第11話 残ったマグカップ
黄色いマグを、棚の奥へ戻せなかった。
月曜の朝、佳孝は自分のコーヒーを用意しながら、そのことに気づいた。普段、毎日使うのは黒い方だ。黄色は、友人が来たときに出す。
先週は、それを黒瀬部長が使った。
今はもう、自分の部屋へ戻っている。
返す物も、受け取る物もない。
彼は一度マグを持ち上げたが、また同じ手前の場所へ置いた。汚れているわけでもないので、洗う用事も作れなかった。
コーヒーを飲み、いつもの時刻に家を出る。
七〇三号室の前では誰にも会わず、そのまま会社へ向かった。
午前中、営業の田辺から連絡があった。
先週、佳孝と岩崎が直した図を使って、店側へ説明してみたという。置く場所の例が見えると、店の担当も、自分の棚で確かめる所が分かりやすかったらしい。
ただ、新しい質問も二つ出た。
「パッケージを開ける前に、どの情報を見ればよいか、店の人へまとめて伝えられますか」
田辺が言った。
佳孝は頷き、今の資料では一枚へ散らばっていると答えた。
岩崎も同じ通話へ入り、聞かれた場所をメモした。営業側で同じ説明を繰り返すより、初めて見る人が先に読める方がよい。
次に何を直したいかが、少し見えた。
「売れる数を出すだけでなくて、置く人が迷う所も、先に見たいんですね」
佳孝が尋ねると、田辺は、そうです、と答えた。
前の資料では、説明する側が知っていることまで、相手も知っているつもりで話していたという。
佳孝は金曜の会議を思い出し、手帳へ新しい項目を書いた。
通話を終えた後、岩崎が図の真ん中を指した。
「ここへ足すと、今度は字ばっかりになるな」
「うん。先に見る所だけ、分けた方がいいと思う」
「全部、重要、って書くと、結局、全部読むことになるし」
二人で少し笑った。
佳孝は新しい紙へ、まず三つだけ欄を作った。大きさ、使う場所、置くときに確かめること。
その下に、まだ答えが決まっていないものを別に置く。
全部を今日中に完成させるのではなく、まず、田辺へこの分け方でよいかを聞くことにした。
透花が打合せから戻ったところで、二人は進み具合を報告した。
彼女は図を見て、分けた理由を尋ねる。佳孝が田辺から聞いたことを説明すると、透花は頷いた。
「相手が繰り返し聞くところは、こちらの資料で足りていないのかもしれませんね。今の三つで伝わるか、一度、見てもらってください」
その後で、未確定の項目を一つ示した。
ここは誰へ確認するのかを決めておいてほしい、という。
佳孝は担当の名前を書き足した。
親切にした自分へ甘い返事をするのでも、距離を取るため余計に厳しくするのでもない。仕事の資料へ、仕事の返事が来た。
透花が離れた後、岩崎が、今日は一つ、先に進んだな、と言った。
佳孝は頷いた。
直す箇所が残るのは、全部が駄目という意味ではない。何を確かめれば形になるか、自分たちでも見つけ始めている。
彼はもう一度、田辺へ送る文を読んだ。
昼休み、佳孝は岩崎と今度の土曜の話をした。
木曜の夜に誘われた店へ行く時刻を決める。彼の方には午前に用事があり、昼を少し過ぎてから合流することになった。
「篠原、最近、家、片づけてるんだっけ」
岩崎が尋ねた。
佳孝は、少し、と答えた。誰かが来た後、物の位置が気になることがあった。だが、全部をきれいに並べた客間にしたいわけではない。
「俺、この前、使ってない容器を一つ捨てたら、次の日、それが欲しくなった」
岩崎の話に、佳孝は笑った。
「片づけ、難しいな」
「そう。空いてた所には、もう別の物、入れたし」
同僚の部屋にも、仕事の資料ではない小さい失敗がある。
佳孝は家の棚の黄色いマグを思い出した。それを奥へ入れたら、今度使いたい日に探すことになるかもしれない。
だが、次に使う日自体は、まだなかった。
午後、田辺から返事が来た。
三つへ分けた形なら説明しやすいので、一度、このまま店側へ聞いてみたいという。
佳孝は岩崎へ知らせ、確認したところと、まだ見せるだけの案だということを文へ付けた。
今日の自分の仕事は、そこで一区切りになった。
帰宅したのは、夕方の明かりがまだ残る時刻だった。
ロビーで郵便を受け取り、エレベーターへ向かうと、透花も入口から入ってきた。
手には小さな食品の袋があった。仕事の鞄とは、別に持っている。
「お疲れさまです」
佳孝が言うと、彼女も返した。
今日は自宅へ持ってきた荷物も、借りた毛布もない。二人とも、ただ自分の部屋へ帰るところだった。
「台所、使えましたか」
彼が尋ねると、透花は少し笑った。
「ええ。まな板も、ピーラーも。昨日は、ちゃんと、同じところに置きました」
佳孝も笑った。
彼女は袋の中身を少し持ち上げ、今日は野菜を買ってきたと話す。何を作るかまでは聞かなかったが、もう自分の暮らしへ戻れているらしかった。
それを聞けると、嬉しかった。
エレベーターへ乗ると、透花がこちらを向いた。
「あの、篠原くん」
名前を呼ばれ、彼は返事をした。
仕事の続きをここで尋ねられるのかと思いかけたが、彼女の視線は自分の食品の袋へ向いている。
「火曜の朝にいただいたコーヒー、また、飲みたくなったの。どちらで買っているもの?」
佳孝はいつもの店を答えた。
特別なものではなく、気に入って何度か買っているものだった。
透花は頷き、自分も今度探してみると返す。
彼はそこまで聞き、口を開いた。
「また、一緒に飲むのでも、よければ」
言葉が先に出た。
彼女が顔を上げる。
佳孝は途中で取り消さず、自分の希望を続けた。
「俺も、部長と、仕事じゃない話、またできたらと思っていたので」
透花は少しだけ目を見開いた。
その後、ゆっくり頷いた。
「私も。だから、今、聞いてみたの」
七階へ着いた。
扉が開き、二人で廊下へ出る。まだ、それぞれの玄関へ分かれなかった。
「今日は、これから、食事を作るので。別の日でも、よい?」
透花が尋ねた。
佳孝は頷いた。自分も食事前で、今から飲み続けたいという話ではなかった。
借りた物を返す日に合うかだけで決めず、二人とも落ち着いて座れる日を選びたかった。
「来週の水曜、夜なら、今のところ空いています」
彼が言うと、透花は手帳を確かめた。
彼女もその日は、帰宅後に別の予定を入れていないらしい。七時半から、三十分ほど。
必要な仕事が動いたら、分かった時点で伝えることにした。
「お茶を飲むだけなのに、会議の予定みたいね」
透花が自分で笑った。
佳孝も笑い、まだ、相手が何時に休むか分からないので、と返す。
「ええ。言ってもらえる方が、分かりやすいわ」
彼女は頷いた。
それで、次に会う用事ができた。
困っているからでも、借りた物が残っているからでもない。本人が飲みたいと言い、佳孝も一緒に話したいと答えた。
自分の扉の前で、透花が振り向いた。
「今度は、毛布を借りずに、伺えると思います」
佳孝は少し笑った。
「使いたかったら、使ってください。もう、ソファにあります」
彼女も笑い、ではそのときに、と返した。
自室へ入る鍵の音がし、佳孝も自分の扉を開けた。
棚には、朝、そのままにした黄色いマグがあった。
彼は一度だけ見て、コーヒーの残りがどのくらいあるかを確かめる。
来週までに、なくなりそうだった。
買い物のメモへ一つ書き足し、今日は自分の夕飯を作る。




