いつもの朝
〇 ● 〇
「お雛、どーした? 朝からずっとにやにやして」
箸を持ったまま、伯父の幸左が怪訝な顔をする。その向かいに座ったお雛は、炊き立ての白米を口に運んだ。もぐもぐと米を噛む間も、表情が緩むのを止められない。
「なんか面白い夢でも見たのか?」
「うん。ぼくと紀平と藤野と海に行ったんだけどさあ、藤野が生魚は釣りたてが一番美味しいって言うの。あの藤野がだよ? もー、おかふぃぃんだほ、ほんっほ」
卵焼きを食べながら、ケラケラと笑う。漬物を飲み込んだ幸左が、小さな子どもを叱るような声を出した。
「こら、口にものを入れたまま喋るな」
「むぃ」
むぐむぐごくんと、口いっぱいに詰め込んだ卵焼きを飲み込む。
それにしても本当に面白かった。魚の形に切った果物すら嫌がる藤野が、新鮮な魚を食べようと誘うなんて。今日藤野に会ったら絶対に言おう。
「……藤野君はえーっと、どっちだ。白髪に緑めっしゅ入れてる子か?」
違うよー、とお雛は首を横に振った。
「白髪なのは紀平の方。藤野は目鬘つけてる方だよ」
「ああ、そっちの子かあ」
言って幸左は、申し訳無さそうにぽりぽりと頬をかく。
「おじさん、その二人とは一回しか会ったことないから、ちゃんと分かんないんだよなあ。誠一君と鹿之介君なら分かるけど」
「そりゃ誠一と鹿之介は幼馴染だもん。分かんない方がおかしいよー。あ、ところでおじさん、めっしゅってなに?」
「んー? こう、髪に少し別の色を入れてる感じの……」
「ふーん」
六畳の部屋の中心にある丸卓を二人で囲み、他愛無いことを喋りながら食事を取る。
幸左は取材と称して昼夜問わず飛び出していくし、お雛も美味そうな怪異の情報を聞くや否や飛び出すから、二人でゆっくり一緒に食事を取る時間は、実は貴重だ。
幸左はお雛が何を話しても、楽しそうに聞いてくれる。瓦版記者の性なのか、本人の資質なのか分からないが、聞き上手なのでとても話しやすい。記者の仕事に関わらない程度に、各地の話を聞かせてくれるのも楽しい。
それに何より色々なお喋りをしながら食べる食事は、やっぱりいつもより美味しいのだ。あと幸左は料理上手。とても美味しい。
「藤野君は生魚嫌いなのか?」
「だいっきらいだよー。あのねえ、刺身は普通に無理だし、半生も食べないんだよね。前にこっそり、藤野のご飯の中に魚の切り身入れたら、すっごい悲鳴上げてさー」
「そんなことしたのか」
「そんなことしたの。そしたらね、もーあいつめったくそキレて『お前今度やったらケツ五百回しばいて白蜘蛛庵の軒下に吊るすぞ!』ってぼこぼこにされてさー。いやー面白かった!」
あの時の藤野を思い出すだけで面白くなり、お雛はケラケラ笑う。「いやいやいやいやいやむりむりむりむりえっなんでいやあぁぁぁ!」と甲高い悲鳴を上げて茶碗を放り出す藤野を思い出すだけで、ご飯三十杯はいける。
なおその声に腹筋を刺された紀平は、蹲って全身を震わせ、しばらく立てなくなっていた。
「あっ、でもその後、『わたしは人の食事に生魚を入れた極悪人です』って書いた板ごと柱に縛られて、焼き魚の匂いをひたすら嗅がされたんだっけ! あーれは腹立った! お腹空くし! みんな笑うし! 紀平は写真撮ってばっかだし!」
「お、おう……」
頬を引きつらせながら曖昧に頷いた幸左だったが、すぐに真剣な顔になるとお雛の額を指弾した。
「いてっ」
「友達に悪戯仕掛けるのは良いけど、それはやり過ぎだぞ。お雛は悪戯で度を超すことがあるから、気を付けなさい」
「はぁーい。気を付けます」
真剣な声に、お雛はぴょこりと片手を挙げた。
次に悪戯する時は寝ている藤野の鼻に、刺身と海鮮丼の匂いを嗅がせるくらいにしよう。
朝食を食べ終わり、幸左と共に茶碗と皿を持って厨房に向かう。幸左が皿を洗うので、お雛はそれを拭いて片付ける役目だ。
手を動かしながら、お雛は幸左を見下ろした。
「そういえばね、おじさん。お土産の赤沼団子美味しかったよ。炒った松の実が入った餡子って、なんであんなに香ばしくって美味しいんだろうねー」
思い出すだけで、じゅるりと涎が出てくる。さっき朝食を食べたばかりなのに、もうお腹が空いてきた。ぐぐぅ、と小さく腹が鳴る。
茶碗にこびりついた米粒をこそげ落とした幸左が、心配そうに眉をひそめた。お雛より低い背をかがめ、顔を覗き込むようにする。
「なんだ、もうお腹空いたのか? 朝ご飯足りなかったか?」
「んーん、別にぃ」
「そうか……お腹空いたらいつでも言うんだぞ。なんだったら、おじさん敷基中の飲食店全部貸し切ってお雛おんりー無料食べ放題開催するからな」
「おんりーの意味は分かんないけど、いいなーそれ。敷基のご飯屋さん全部貸し切りかぁ……」
最高だ。できるなら、いつかやってほしい。黄金色の菓子をいくら積めば実行できるかは横に置いておく。現実は見たくないので。
そんな話をしている間に皿洗いも終わったので、着替えに行こうとしたら肩を掴まれた。振り向くと、幸左が心配そうな顔をしている。なぜか片手には煎餅の入った皿。
「今日ちょっと朝ごはんのおかず足りなかったからなあ。煎餅あるから、食べような」
お雛は唇を尖らせる。
「おじさんさあ、心配し過ぎじゃない? 確かにいつもより少なかったけど、ぼくだってもう十五なんだし、お腹空いたら自分でなんか食べるよ」
「いいから、これ食べなさい」
幸左の桃色の目は真剣だ。絶対に引かぬという強い意思を感じる。
「……はーい」
まあいいか、と切り替えてお雛は頷いた。実際、小腹は空いている。
わずか一歳で母を亡くし、父の顔は知らないお雛なので、幸左は実の親のような存在だ。幸左もお雛を実の子のように可愛がってくれる。今のように少しお節介だと思う時もあるが、基本的には甘やかしてくれるので全力で甘えている。
「じゃあ、煎餅食べよーっと。おじさんも一緒に食べようよ。あとお茶も飲みたいなー、お茶。ぼく、昨日おじさんが買ってきたあかがね茶がいいなー」
ごろにゃん、と幸左にすり寄り早速甘えると、「おじさんに任せなさい」と幸左は胸を叩いた。
「じゃ、お茶入れてくるから部屋で待ってるんだぞ。我慢できなかったら、先に食べてていいからな」
お雛の手に押し付けられた深めの木皿には、二十枚ほどの煎餅が入っていた。醤油、塩、海苔の三種類。大人の手のひらくらい大きくて、美味しそうだ。
お茶の準備を始める幸左の背中は、どこか焦ったような空気をまとっている。両手が慌ただしく動き、急いでお茶を淹れてお雛に煎餅を食わせて満腹にしないと、とでも言いたげだ。
ちょっとお腹が空いたくらいで大袈裟な。
「別に、お腹が空いたからってあちこち齧ったりなんかしないのに」
朝食を食べた部屋に戻り、早速煎餅を一枚。ばりんと砕ける食感がたまらない。行儀悪く肘をつき、醤油煎餅をばりばり食べながらお雛は呟く。
「そりゃ確かに、昔はお腹空きすぎて長屋の共同井戸齧ったり、おじさんの書いてた瓦版の草稿食べちゃったり、煮物ごと鍋齧ったりしたけどさあ。今はもう分別付いてるもんね」
この前、藤野と紀平と芝居を見に行った時だって。うっかり弁当を買い忘れて芝居途中で空腹に耐えきれなくなり、座っていた筵の端っことか筵の重しにしていた石をごりっと食べるくらいで済ませたのに。
「いやでもあれ、考えてみたら結構あれな行動してたかな……半分くらい筵食べちゃったし、藤野と紀平に怒られたし……でもまあ二人がお弁当分けてくれたからいっか! うん」
うんうん、と一人頷く。
幸左を待ちながら、二枚目の煎餅に手を伸ばす。海苔を巻くのではなく、練り込んだ海苔煎餅は真っ黒で、齧るとぶわっと口の中に磯の香りが広がった。
「そういえば、磯の匂いがしなかったなあ……」
ばりぼりと硬い煎餅が砕ける音が脳の中に木霊する中、ふとそんな事を思い出す。
生魚を食べる事に積極的な藤野が非常に面白くて、その場面ばかりが印象的だが、思い出してみると変な夢だった。
もう細部があやふやで、思い出そうとするとほどけて消えていってしまうが、藤野と紀平を見送った後、何かを拾ったような気がする。
美味しそうだと思ったから、多分食べ物だ。まあ、お雛にとってはこの世の全てが食べ物なのだけど。
「えーっと、それを拾って、そんで……」
それから、それから……うーん、と唸る。
その美味しそうなものを拾って、どうしたのだったか。砂浜を歩いていたような、海を覗き込んだような。ただ、食べてはいないはずだ。美味しいとも不味いとも思った覚えはない。……よく思い出せない。
「まあでも、いひつのおさきってそんなもんだしねえ」
指をぺろりと舐めながら、ひとりごちる。
同時に、襖が開いた。
お盆に湯呑みを二つ乗せた幸左だ。ぱっとお雛は笑顔を浮かべ、手を伸ばす。
「おじさん遅いよー。お茶ちょうだい、お茶」
「ああ、うん」
幸左は曖昧に返事をすると、お盆を丸卓に置いてお茶をお雛に手渡した。湯気の立つそれを、喜んで受け取る。
あかがね茶は赤津国でよく飲まれるお茶で、色は番茶に似ている。麦焦がしのような香ばしい甘さが、口内の塩気を緩めてくれるのがたまらない。一口飲んで、ふはぁとお雛は息を吐いた。
「あー、美味しい。やっぱり煎餅にはあかがね茶だよねー」
ばりんばりんと煎餅を食べながら、へらへらと笑う。
向かいに幸左が座った。茶にも煎餅にも手を付けず、お雛をじっと見つめる。どうしてか困ったような、何かを言いたげな顔をしている。お雛はその視線を受けて、瞬きをした。
「どしたの、おじさん。あっ、もしかしてミツユビトビグモの幼虫でもいた? あいつら隙間あるとすーぐ入ってくるもんねえ。ぼく退治しよっか。おじさん触れないしね」
幼虫といえど三寸|(約九センチ)もの体躯を持ち、危機を感じるとびょんびょん跳ね飛ぶ奴らは、赤津国どころか陽之戸大陸一の嫌われ虫だ。お雛も流石に、あれを食べようとは思わない。
幸左は、額の左側にある古傷を爪先でかいた。意を決したかのように、お雛を見つめ直す。
「いや……そうじゃなくて。お雛、お前さっきなんか変なこと言ってなかったか?」
「変なこと?」
はて、と首をかしげる。
「さっきっていつ?」
「俺が入って来る前に、なんかぼそっと言ってなかったか? いひ……いひんだか、おなきだか」
「えー?」
覚えが無い。
「いひ、なに? ぼく、そんなこと言ってないよ。外からの声と聞き間違ったんじゃない?」
「そうか? ……そうかなあ」
ううん、でも聞き間違いにしては、はっきり言ってたしなあ。
幸左はしきりに首をひねりながら、ぶつぶつ呟く。お雛も首をひねった。
ただ、慰櫃の御先と呟いていただけなのに。そこまで気になることだろうか。




