亀森再び
〇 ● 〇
翌朝は薄曇りであったが、朝食を終え白蜘蛛庵に向かうにつれ、段々と雲は厚くなってきていた。蜘蛛の看板の下で待つ紀平と藤野の姿を見つけた時には、既に太陽は欠片も見えなくなっていた。
だが、曇天程度でお雛の食にかける情熱は消えやしない。
「おはよー! なーんだ、ぼくが最後だったんだね」
お雛が声をかけると、二人が顔を向けた。
「……おはよ」
「おう」
恨めし気に空を睨む紀平の頭を、藤野が撫でている。
「……雨が降るようお願いしたのに」
「諦めろ、お雛は雨天決行型だ。濡れても風邪引かねえからな。馬鹿だから」
「そうだな、馬鹿だもんな」
「なんか悪口聞こえるんだけど」
じと目を向けると、揃って顔を逸らされた。二人の隣にはさざれが立っていて、やれやれと言わんばかりの顔をしている。
「あ、さざれさんおはよ!」
「うむ、おはよう。朝から元気よなあ、お主は」
鷹揚に笑むさざれは、風呂敷包みを持っていた。包みの合わせ目から漂う匂いに、お雛は顔をぱあっと輝かせた。さざれに向かい、両手を突き出す。
「さざれさん、弁当ちょーだい!」
昨日、さざれに弁当を頼んでいたのだ。木こり達の食べる素朴な弁当が美味しそうだったので、おにぎりと漬物にしてくれるように、それはもう平身低頭でお願いした。迷惑そうな顔をされたが、ゴリ押した。
風呂敷包みから香るのはまさに、炊いた米の匂いだ。
「ほれ。落とさんようにな」
うきうきわくわくと、目を輝かせるお雛の手……ではなく藤野の手に、風呂敷包みが渡された。
「っす」
小さく頷いた藤野が、早々とさざれから視線を外して背を向けた。袖を掴む紀平を好きにさせたまま数歩進んで、不思議そうに振り返る。
「おら、行くぞお雛。なに固まってんだお前」
「……」
両手を突き出して固まっていたお雛は藤野に追いつくと、無言でその尻に蹴りを叩き込んだ。
昨日と同じく『蛇』で亀森に向かう。
道守のお堂側の森はあらかた探したので、今日は街道を挟んだ反対側だ。森の中を歩きやすいよう、鉄砲袖の着物と野袴で三人揃え、虫避けの香もばっちり焚いてきた。ちなみにお雛の着物は、黄色と黒が交差した派手な奴である。
「さーて、ぼくのはんばーぐは一体どこにいーるのっかなー」
「ついに腕いらずと呼ばなくなったなお前」
藤野のつっこみを無視し、鼻歌を歌いながら、茂みの中を覗く。何もいない。
「ちぇっ。おーい、出ておいでよー。種ちょうだーい!」
晴れていた昨日と違い、太陽の無い森の中はひどく薄暗い。森のそこかしこに影の濃い場所があって、じっと見ているとそれがじわじわにじり寄って来るような気がしてくる。実際は、ちっとも動いていないのだけれど。
そこら辺から、ばーっと出てきてくれれば楽なのになあ。なんで出てこないんだろ。こっちはいつでも準備できてるんだぞ。
そんな事を考えながら、わざと音を立てて茂みを覗く。声に驚いた野鼠や兎が逃げていった。これはれっきとした作戦である。音を出してこちらの存在を示していれば、腕いらずも気が付いて、ひょっこり出て来るかもしれない。
「もー、ここにもいなーい! ねえ藤野、そっちいたー? てか妖の気配ある?」
「小さい気配はちらほら。ただ、腕いらずの感じじゃねえなあ」
木の影を覗き込んでいた藤野が腰を上げ、肩をすくめる。
お雛は唇をへの字に曲げた。懐から一枚の札を抜き出して、目の前でひらりとさせる。藤野作成の呪符だ。朱墨の崩し字で何やら書かれているが、さっぱり分からない。
「腕いらずが現れたら、これを身体のどこでもいいから貼り付けるんだよね」
「おう。妖縛りの呪符だから、すぐ動けなくなる」
「ふーん。便利。でさあ、怪異がばーっと寄って来て入れ食い状態うっはうっはになる札とかないの?」
「あるけど作ってねえ。あれ怪異の一部溶かした墨必要だから、作るの面倒なんだよ」
「ちぇっ。次は持ってきてよ。そしたら楽なんだから。ね、紀平」
札を懐にまた仕舞いながら、紀平に声をかける。
「んー」
生返事。
「なにしてんの?」
「撮ってる」
声は上から降ってきた。振り仰ぐ。お雛のいる場所の右側は緩やかな斜面になっていて、紀平はその上にいた。しゃがみ込んで、四角い小さなものを顔の前に構えている。ぱちり、と音。
お、とお雛はそれに目を向けた。
「あ、かめらじゃん。いいなー、紀平ってかめら持ってたの?」
「ん。兄ちゃんと姉ちゃんが、去年買ってくれたんだあ」
にへー、と紀平は嬉しそうに頬を緩めながら、お雛と藤野に丸いれんずを向けた。ぱちり、としゃったーを切る音が鳴る。
西極大陸から流れ着いた現物と、西人の知識をもって六十年ほど前に生まれたかめらは、大変に便利で面白いものなのだが、お値段が非常にお高い。金三枚もする。
ちなみに金三枚あれば、良い温泉宿に一ヵ月は泊まれる。お雛もかめらは欲しいが、中々手が出ない。幸左が一つ持っているので、古くなったら譲ってもらう予定だ。
かめらをあちこちに向けて写真を撮っている紀平の顔は楽し気で、恐怖の感情は微塵も見られない。それはいい。それはいいのだが。
「あのさー、紀平。写真も良いけど、ちゃんと腕いらず探してよー!」
「やだ」
にべもない返事が降ってきた。
「もうちょい写真撮る。あのなー、ここの景色が良い感じなんだ。二の庭も、こんな感じにしたら面白そうだなーって」
「もー。ここ来るまであんなに怖がってたのにさー。今は怖くないの?」
「ん。平気」
「ふーん?」
なぜ。『蛇』の中ではあんなにぶつぶつ文句を言って、怖い嫌だと半泣きになっていたのに。
首をかしげていると、藤野が近づいてきた。
「紀平が怖いのは、あくまであいつのことを認識して、近づいてくる奴だけだからな。別に怪異全般が怖いってわけじゃねえんだよ」
暗闇とかは普通に平気だからな、あいつ。
そう続ける藤野に、そういえばとお雛は頷く。確かに、玻璃竹――明かりとして使われる光る透明な竹だ――も持たずに真っ暗な夜道を一人で帰る姿を何度も見ている。
「じゃあ今は、紀平に注目してる奴はいないってこと?」
「そーいうこと。例え隣に禍神がいたとしても、自分を認識さえしなきゃ、あいつはなーんにも反応しねえの」
「……なんっか、藤野が訳知り顔で解説するの腹立つなあ。なにそれ幼馴染特権の強調? ぼく疎外感覚えちゃうんですけどー?」
「ごめんなあー、俺が小さいころから紀平と仲良しで」
腕を組んだ藤野の自慢気な顔に腹が立つ。悪かったな、まだこちとら付き合い二ヵ月で。報復しようそうしよう。
「おりゃっ!」
勢いよく藤野を蹴とばそうとしたが、躱された。素早く背後に回り込まれ、首に腕が回る。
「あー、何すんのさー! 離せよ馬鹿! 馬鹿野!」
「やなこった。急に蹴ってごめんなさいって言うなら離してやってもいいぜ?」
「ぜーったい言うもんか! やーい、じゃんけん弱男ー」
「今それ関係ねえよなぁ……!?」
藤野ともちゃもちゃじゃれていると、坂の上から紀平が楽しそうに囃し立ててきた。
「おー、牛と亀の喧嘩だ。いいぞもっとやれー」
ぱちりぱちりと、しゃったー音が連続して降ってくる。
藤野の腕を引き剥がそうとじたばたするが、武術に長けているだけあり、中々外れない。こうなりゃ二対一だ。紀平にも加勢してもらおう。
「きっぺー、ちょっとぼくを助けてよ! 友達でしょ!」
「やだー。撮ってる方が面白い」
拍手のようにしゃったー音が鳴り響く。くそう。
「助けてくれたら、欲しがってた巫女姫の新刊ぼくがお金出すからさー!」
叫びながら振り仰ぐ。異変に気付いた。
紀平の身体が、硬直している。大きく見開かれた榛の吊り目がお雛達を飛び越えて、どこか一点を見つめている。かめらを握りしめる両の指先が、ここからでも分かる程白い。
「……紀平?」
「ゃ……っ!」
「おい馬鹿、一人になるな! 俺達の傍にいろ!」
強張った頬を震わせ、紀平が踵を返した。藤野が叫ぶのに振り返らず、追われる小鹿のように駆け去っていく。逞しい背がすぐ見えなくなった。
「ちょっと、きっぺ……、っ!?」
力の緩んだ藤野の腕から抜け出して、追いかけようと斜面に足をかける。瞬間、お雛の鼻を芳香が掠めた。
振り向く。暗い緑の奥に、生白い身体が見えた。
「うえろや、うえろ、かぼちゃの、あたま」
声。山彦のように四方にうわんと反響し、そこには何の感情も込められていない。――昨日、文蔵が言っていた通りに。
「あいつか……」
険の滲んだ声が藤野から漏れる。お雛と藤野、二人が立つ場所から離れた暗がりに、ぬぅ……と佇む白い影。
「やろか、やろか、みず、やろか」
深く被った編み笠の下から簾のように伸びた、細い蔓。擦り切れて模様も色も褪せた着物。その合わせ目から覗く生白い蛇腹の腹。そして何より、袖からぬるぬると伸びた長く細い、黒い腕。
種を渡す腕いらず。
お雛が探し求めていた妖が、そこにいた。
「そだーて、そだて、おおきく、そだて」
木こりが聞かせてくれた歌が、編み笠の奥から響いてくる。
そっと、懐を押さえる。札のかさりとした感触が指先に伝わる。種を渡そうと腕を伸ばしてきたら、これを貼り付ける。そうすれば良し。終わり。後は白蜘蛛庵に運んではんばーぐ。
じゅわりと溢れる唾液を飲み下し――唐突に、お雛は気づいた。
腕いらずは、こちらを見ていない。
僅かに上げられた顎。編み笠の奥から、視線を……目があるのか分からないが、視線を向けているのは、斜面の上。いや、更にその奥。紀平が逃げた方向。
思考が回転する。素直に種を受け取れば腕いらずは何もしない。文蔵や木こりは種を受け取り、見逃された。「よいこ」だから。では、種を受け取らない子は――。
「わるいこ」
ぽん、と腕いらずが一言呟いたのと同時に、藤野が動いた。
「縛!」
呪言諸共に、懐から札を投げつける。矢のように飛んだ札が届く前に、腕いらずが動いた。
「わるいこ」
身体をぐうっと屈め、蛙のように勢いよく跳躍。編み笠が、身体が、着物の下に伸びる長い尾が、長身のお雛達の頭上を飛び越えた。一拍遅れて札が残像を切り裂き、幹に貼りつく。
お雛は咄嗟に尾を掴もうと手を伸ばしたが、早い。蛇と同じぺたりと冷たい感触が、指をすり抜けていく。斜面の上に着地した腕いらずの姿が、たちまち見えなくなる。
「待てくそがっ!」
「なんでまず紀平狙うかな! 一番遠くにいたじゃん!」
「お前は種持ってるし、俺は怪異に嫌われてんだよ! そしたら狙うのは一人だろうが!」
舌打ちした藤野が斜面を駆け上がる。お雛も獣のように四つん這いで斜面を駆け上がった。視界が広がる。腕いらずはどこに。紀平は。
周囲を見渡した瞬間。
「わるいこ」
喜色に満ちた声の後、離れた場所から悲鳴が聞こえた。




