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鬼上司が、俺の家では甘えん坊になる  作者: 雨宮 弦


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第9話 ひとりで平気な人

 毛布は、四角く畳まれて戻ってきた。

 透花は玄関の前で大きめの袋を持ち、中身を一つずつ確かめた。毛布とタオル。どちらも乾いていて、金曜の夜のように袖の水を吸った跡はない。


「お借りして、ありがとうございました」


 彼女が頭を下げた。

 佳孝は受け取り、持っていた場所から腕を少し下げた。毛布だけなら、普段も棚から出している重さだ。

 人へ貸して戻ったというだけで、何か違って見えた。


「妹さんにも、使ってもらえたなら、よかったです」


「ええ。日菜も、明日、私が帰ると、毛布もなくなるのかと笑っていたわ」


 透花も少し笑った。

 今日は金曜の夕方。明日の確認が済めば、自分の部屋へ戻れる見込みだという。

 予定はまだ最終ではないが、持ち出していた荷物も、少しずつ整理しているらしかった。


 佳孝は袋を室内へ置き、また玄関へ戻った。

 透花はすぐ帰るつもりの姿勢だったが、一度だけ彼の後ろを見た。ソファのある方だ。


「今、忙しい?」


 尋ねられ、彼は首を振った。

 夕飯を作る前で、まだ火も使っていない。昨日、自分で決めた一人分の材料を出したところだった。


「少しだけ、座っていってもよい? 五分くらい」


 透花は言った。

 佳孝は頷き、扉を少し広く開けた。

 今日は水に濡れて困っている人を、待つ場所へ入れるのではない。本人が短く休みたいと、自分へ聞いた。


「どうぞ。妹さんとの映画、間に合う時間までなら」


 彼が言うと、彼女は少し目を丸くした。


「日菜、それも話していたのね」


「はい。一本ずつ選ぶって」


「ええ。まだ、どちらを先にするかで、決まっていないの」


 そう返す声が、少し楽しそうだった。

 透花は靴を揃え、鞄を持って中へ入った。


 ソファへ腰を下ろすと、彼女は肩の力を抜いた。

 佳孝が受け取った毛布を棚へ戻そうとしていると、まだ使ってもよいのかと聞かれる。

 彼は笑い、そのまま彼女へ渡した。


「返して、また借りるのも、変ね」


「洗って、きれいになって戻ったので。今、使いやすいと思います」


 透花は毛布を膝へ掛け、少し笑った。

 肩まで潜るほど寒くはない。それでも手元へ置くと、落ち着くものらしかった。

 佳孝は向かいの椅子へ座る前に、何か飲むか尋ねた。


「今は、なくても大丈夫。座れれば」


 彼女が答えた。

 彼は、分かりました、と返し、空いた椅子へ腰を下ろした。

 毎回カップを用意することまでが、この部屋へ入れる条件ではなかった。


「篠原くんは、一人の休み、平気な方?」


 少し黙った後、透花が聞いた。

 佳孝は頷いた。

 出かける日もあるが、何も約束せず家で過ごす日も好きだった。食事の時刻も、見る番組も、自分で決められる。


「ただ、気づいたら夜になっていることもあるので。何をしたんだろうとは、思います」


 彼が付け足すと、透花が笑った。


「私も、あるわ。片づけるつもりで本を開いたら、そのまま読んでしまって」


「箱、開かないですね」


「ええ。ピーラーだけ出てきた日よりは、何も増えないので」


 佳孝は笑った。

 彼女が同じ冗談を自分で覚えていることへも、少し嬉しくなる。

 会社へ戻れば、そんな話はしない。同じ人に会っていても、話している部分は違った。


「部長は、一人でも、全部、きちんと過ごしているのかと」


 佳孝が正直に言うと、透花は眉を少し上げた。


「休日まで、全部の時間を整えていたら、疲れない?」


「はい。俺は、疲れると思います」


「私も、同じよ」


 簡単な返事だった。

 佳孝は頷いた。金曜に毛布へ潜ったところを見てから、彼女の中へ新しい像を一つ作ったつもりでいた。

 だが、まだどこかで、強い人か、疲れて頼る人か、どちらかへ分けていたらしかった。


 透花は髪をまとめていたものへ手を伸ばした。

 少しだけ結び直すつもりだったようだが、一度外すと、そのまま髪を肩へ落とした。

 佳孝は一瞬、視線を止めた。

 会社では、いつもすっきりまとめている。目の前でほどくと、頬の横へ柔らかい線が一つ増えた。


「どうかした?」


 彼女が気づいて尋ねた。

 佳孝は、髪が違うので、とそのまま答えた。


「会社では、まとめているものね。今日は、もう、会議もないので」


 透花は言った。

 彼は顔を上げ、言葉の方へ戻った。

 それでも、一度気づいた横顔は、さっきまでより少し近く感じられた。


「一人でいるのは、好きです」


 透花が続けた。


「自分の見たいものを、途中で止めずに見られるし。誰かが帰ってくる時刻を、いつも気にしなくてよいから」


 佳孝は頷いた。

 明日、自分の部屋へ戻りたいのも、その時間を気に入っているからだろう。


「でも、今日は、ここへ座って、少しだけ、何でもない話をしたかったの」


 透花は彼を見た。

 佳孝は返事が少し遅れた。

 毛布を返すだけなら、玄関で用事は終わっていた。本人がその先を選び、今、ここへいる。


「今みたいな、箱とか、映画の話ですか」


「ええ。そのくらいで。何かを決めてもらいたくて来たのでは、ないので」


 彼女は少し笑った。

 佳孝も、では今夜見る物は、と尋ねた。

 透花は妹の選んだ方の題名を、まだ教えてもらっていないという。自分は前に一度見た、気軽に笑える映画を選んでいるらしかった。


「二回目だと、先が分かっているから、途中の細かいところも見られるの」


「俺も、それで、同じ番組をまた見ることがあります」


「今夜は、三本目へ進まないように」


 彼女の声に、佳孝は笑った。

 その話まで覚えているとは思わなかった。仕事で表の名前を間違えた理由として話したのに、今は小さい冗談として戻ってきている。


「今日は、一本にしておきます」


 彼が答えると、透花は頷いた。

 命令したという顔ではなく、同じくらいの夜更かしを知っている人の顔だった。


 時計へ目を向けると、五分は少し過ぎていた。

 透花も気づき、そろそろ行くわ、と毛布を畳み始める。

 佳孝はそのまま座っていてもよいと言いそうになったが、今日は彼女に先の楽しみがあった。

 自分にも、作りかけの夕飯がある。

 彼は立ち、玄関まで一緒に行った。


「明日、戻れたら、連絡します。荷物を運ぶのは、妹と自分でできる分からするので」


 透花は話した。

 佳孝が一日空けて手伝う前提ではなかった。頼みたいことがあれば、そのとき聞くと、本人が先に言った。

 彼は頷き、家にいる時間は伝えておくと答えた。


 玄関の外へ出ると、透花はもう一度、小さく礼を言った。


「座らせてもらえて、よかった。では、行ってきます」


 佳孝は一度目を丸くした。

 火曜の朝、自分が同じように言っていたことを思い出す。


「いってらっしゃい。映画、楽しんできてください」


 返すと、透花が少し笑った。

 それから髪を自分でまとめ直し、エレベーターの方へ歩いていった。


 佳孝は部屋へ戻り、ソファの毛布を一度持ち上げた。

 返ってきたものが、今度は自分の部屋へ残っている。今日は、持ち出されなかった。

 彼は畳んで背へ掛け、夕飯の材料を並べ直した。

 鍋へ手を伸ばしながら、仕事の相談ではない時間に、また何を話せるだろうと少し考えた。

 借りたものを返す用事は、もう、なくなっていた。

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