、紀平」
お雛は、自分の背後に視線を向ける。紀平はぐずぐずと鼻を鳴らし、背中に顔を埋めたまま何度も頷いた。
「紀平って、怪異の気配にすっごく敏感なんだよね。こうやってずっと怖がって泣いてるってことは、この家のどっかにいるんだよねー。怪異」
光の届かない闇底のような瞳が、障子に向けられる。
「多分、藤野が見に行ってる庭の方に本体がいるんじゃないかな。獣系の妖がいるって言ってたし」
箸で卵焼きをつまみ、お雛は当然のような顔で告げる。
卵焼きの端からは、爪が三枚ほど突き出していた。黄色い塊が口に運ばれる。ぱりっ、ぱりっと爪が噛み砕かれる。ごくり、と喉仏の浮いた喉が上下する。頬が緩み、口元に笑みが浮かぶ。馬鹿、馬鹿、と紀平が泣きながら、お雛の背を拳で叩いている。
誰のものとも知れぬ生爪を平然と食べ、心底から美味かったと笑みを浮かべる。その様が怪異より怪異らしく見え、う、と陸生の喉から呻き声が漏れた。
「なんで……そんなものを、そんな美味そうに食べるんだ!?」
気持ち悪い、と陸生は思わず吐き捨てた。嫌悪感に顔が歪む。対するお雛は平然としていた。
「大丈夫だよ、野辺さん。これね、本物の爪じゃないから」
口内のものを吟味するように目を閉じ、うーんと唸る。
「見た目が全部同じだし、味も全部同じ。それに本物の爪より味が薄いんだよねー。本物はもうちょい味濃いし。だからこう、怪異がうにゃうにゃして作ったのかなー。野辺さんを怖がらせる為に」
こちらの嫌悪もなんのその。あっけらかんとした態度にどう言葉を返せばいいか分からず、陸生は紀平に視線を向けた。お雛の背中に引っ付き虫のままだが、もう泣いてはいない。
「君、ちょっといいかな」
「はい、なんですか?」
小動物のように、おどおどと紀平は陸生を見下ろした。……陸生はこの中で、一番背が低いのだ。
「彼はなぜあんなことを? いくら本物じゃないとはいえ、あんなものを食べるなんて……ふざけているとしたら、悪趣味すぎる。正気の沙汰じゃない」
つい、年下相手に少し険のある物言いになってしまった。
紀平は申し訳なさそうに、肩をすくめた。泣いて赤くなった榛色の目が、お雛を見上げる。
「あの、こいつ……怪異、とか、それに関係するのを、食べることができるんです」
怪異、と口にする時、紀平の顔が丸めた紙くずのようにくしゃりと歪んだ。
「それであの、それがどれくらい危険だとか、種類は何かっていうのが、分かるんです」
「そうそう、そんな感じー」
ぱりぱり、と爪を噛み砕きながらお雛が笑った。弁当の中身はほとんど残っていない。
「ちなみにねー、この爪の味は怨霊かな」
ごくり、と喉仏を上下させて口内のものを飲み込み、続ける。
「怨霊ってさあ、お出汁しみしみの油揚げみたいに、じゅわーって甘味が広がって美味しいんだー。あっ、でも妖は種類によって色んな味がするんだよ。だからぼく、怨霊より妖の方が好き!」
んふふ、と笑うお雛を紀平が睨んだ。
「お前がさっさと食べ始めたから、俺が説明する事になったんだぞ。自分のことなんだから、ちゃんと自分で説明しろ」
「ごめんごめん、あんまり美味しそうだったから早く食べたくってさー」
「この牛」
「ちょっと、誰が牛だって? こんな美少年捕まえて、失礼しちゃうよ」
頬をつねられた紀平が、怒ってお雛の背を叩いている。
陸生は唖然と、そのやり取りを眺めた。
さやかが失踪してから胸の奥にずっと、紙に落ちた一滴の墨のような不安が凝っていた。お雛達の言葉で、それがじわじわと広がってくるのを感じる。
夢でしか聞けない、しゃがれた妻の声が脳裏に蘇った。
怨霊の爪。そう、お雛は言った。
心臓が、裏側から叩かれたように跳ねる。
その怨霊とはまさか、さやかの事なのだろうか。
さやかは既に死んでいて、陸生を憎んでいるのだろうか。
あの時、陸生が野良犬に構わなければ。ずっと一緒にいれば、さやかは今も隣で笑っていたのだろうか。
あの夢と獣の毛は、さやかがやっているのか。それとも、あの毛の主がさやかを殺し、陸生すらも食らおうと狙っているのだろうか。
畳を爪先で軽くこする。お雛と紀平の舌戦の合間を縫って、やけに大きくその音が響いた。
「もう……」
庭の紫陽花とさやかの笑顔が、脳裏に滲んだ。
「もう、さやかは生きていないのだろうか……」
ぽろり、言葉が零れた。




