夢三夜
〇 ● 〇
頬にかかった水で、お雛はふっと我に返った。
御先と目が合った。
相変わらず横向きのまま、ほろりほろりと、桃色の花弁を涙のように散らせている。お雛はただ、それを見つめ返していた。
温度が感じられない水中。ゆっくり手足を動かして立ち泳ぎをしながら、花の目から花弁を散らす御先を眺めている内に、お雛は大事な事を思い出した。
――あ。ぼくの、あれ。どこ行った?
さっきまで追いかけていた、あの内臓。御先が急に水面に上がってきたせいで、距離がだいぶ離れてしまったはずだ。
急いで、追いかけて、取り戻さないと。
左右の岩は、もう頂点が見えない。岩の先端が、空を撫でるのではというほどだ。
玻璃竹の明かりは変わらず天辺にあるのだろうが、水面までは届かない。底が見えるほどに透明だった水中は、いつの間にか紺色を溶かし込んだように暗く沈んでいた。
動かしているはずの己の手足さえ、ほとんど見えない。それでいて、すぐ前にいる御先だけは昼間のようにはっきりと見えるから、不思議なものだ。
――あっ、いた!
首を亀のように伸ばし、目を凝らす。揺れる波間に浮き沈みする内臓を見つけた。こちらもまた、御先同様にはっきりと見える。
右側の岩肌に身体を擦り付けるようにして、泳いでいる。
――よしっ、まだ追いつける。
急ごう。海に出てしまえば、もうあれはお雛の手に戻らない。
気合を入れ、力強く波をかこうとした所で――御先が動いた。
置物のように、横を向いたままだったのに。米俵のように大きな身体をぐいと動かして、右の岩肌を向くように回転した。
「あっ」
己の声が空気を揺らした。声を出したのは、これが初めてのような気がした。
御先の動きに合わせ、水面が大きくうねった。お雛の身体も上下に揺れる。お雛より軽い内臓が水流に捕まって、向きを変えた。そのまま、岩肌の切れ目にすぽっ――と入っていく。
「嘘ぉっ!」
お雛は、慌ててそこまで泳いだ。御先が優雅に泳ぎながら、隣を着いて来る。
内臓が入り込んだのは、屏風岩に真っすぐ入った細い切れ目だった。細いとはいえ、お雛がぎりぎり泳いでいける幅はある。
ただ、暗い。玻璃竹も月明かりも届かず、切れ目の奥は闇に沈んでいた。手前はかろうじて紺色の水面が見えるものの、奥の方は闇に包まれ定かではない。
墨を流したように真っ黒な中、時折きらりきらりと光るものがある。あれはなんだろう。波の光か、魚の鱗か。
お雛はその場で立ち泳ぎをしたまま、動けなかった。
――どうしよう。怖い。
あの内臓を取り戻さないと。そう思うのに、切れ目の奥まで泳いでいくのがどうしても怖い。見ているだけで、氷の縄で締め付けられているかのように、じんわりと冷たい恐怖が心臓から全身に広がっていく。
――いや、でも。
ぐ、とお雛は奥歯を噛み締めた。
――あれが無いと、美味しいものを、食べられない。
暗闇がなんだ。狭いのがなんだ。そんな事より、美味しいものを食べられなくなる方が、もっと、ずっと、怖い。
必要以上に、お雛は足に力を込めて水を蹴った。
隙間の奥へと泳ぐお雛を、また横向きになった御先が見ている。
ほろりほろりと、薄桃色の花弁を次々と紺色の中に沈ませながら、凝っと見ている。




