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鬼上司が、俺の家では甘えん坊になる  作者: 雨宮 弦


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第10話 避難生活の終わり

「今日は、ここへ帰れます」


 土曜の昼、透花は七〇三号室の前でそう言った。

 手には、自分の鍵を持っている。管理側の確認と説明を受け、住まいへ戻る予定が決まったところだった。

 佳孝は自分の玄関の前から、よかったです、と返した。

 今から買い物へ出るつもりで、空の袋を持っていた。


「妹が荷物を持ってきてくれるので。あと少しで、着くそうです」


 透花は言った。

 佳孝は頷いた。今日は戻れるか分からなかったので、前もって一日空けていたわけではない。

 必要な用事があれば、今、自分のできる範囲で聞けばよかった。


「何か、運ぶ物、ありますか」


「今のところ、自分たちで大丈夫だと思う。もし、手が足りなければ、そのときお願いしてもよい?」


 彼は頷いた。

 透花は自分の部屋へ入り、玄関へ置く場所を空ける。佳孝はそのまま先に下りた。


 ロビーには、大きめの袋を持った女性がいた。

 年齢は佳孝より少し下に見える。透花と目元が似ていて、スマートフォンの画面を見てからエレベーターの方へ顔を上げた。

 彼女は佳孝へ先に、すみません、と声を掛けた。


「ここ、七階へは、こちらで合っていますか」


「はい。もしかして、黒瀬さんの」


 彼女が頷き、少し目を丸くした。

 佳孝は自分の名前を伝え、木曜に電話で話した者だと説明した。


「ああ、篠原さん。初めまして。日菜です」


 声を聞くと、電話の向こうにいた人だと分かった。

 日菜は持っていた袋を一度下ろし、きちんと頭を下げた。


「この前は、姉を、ありがとうございました。毛布も」


「いえ。こちらも、返していただいたので」


 短い挨拶だった。

 日菜はそこで、姉の代わりに何かの約束をしようとはしなかった。自分が持ってきた荷物の数を数え、これで全部、と確かめる。

 佳孝は平らな箱が一つ、袋と重なって持ちにくそうなのを見た。


「その箱、上までなら持てます」


 彼が言うと、日菜は中身を見てから、お願いしますと答えた。

 持ち上げると、思っていたより軽かった。書類の箱ではなく、透花が自分の部屋へ持ち帰る私物らしい。

 佳孝は勝手に中を見ず、片側を抱えた。


 エレベーターへ乗ると、日菜が、姉の選んだ映画は面白かったと話した。

 佳孝は昨日の予定を思い出し、二本とも見たのか尋ねる。


「一本だけです。今朝、荷物をまとめたかったので、もう一本は、また今度」


「それなら、続きもありますね」


「はい。姉が帰ったから、もう一緒に見られないわけでは、ないですし」


 日菜は明るく答えた。

 その言い方へ、佳孝は少し頷いた。泊めてもらう期間が終わっても、姉妹には次に会う用事がある。


 七階へ着くと、透花が玄関から顔を出した。

 日菜と佳孝が一緒なのを見て、少し驚く。


「ロビーで、ちょうどお会いしたので。この箱だけ、上まで」


 彼が説明すると、透花は礼を言い、扉を開けた。

 指定された玄関の脇へ置く。そこから先の部屋には、まだ開いていない箱がいくつかあった。

 棚も、全部の物が並んでいるわけではない。

 会社で整った資料の前へ座る人も、自宅ではまだ、どこへ何を置くか決める途中だった。


「ここで、大丈夫。ありがとうございます」


 透花は言った。

 佳孝は頷き、靴を脱いで中へ入り込むことはしなかった。頼まれたのは、この箱をここへ置くところまでだった。

 日菜も、自分の袋を玄関へ並べる。


「あと、これ、うちに置いてあった分。まな板は、ちゃんと、別の箱にあるって」


 妹の言葉に、透花が小さく息を吐いた。

 佳孝は笑いをこらえきれなかった。


「見つかったんですね」


「ええ。今朝、ようやく。これで、ピーラーを眺めるだけの台所ではなくなるわ」


 日菜が二人を交互に見て、あ、その話も知っているんですね、と笑った。

 透花は、自分で話したの、と返す。


 日菜は午後に友人と会う予定があり、長くは残らないという。

 荷物を渡し終えると、姉へ、足りないものが見つかったら連絡して、と話した。透花は頷き、今週の礼を言った。


「私も、話せて楽しかったから。また、ご飯を食べに来て」


 日菜が言った。

 透花は少し笑い、今度は自分が一品持っていくと答えた。

 佳孝はそのやり取りを、少し離れた廊下で聞いていた。

 借りていた部屋から戻ることは、世話になった人へ二度と頼まないと宣言することではない。

 本人たちは、次の普通の食事の話をしていた。


 日菜を見送った後、佳孝も自分の買い物へ出た。

 透花は自室の物を少しずつ戻していた。

 外は晴れていて、先週の雨の匂いはもうしない。

 佳孝は店で自分の昼食と夕飯の材料を選んだ。

 今日は一人分。甘口のルーはまだあるが、別の物を食べたい気分だった。


 魚の売り場で足を止め、二切れ入りの鮭を手に取った。

 一切れは今日、もう一切れは明日でもよい。二つ入っているからと、誰かを呼ぶ理由にしなくてもよかった。

 野菜の棚へ戻り、付け合わせにするものを選ぶ。

 そこで、隣にいた子どもが、大きな大根を持ち上げようとしていた。保護者が慌てて支え、今日使うのは半分だからと説明している。

 佳孝は、半分に切られた物が別の棚にあるのを示した。

 礼を言われ、会釈を返す。

 誰かのために何かをすることは、普段の生活の中にもあった。

 それなのに、今朝、箱を一つ持ったことだけを長く思い出している。

 部長へ恩を売れたからではない。

 会社で見ない彼女の部屋の入口を見て、本人の嬉しそうな顔を見たからだった。

 そこへ、もう少し自分も関わっていたいと思ったのかもしれない。

 レジへ向かう前に、彼は乳製品の棚を見た。

 プリンが並んでいる。

 二つ組を手に取りかけ、今日は自分が食べたい味を一つ選んだ。

 彼女がどの味を好むのかは、まだ知らない。自分で決めて買っておくより、いつか本人に聞いてみたかった。

 会計を済ませ、店の外へ出る。

 日差しが、朝より少し強くなっていた。

 家へ帰れば、隣には、もう自分の部屋へ戻った彼女がいる。

 だからといって、毎回その扉を気にする暮らしにはしたくなかった。

 佳孝は帰り道を少し変え、川沿いの短い道を歩いた。

 水面の光を見ている間は、手にした袋の重さだけが、ちょうどよかった。


 帰宅すると、七〇三号室の扉が開いていた。

 透花が玄関へ空いた箱を一つ出し、まとめるところだった。佳孝に気づくと、先ほどはありがとうございましたと声を掛ける。

 彼は袋を持ち直し、もう落ち着いたかと尋ねた。


「全部では、ないけれど。まず、今夜使う物は、出せました」


 彼女は答えた。

 疲れているのだろうが、自分の部屋へ戻れたことは嬉しそうだった。

 佳孝も、それはよかったと思った。


「誰かの帰る時刻を気にせず、自分で休めるのは、楽ね」


 透花が少し笑った。

 昨日、自分は一人の休みが好きだと言っていた。その人が、今日は自分の場所へ戻った。

 寂しそうな顔をしてほしい理由は、どこにもなかった。


「今夜は、まな板も、使えますし」


 佳孝が言うと、透花は笑った。


「ええ。使うために、まず、もう一度、場所を確かめるわ」


 彼女は箱をまとめ、玄関の中へ戻した。

 佳孝は隣の自分の扉へ向かいかけ、何かあれば呼んでくださいと言いそうになった。

 だが、何でも、いつでも、と広げたら、自分の週末も彼女の週末も見えなくなる。

 彼は、今日、夕方までは家にいます、とだけ伝えた。

 透花は頷き、必要なときは先に連絡すると返した。


 部屋へ入ると、ソファには返ってきた毛布があった。

 昨日は彼女が五分だけと言って座った。今日は誰もいない。

 佳孝は買い物の袋を片づけ、二つのマグを棚から出した。

 黄色い方は、乾いたままだった。

 何となく出してしまったと気づき、いったん机へ置く。


 洗う必要はない。

 返す相手も、いない。元から自分の物だった。

 彼は黒い方へ飲み物を入れ、黄色い方を棚へ戻した。

 向かいの椅子は、いつものように空いている。

 先週まで、この風景を特に気にしたことはなかった。


 スマートフォンへ、透花から短い文が来た。


『自宅へ戻れました。先週から、本当に、ありがとうございました』


 佳孝は、よかったです、と返した。

 今朝、直接聞いたことでも、本人からもう一度届くと、ちゃんと落ち着いたのだと分かる。

 少し後、彼女から、台所の箱が開いたと一文だけ来た。

 まな板も無事だったと添えられている。


『では、今夜は、作れそうですね』


 そう返すと、少し時間を置いて、はい、と届いた。

 それだけで会話は止まった。

 彼女は自分の台所で、自分の食べたい物を作る。佳孝も今から、自分の分を用意する。

 困っていなくても次に会う話を、自分からしてよいのだろうか。

 彼は画面を見て、すぐには新しい文を足さなかった。


 月曜には、会社で会う。

 そのときは、黒瀬部長と篠原として資料を見る。

 黄色いマグで何を飲むかを話す場所は、その会議室ではない。

 佳孝は画面を閉じ、夕飯を作るために立った。

 棚へ戻したマグは、奥へは押し込まなかった。

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