夢二夜
〇 ● 〇
気が付いた時には、お雛は腕を前に向かって振り抜いていた。
――あれ。
何をしているんだろう、と頭に沸いた疑問に答えるように。
ぺしゃん。
なんだか間の抜けた音が下の方から聞こえた。目を落とすと、手に持っていたあの内臓がぷかりと水に浮いている。
真ん中の膨らんだ部分が、少しだけ沈んでいるものの、道のように真っすぐ走った水の流れに、内臓は浮いていた。
――ああ。捨てたんだっけ。
相も変わらず霞がかったように働かない頭で、そう思う。
お雛が捨てた内臓は、水の流れに乗ってゆっくりと海へ向かって泳いでいく。かぷかぷ、かぷかぷ。音も無く浮き沈みし、右に左に目を向けることもなく、かぷかぷ、かぷかぷ。
それをお雛は目だけで追った。
流れる水を左右から挟む岩の上には、白い明かりがぽっ、ぽっ、と点いている。闇が払われ、水面が鏡のように光る。
空は帳を下ろしたように真っ黒。少し目を上げれば、岩の向こうも真っ黒だ。海に続く流れだけが昼間のように明るく、水底まではっきり見える。小魚が吐き出した真珠のような泡が、ぷつぷつと水面で弾ける様まではっきりと。
かぷかぷ進む内臓のそばを、銀の鱗を翻した魚がついと横ぎった。それに揺らされて、内臓がほんの少し右に逸れた。天に伸び始めた岩にぶつかりそうになるも、止まることなく大海目指して泳ぎ続ける。
――あ、もう行っちゃう。
あと少しで、内臓は大海に泳ぎ出ていく。そうすれば、二度とお雛の手にあれが戻ることはない。かぷかぷと流れる内臓は小さくなってく。今はもう卵くらいの大きさだ。ここが最後の機会。これを逃せば。もう二度と。
視点がさらりと変わった。
お雛は水の中にいた。飛び込んだ感覚は無かった。不思議には思わなかった。内臓の後を追うように、泳ぎ始める。
――変なの。自分で捨てたくせにさ。惜しいだなんて。
流れに乗って手足を動かすと、身体は抵抗無く前に進んだ。水をかく腕も、水面から出した顔にも、濡れた感触は無い。ふわふわと空気の中を泳いでいるかのように身体は軽いし、息も苦しくない。
水中は恐ろしいほど透明で、水底一面に広がる粒の細かそうな砂も、ゆらりとそよぐ海藻も、所々に転がる黒石もくっきりと光の中に浮かんでいる。
塵一つ見当たらない、磨き抜かれた鏡のように煌いた水面に泡を立てて、お雛は泳ぐ。
――身体が軽いや。面白い。
これなら追いつけるかもしれない、と淡い期待が胸に灯る。
変な気分だ。あれはいらないと思ったのは、お雛のはずなのに。
どうして捨てようと決めたのか、その辺りの考えはくり抜かれたように無かったが、多分いらないと思ったから捨てたのだ。いらないなら捨てる。それは当たり前のことだ。
なのに、二度と手に入らないと思ったら、急に惜しくなった。
――なんでかなあ。なんで惜しいって思うんだろう。あれ、そんなに大事なものなのかなあ。
分からない。分からないが、あれを取り戻したい。
足で水中を蹴って、進む。水は冷たくも温くも無かった。岩から降り注ぐ光は眩しいくらいで、先が良く見える。だから夜の海でも怖くない。
すい、すいと泳ぐお雛の下を、小魚の群れが斜めに横切っていく。すぐ下を泳いでいるように見えるのに、水をかき分ける爪先には鰭が掠りもしない。
――ひょっとして、ここって凄く深いのかな。
水自体がひどく透明なので、あまり深さは感じないが。
――まあ、いっか。泳げるし。
首以外を水に沈め、手を櫓のように動かしながら足をばたつかせる。出鱈目な泳ぎ方でも、溺れずすいすいと進めた。
ぼくって実はかなりの泳ぎ上手だったのかしらん、と思いながら、前を行く内臓に目を向ける。水中に気を取られているうちに、内臓はだいぶ先を行っていた。
――いけない。早く追いつかないと。
お雛のことなど知らぬげに、かぷかぷ、かぷかぷ流れる内臓はもう、屏風岩の辺りに差し掛かっている。あそこを抜ければ、海に出てしまう。
そびえる屏風岩の切れ間から、海が見えた。昼間のように明るいこちらとは裏腹に、闇を溶かし込んだような暗い波がゆったりと揺れている。時々白波が生まれては、波の合間に消えて行くのがここからでも見えた。
――ああ、もう。なんで追いつけないんだろ。
かぷかぷと流れるだけの肉塊と違って、お雛は手足を操って泳いでいるのだ。流れ自体は緩やかだから、追いつけるはずなのだ。が、どれだけお雛が強く水を蹴っても、その距離が縮まらない。
水面のように凪いでいた心が、小石を投げ入れられたように波立つ。波立つ波紋が収まる前にまた新しい小石が投げ入れられ、いっかな落ち着くことがない。
――早く、早く捕まえないと。あれ、取り戻さないと。
そればかりが頭に浮かぶ。距離は少し縮まったが、まだ届かない。伸ばした手が水面を叩き、飛沫が舞う。
――あれ、ぼくのなのに。
水中を蹴る。唐突に生まれた水流に驚いた魚の群れが、火花のようにぱっと散った。
ぽっこり丸い真ん中を半分水に沈めた内臓は、右側の屏風岩に添うように流れていた。何も入っていない為、水面に浮いた端っこが、そりそりと岩を撫でている。
――もうちょっと。
もう少しだ。あと少しで、手がその端っこを掴める――と思った瞬間だった。
不意に大きな影が水中から上がってきて、分厚い尾鰭を大きくくねらせた。
――あっ。
大きな尾鰭が、お雛と内臓の間をかき乱す。かぷんっ、と一度沈んだ内臓はまた浮き上がり、その流れに乗ってしまった。
かぷかぷっ、かぷかぷっ、先ほどよりもずっと早く、海へ向かって流れていく。
慌てて追いかけようとしたお雛の前に、先ほどの影が立ち塞がるように浮かび上がってきた。
夜明け近くの空を切り取ったような、紺青の鱗。横を向いた身体はずんぐりとし、大きさも相まって米俵のようだ。
――あ、こいつ。
魚の額辺りには、大きな瘤。知らない。こんな魚は見たことが無い。拳骨くらいにぶくりと膨れた瘤の下で、ぎょろり、と目が動いた。
お雛はその場で立ち泳ぎをしながら、思った。頭に、ぽんと言葉が浮かぶ。
――こいつ、御先だ。
魚独特の無機質な丸い目玉に黒目は無く、桃色の光を固めたような柔らかな花が咲いていた。花弁が重なり合った丸い花から、雫型の花弁がほろりほろりと一枚ずつ落ちて、水底に沈んでいく。
ほろりほろりと涙のように花弁を落としながらも、形が崩れない丸い花が、お雛を凝っと見ている。




