夢一夜
爪先に水が当たる感触があった。
お雛は波打ち際に立っていた。
あれ、と首をかたむける。
どこだろう、ここは。いつの間に、こんな所に来たのだっけ。
音も無く白波が押し寄せてきて、剥き出しの爪先を砂と共にしゃらしゃら擽る。視界一杯に広がるのは、どこまでも果てが無い海。
太陽は既に西の空に隠れていた。日の落ちた空と暗い海に境は無く、一枚の濃い藍染の布を広げたようだった。
お雛はただ、それを見ていた。頭の芯がじぃんと痺れていて、上手く働いてくれない。はて、自分は今まで何をしていて、なぜ波打ち際にいるのだろう。
――音がしないや。
己に対して問いかけるも、答えが返って来るわけでもなし。
頭に浮かぶのはただ、耳鳴りがするほどの静寂への淡い疑問。
海を渡る風の音も、こちらを誘うように響く波の音も、何も聞こえない。
――匂いも無いんだあ。
すん、と鼻を動かしてみるが、空腹を刺激するような強烈な潮の匂いを感じない。どうしたんだろう、風邪でも引いたのかなあ、と頭の後ろの方でうすぼんやりと思う。
おおい、と離れた所から声がかけられた。
右側を振り向く。
貝を砕いたような、白く細かい砂。それが一面広がる砂浜は、端が緩やかに海へ向かって伸びていた。暗い海の反対側、浜の奥は草地になっていて、そこに玻璃竹の白い明かりがいくつか灯っている。
明かりに照らされて、平屋の建物が薄暗がりに佇んでいるのが見えた。
砂浜と草地の境界線に、人影が二つ立っていた。
すっかり日が落ちた海辺は暗く、影の顔立ちまでは分からない。ただ片方の髪が癖毛で、もう片方の身体つきががっしりしていることは分かった。
おおい、お雛。がっしりした方の影が、もう一度声を上げた。
なあ、そろそろ戻ろうぜ。魚、いっぱい釣れたし。俺、腹減った。
癖毛の方の影も、声をかけてくる。
早く持って帰って、刺身にしてもらおう。さざれさんが待ってるぞ。
――あー、紀平と藤野だ。
ぼんやりとしていた頭の中に、記憶がぺたぺたと貼りつけられていく。
そうだ。自分と紀平と藤野と、三人で海に遊びに来たんだ。あの平屋を借りて、泊りがけで。
それで、三人だけで海に行くのは心配だと、保護者としてさざれさんが着いてきてくれて。魚を獲ってきたら料理してやると言うから、三人で釣りをしたんだっけ。
確か、一人につき二匹か三匹は釣れたような覚えがある。その釣果は全部、藤野が持っていた。
お雛、腹減ったから戻ろう。紀平が言う。
魚は釣れたてが一番美味いんだぞ。藤野が言う。
ぼく、少し泳いでから行くよ。お雛は答えた。
そうか。藤野が頷いた。
暗いから気を付けろよ。紀平が手を振った。
うん、分かった。お雛も手を振った。
その会話を最後に、藤野と紀平は連れ立って平屋の方へと向かって行く。
二つの背中を見送って、お雛は首を正面に戻した。一段と暗くなった空も海も、もはや藍染と呼べない。
墨染の空に星は無いが、白い半月が浮かんでいた。
雲がかかっていないのか、月光は明るい。海の表面を白い光が撫でて、ちらちらと光っている。周囲の景色も、先ほどよりはよく見えた。
――なんで、泳ぐって言ったんだろう。
魚の鱗のような海面を眺めていると、小さな泡のような疑問が頭にぽこんと浮かんだ。
もう夜なのに。夜の海は危ないのに。
明るい月光ではっきりと見える砂浜を、ふと見下ろす。
砂に半分ほど埋まった硝子の入れ物。砕けた貝殻。赤い布。舟の一部のような板切れ。錆びた鋏。濡れて中がくちゃくちゃになった本。色褪せて模様も分からない帯。小箱の蓋。骨だけの扇子。首の無い姉様人形。へその緒。骨。太鼓。
砂浜には、色々な物が落ちていた。
案外、ここって汚い砂浜だったんだなあ、とぼんやり思う。
その中で、ふと目に止まったものがあった。
肉の塊だ。
男用の足袋くらいの大きさだろうか。片手で持ち上げてみると、両端が手のひらから零れてだらりと垂れた。全体的な色は白に近い桃色で、それより濃い紅色の筋が幾重にも走っている。
――内臓かな。どこのかな。
中身が詰まっているのか、中心部分がぽっこりと丸い。何が入っているのだろう、と気にはなったが、表面を裂いて確かめようとは思わなかった。
手を軽く揺らしてみる。手のひらから垂れた部分が、ぷるぷる揺れた。今まさに体内から抜き取ったばかりであるかのように生々しいそれが、月の光で濡れている。
――どうしてここに落ちてるんだろ。
新鮮そうな内臓はとても美味しそうだと思うのだが、それを食べようという気が湧いてこない。
いつもなら、すぐにかぶりついているのに変だなあ。どこか遠い所で思う。
ぬるま湯に沈んでいるかのように、ふわふわした頭を揺らして、手の中のものを見下ろす。
冷たさも温かさも重さも、手のひらからは何も伝わってこない。波もずっと打ち寄せているのだが、足元を濡らす感覚も鈍い。
なんだか身体と心が、分厚い布で遮られているようだ。
お雛の視界に映る景色が、ゆるりと変化した。いつの間にか、左側を向いていた。
そちらも右側と同じように、砂浜が緩やかに海に向かって弧を描いていた。両腕を伸ばして大海原を抱き込もうとしているような形の砂浜だ。
左側の奥には、ごつごつとした岩場がずーっと奥まで広がり、闇に沈んでいる。
お雛は、ふらりとそちらに足を踏み出した。
どうしてぼくは岩場に行こうとしてるのかしらん、と頭の後ろで一瞬だけ疑問が湧いたが、すぐにそれは消えてしまう。
砂を踏みしめていた裸足が、ふと止まる。
岩場と砂浜の境界を引くように、真っすぐ水が走っていた。でこぼことした岩の間を流れる水は広小路くらいの幅があり、緩やかな流れが海へ向かって続いている。
海の反対側へ顔を向けるが、目と鼻の先ですっぱりと断ち切られたように真っ暗になっていて、この水がどこから来ているか分からない。
続いて、海の方に顔を向けた。流れる水を左右から挟む岩場は、海へ向かって続いている。月光に濡れそぼった岩はよくある茶褐色で、海に向かって段々と高くなっている。流れと海が合流する辺りはすっかり、見上げるような屏風岩となっていた。
お雛は正面に顔を戻す。
いつの間にか、玻璃竹行灯がぽつっ、ぽつっ、とその岩場に置かれていた。竹から白い光が水面に落ちて、ゆらゆらと揺れる。
――凄いなあ。底まで見える。
覗き込んだ水面は、びっくりするほど透き通っていた。
明るい玻璃竹の光が、水底を照らし出す。緩やかな流れに添うように、水底に生えた海藻が揺らめいていた。一塊になった小魚が、海藻の上をついついと泳ぐ。
その様を、お雛はただ凝っと見つめていた。
――ふぅ、と浮き上がるように目が覚める。
起き抜けで歪む視界で、生々しい肉色が滲んで消えた。




