御先は帰る
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赤津国の国都、敷基からずっとずっと南に下った南端。在砂波という町がある。
赤津海を臨む町は、真夜中という事もあって静まり返っている。
在砂波は漁師の町だ。陽の昇らない内から漁に出るのだから、色町遊びに励むくらいなら布団と共寝する、という者がほとんどなのである。故に、呼び込みの声も物売りの声も無く、町は静寂に沈んでいた。
その、赤津海の砂浜に。
お雛は呆と立っていた。鳶色の髪を結わずに背に流し、着ているものは寝巻一枚。隠れるものの無い月が照らした顔は生気がすこんと抜け落ちて、半分開いた瞳は虚ろであった。
ふら、ふら、とお雛は僅かに上体を揺らす。ざざ、ざざと波音が鼓膜を通って脳味噌を震わせた。
それに操られるように、お雛は片手をゆっくりと持ち上げる。逆手で握られているのは、包丁。お雛が愛用している、怪異祓いの呪言が刻まれた一品だ。
それをお雛は頭上に高々と掲げる。よく研がれた刃に、月光が滴り落ちた。
――捨てるのならば。
――要らぬのならば。
ざざ、ざざ。波音が脳味噌をゆすぶる。それに混じって声がした。
「……いる……いる……」
柔らかく蕩けた寝言が、お雛の唇から漏れた。
――捨てるのならば。
――要らぬのならば。
「……いる……いる……いるから……」
頭を揺さぶる声と波音が、か細いお雛の声をかき消す。上体がぐらぐらと揺れた。
――慰櫃守媛神に、捧げ給へ。
「いる……あげない……ぼくの……だから……」
声と裏腹に身体は勝手に動く。包丁を握る指。小指だけがぴく、ぴく、と動いて柄から離れようとするものの、残り四本の指がしっかりと柄を握り込み、勢いよく腕を振り下ろし、己の腹に包丁を――
「止めろ、お雛」
がきりと、絡繰の腕が手首を掴んで押し留めた。
背後から掴んだ腕だけが包丁で腹を裂こうと、足掻く。力の入っていない身体が、腕の動きに合わせて振り子のように揺れる。
「……」
ギグは、僅かに眉をしかめた。手首を握り込んだ指の歯車が、ぎちぎち音を立てて軋んでいる。元々お雛の力は強いが、今はそれ以上だ。少しでも気を緩めれば、あっという間に振りほどかれる。
お雛の手首を掴みながら、生身の右腕を大きく振りかぶった。
「――慰櫃守媛神の御先に希う」
静かに呟き、持ってきたものを暗い海へと投げる。月の光を反射して、投じたそれ――帆立の貝殻が白く光った。
白波の向こうに貝殻が消えるのを確認し、ギグはもう一度口を開いた。
「確かにそれは彼にとって不要なものだが、同時に必要なものでもある。持っていくのは止めてほしい」
相も変わらず包丁を腹に突き刺そうとするお雛の腕を捕らえながら、ギグは静かに呼吸を数える。一つ。二つ。三つ。
五つまで数えたところで、大きな水音がした。薄氷色の視線を海の奥へと滑らせる。
海中から海上へ、黒い影が躍り上がったのを月光が照らしていた。
遠目でも分かる、額に大きな瘤のある奇妙な魚。それが弧を描いてまた、水中に沈んでいく。身体も水飛沫も小さかったのに、鯨が水面に尾を打ち付けたような、激しい水音が砂浜まで届いた。
くにゃり、とお雛の手首から力が抜けた。包丁が砂浜に落ちて、軽い音を立てる。
「……去ったか」
唇から、安堵の息が漏れた。
膝が砕け、砂浜に転がりそうになったお雛の腕を肩に回し、支える。ぐうぐうという健康優良児そのものな寝息が、耳のすぐ傍で響いた。
「慰櫃守媛神とは、妙なものに目を付けられたな」
慰櫃守媛神。
人によって打ち捨てられたものが流れ、行き着く先に存在するという女神。人から不要だと捨てられたものを己が子のように慈しみ、慰撫し、悲しみを癒す。
数多の神を産んだ夫婦神由来の神ではなく、人が口の端に乗せる伝承の中から産まれた存在だ。
「……不要と断じれば、なんでも持っていこうとするのは止めてほしいものだ」
「うふふ……駄目だよ藤野、その帯は牛乳で洗わなきゃあ……紀平に怒られるよお……」と謎の寝言を呟いているお雛を横目で見て、ギグは独りごちた。
慰櫃守媛神には、何体か眷属が存在する。あの魚……慰櫃の御先と呼ばれるものも、その一体だ。
不要なものを持つ人間を見つけると、夢に干渉して暗示をかけ、不要なもの――病巣や縁のような形無いものも含まれる――を、海に捨てさせる。海の無い場所に住んでいれば、海辺まで転移させて、だ。
不要なものが、皿や本のようなものであればまだいい。
だが御先は時に、腹の中にある病巣を自ら抉り取らせる、我が子や友人を海に捨てさせる、という行動をさせるのが厄介だ。暗示をかけられているから、本人が無意識なのが一層、質が悪い。
お雛を支えながら、ギグは視線をつぅと上に滑らせた。
砂浜の奥には、松林がある。白い砂浜に向かって張り出した枝に、きらりと光るものがあった。
「見逃していたのは、わざとか?」
静かに問いかける。松の枝から下がった細い蜘蛛の糸。胴体に炎模様が入った白い蜘蛛が、その先にいた。
「無論よ」
ころころ、と白い蜘蛛が笑った。
お雛を支えたまま、白蜘蛛に手のひらを向ける。つぅ、と糸を伝って下りて来た白蜘蛛が、そこに乗った。
くきり、と首が動いて蜘蛛が顔を上向けギグを見る。月光に照らされた蜘蛛の顔に瞳は二つしか無く、炎を閉じ込めたような赤が揺らめいていた。
「さざれ」
ギグは静かに、蜘蛛の名を呼ぶ。蜘蛛――さざれが、鼻提灯を膨らませて寝ているお雛に目を向けた。
「ほんに、紀平も藤野も甘い甘い。これの異変に気づかんとはなあ」
後でみっちり教え込んでやらんと、と笑うさざれを見下ろして、ギグは横に首を振った。
「仕方ないだろう。慰櫃の御先の縄張りは陽之戸の北だ。本当なら、この辺にまでは来ない。知らなくても無理はない」
「何を言う」
八つの足の内、二本が口元に「まあ」と言わんばかりにわざとらしく当てられた。
「祓い屋を名乗るなら、陽之戸におわします神の名と、怪異の名を全て覚える気概は見せてほしいところよ。そも、御先だなんだとお雛が言い出した時に、ただの戯言と流さず不審に思い、三人で調べれば容易く分かったろうに。あれらの怠慢よ、怠慢」
「む」
ギグは口を噤んだ。それに関しては、確かに一理あるように思える。
寝こけるお雛を一瞥したさざれは、軽く肩をすくめた。蜘蛛の姿だったので、足を軽く上下させるような動きだったが。多分肩をすくめたのだろうとギグは思った。
「ギグ殿が助けねば、明日の瓦版はさぞ賑わったろうに」
細い足が、ギグの手のひらの溝を軽く引っかいた。擽ったい。お返しにぷっくり膨れている胴体を指で押すと、嫌がるようにさざれはギグの手のひらから逃げた。
二の腕の辺りまで登ってきて、しげしげとギグを見上げる。
「気づかぬようだったから、これが死んだ後に過ちに気づかせてやるつもりだったのだぞ、やつがれは。その方が、あれらも今後は一切の油断が無くなるだろうと思ってなあ」
「それは駄目だ」
さりげなくお雛を犠牲にし、藤野と紀平を成長させる算段を立てていたさざれに、ギグは薄氷色の瞳に少し険を混ぜた。
「二人が自責の念で潰れるだろう」
「ならばそれまでの器よ。主様の役に立つに値せんわ」
「その器も磨けば光るものになるかもしれないだろう。無下に斬り捨てるのもどうかと思うが」
「磨くに値せんものにかける時間は無い」
ふん、とそっぽを向くさざれに、ギグは小さく息を吐いた。
「よいか、お主始めとして赤津国の祓い屋という存在は皆々、我が主たる羅丁様の手足となるべく存在しておるのだ。それ以外に価値など無いわ」
ギグの右腕から、さざれはするりと下りる。小さな蜘蛛の足が砂浜に立ったかと思えば、瞬き一つで人の姿に変じた。
灰白色の髪を潮風に揺らして、さざれはころりと笑ってギグを見上げる。笑ってはいるが、ちりりと燃える炎瞳は全く笑っていない。
赤津国の国守神、和赭神。その神使である武の羅丁。さざれは、その羅丁の眷属の一体である。
そんなさざれが、わざわざ人に化けて祓い屋専門の飲み屋を開き、お雛達を試すような真似をなぜするのかといえば。
「やつがれとてな、一応これと、紀平と、藤野にはそれなりに期待をかけておるのよ。故に、なあ。ちいと厳しくしたとてよかろ。そもそもお主らが不甲斐ないから、主様が厄災を祓う為に現世に降りる事になるのよ」
「そうか。すまん」
刺々しい瘴気が突き刺さるのを、ギグは肩をすくめてやり過ごした。
ぐーすか寝こけているお雛はといえば、「ええー……おじさん、ぜりぃの温泉ってなぁにい……食べ放題の蛇……? うふふ」と相変わらず呑気な寝言を呟いていた。図太い。
赤津国において、人の手に余るほどの凶悪な存在が現れた場合、羅丁が降臨してそれを討ち祓う。
さざれは、そこが気に入らないらしい。
何でもかんでも、己が主に頼るな。人間の問題は人間で解決せよ、というのがさざれの言い分で、その為に見込みある者を見つけては鍛えている。
前に「一人で禍神の二柱や三柱、いやさ十柱くらいは祓えるような人材が揃えば言う事無しよ」と言っていたので、「それはもう人間じゃない」と返したら「喧し」と罵られた。
それはともかく。
「ま、御先に気づかずとも、お雛の背にはやつがれの糸を付けていたのだがなあ。これにすら気づかんとは」
つい、と細い指を動かしたさざれが、お雛の背に付いた己の糸を回収した。月光に照らされて光るそれは、よくよく視ればうっすら瘴気をまとっている。
ギグを見上げたさざれが、口元に皮肉気な笑みを刻んだ。
「わざわざお主が忠告したというのになあ。ほんに甘いこと」
「お前は厳しすぎる」
「は? まだ優しいが? 殺しておらんだろ」
家族友人が怪異によって弑されるのが、修行において一番の燃料になるのだぞ。と、滔々と語るさざれ。
ギグは表情を変えないまま、静かに考えた。
殺さなければ優しいのだろうか。それは少し、いやだいぶ違う気がするが。
心にぽっかりと開いた喪失の穴は、怪異を憎む力の湧き所になるだろうが、怪異を引き寄せる蜜壺にもなる。匙加減を間違えればたちまち、闇に心を引き込まれてしまうだろう。
忠告してやろうと思ったが、考えればさざれは、何百年も前からこうして人を育てているのだ。ならばギグの懸念はとっくに分かっているのだろう。なら、自分が何を言った所で無駄だ。無駄な事は言わない主義だ。
「お雛達を泣かせるなよ」
なのでギグは、釘を刺すだけに留めた。さざれからの返事は、鼻を鳴らすだけだった。
海風が冷たくなってきたので、ギグはお雛を背負った。
「……冷たいな。風邪を引かせる前に帰らないと、幸左が心配する」
海に背を向け、ギグは足を踏み出す。さっさと帰ろう。でないと、朝までに敷基に戻れない。
横に並んださざれが、指先を揃えた手のひらを頬に当てて、こくりと小首をかしげた。
「しかしギグ殿。よくまあ、貝札なんぞ持っておったなあ。この辺では売っておらんだろ」
「ああ、適当な酒屋で貝殻を買って作った。急ごしらえだったが、上手くいって良かった」
後は、お雛の背に付けられたさざれの蜘蛛の糸を追えばよかった。
御先に魅入られても、実際にものを捨てるまでは二、三日の猶予がある。その間に、これはまだ捨てないので見逃してほしい、という旨を書いた貝札を海に投げ込むことで、御先は去っていく。
ちなみに御先に干渉されている者は、夢に対する認識が「慰櫃の御先」にすり替えられる。例えば「夢を見た」という言葉が「慰櫃の御先に会った、あるいは見た」というように。
「うむ。それで良い良い。赤津の祓い屋ならばそうでなければ」
満足そうに、さざれが頷く。よくできた猟犬を褒めるような声音だった。隣を歩く灰白色の頭を見下ろして、「それから」と言葉を続ける。
「幸左が泣きながら連絡してきた。甥が妙な事を言っていたとな」
「あれがいくら気を揉んだ所で、何かが変わる筈も無かろうに」
炎色の瞳に、小馬鹿にするような色が灯った。
「そも、お雛が怪異を喰らい続けている限りは、向こうとて満足するのだ。それは昔、散々に、説明してやったというに」
散々、という場所にかなり力が籠っていた。
「仕方無いだろう。幸左はその道に疎い」
元来た道をゆっくりと戻りながら、ギグは続けた。
「甥の胃袋が怪異のものと置き換わっているんだ。お前や俺がどう言葉を尽くしても、心配なものは心配なんだろう」
〇 ● 〇
目を覚ますと、見慣れた天井が見えた。
起き上がり、お雛は大きく伸びをする。同時に襖が、音を立てて開かれた。
「お雛! おはよう大丈夫か寒くないか変な夢見ていないかいや夢、夢って言えるか!?」
「おはよー、おじさん! どしたの朝から。夢がどうかした?」
きょとん、とお雛は首をかしげる。
「夢なんて、ぼくここ最近見てないよ。疲れてるのかなー。寝るとすぐ朝になるんだよね」
「……そ、うか…………良かったあ――……」
幸左は、膝から力が抜けたようにへなへなと座り込んだ。そのまま廊下に突っ伏し、動かなくなる。近づいてみると、すうすうという寝息が聞こえた。
「あれ、おじさん。おーじーさーん?」
肩を揺さぶってみるが、幸左はぴくりとも動かない。
お雛は、ぱちりと真っ黒な瞳を瞬かせた。
一体どうしたんだろう。変なおじさん。




