第8話 妹からの電話
透花が電話に出たとき、声が少しだけ変わった。
「日菜。今、こちらに着いたところ」
佳孝はロビーの入口で足を止めた。
木曜の夕方だった。今日は帰る途中、透花から、明日返す毛布のことで少し確認したいと連絡が来ていた。
彼が集合住宅へ着く頃なら、本人も自宅の荷物を確かめに来る予定だという。
二人ともロビーへ来たところで、妹から電話が掛かってきたらしい。
「うん。大丈夫。そちらの予定を先にして。私の帰りは、合わせられるから」
透花は片手を上げ、佳孝へ少し待ってほしいと示した。
彼は頷き、通り道にならない壁際へ寄った。自分の手には、帰りに買った夕飯の袋がある。
妹の声までは聞こえない。
聞こえるのは、透花が短く返す言葉と、ときどき混じる笑いだけだった。
「それ、私ではなくて、元の箱の方へ聞いてほしいわ。入れたのは、あなたでしょう」
何の話かは分からなかった。
ただ、会社で部下へ作業の順を尋ねる声とは違う。相手が分かっていることを、本人にも分かっているつもりで返す、少し気楽な声だった。
佳孝は足元の袋を持ち直した。
透花が通話の途中、こちらを向いた。
「篠原くん。妹が、一言、お礼を伝えたいと言っているの。短く、代わってもらってもよい?」
彼は一瞬驚いたが、頷いた。
受け取った端末を耳へ当て、自分の名前を伝える。
「もしもし。篠原です」
『初めまして。黒瀬日菜です。姉が、先日は、お世話になりました』
はっきりした、明るい声だった。
佳孝は、いえ、待つ間だけでしたので、と答えた。
自分が姉の部下だと相手へ知られていることは、透花からすでに聞いている。だが、何か立派なことをした人のように挨拶されると、少し落ち着かなかった。
『毛布も、助かっています。明日、姉が返すそうなので』
「はい。俺も、明日の夕方なら、家にいます」
『ありがとうございます。今日は私の用事で遅くなるので、姉には、先に戻ってもらおうと思っていて』
『今、会場の片づけの途中なんです。人が動くと、朝は見つからなかった物が、最後に出てきたりして』
日菜が少し笑った。
佳孝も、分かる気がしますと答えた。自分の机でも、資料を出し切った後に、探していたメモが下から出てくる。
『明日は仕事の方は早く終わるので、姉と、家で何か観ようと話していて。私の選ぶ映画は、姉と全然違うんですけど』
「そうなんですね」
『だから、一本ずつ。片方だけが、ずっと選ぶと、似た物ばかりになりますし』
姉がどう思っているかを、代わりに説明する言葉ではなかった。妹本人が何を観たいか、どんな夜にしたいかの話だった。
佳孝は、明日の受け渡しは短く済むと思います、と伝えた。日菜は礼を言い、では作業へ戻りますと、電話を終える言葉を先に選んだ。
仕事と家の予定が、電話の向こうにもあった。
佳孝は分かりましたと返し、透花へ端末を戻した。
「ありがとうございました、篠原くん」
彼女は一度礼を言い、妹へ通話を代わったことを伝える。
最後に、では後で、と話し、電話を切った。
「急に、ごめんなさい。日菜も、お借りしたままなのを気にしていて」
透花が言った。
佳孝は首を振った。借りた物が家にあれば、家族がどこで借りたのか気にするのは普通だろう。
「しっかりした妹さんですね」
「私より、外へ声を掛けるのは、早いわね。仕事でも、初めて会う人と話すことが多いので」
妹は催しの会場運営に関わる会社で働いているらしい。日によって帰る時刻も、使う場所も違う。
透花は自分と似ているところと、違うところを、一つずつ話した。
「私が先に、こうしようと決めると、日菜は、相手の予定も聞いたの、と返してくるの。家では、あの子の方がそういうところを見ているわ」
佳孝は少し笑った。
会社なら、透花が先に相手へその質問をしそうだった。どこでも同じ順番で役目が回るわけではないらしい。
「妹さんと、仲、よいんですね」
彼が言うと、透花は少し考えた。
「悪くはないと思う。でも、ずっと一緒に住むなら、また違うでしょうね。食べたい物も、寝る時刻も、同じではないので」
甘い味が好きなのは姉妹で同じでも、妹は別の物も色々と試したがるらしい。
透花は、昨日の夕飯の話で少し笑った。妹が辛い味の惣菜を買ってきて、姉の分は別に選んであったという。
「私の分も、挑戦しなくてよいようにしてくれていたわ」
「優しいですね」
「ええ。私も、自分で食べる分は、なるべく自分で用意しているので」
そう話す彼女の声は、頼れる姉を全部演じるようなものではなかった。
妹の家で助けてもらい、相手にも別の生活があると分かっている。今はその間へ、自分の時間を入れているらしかった。
透花は明日返す物の確認をした。
毛布とタオルを、持ちやすい袋へ入れて来る。佳孝が夕飯を始める前に短く渡し、自分はその後、妹宅へ戻る予定だという。
彼は、仕事で時刻が動くときは自分からも連絡すると答えた。
今日の用件は、それで済んだ。
透花が自宅の確認を終えるまでの間、佳孝は先に部屋へ上がった。
夕飯の材料をしまい、炊いてあるご飯を用意する。明日、借りていた毛布が戻ってくると思うと、ソファへ重ねたままの物を少し片づけたくなった。
だが、その前に、自分の食事を先にする。
佳孝は肉と野菜を一人分だけ取り分けた。今日は、少し辛い味を食べたかった。
金曜の甘いカレーを思い出しながら、手元の小さい調味料を選ぶ。同じ台所で、今日は別の物を作る。それぞれの気分で変えられるところは、一人暮らしの気楽さだった。
皿へ盛ると、野菜を少し多く切りすぎたと分かった。全部を同じ皿へ押し込まず、残す分を別の容器へ移す。
誰かがいれば、いつでも上手に二人分へできるわけではない。明日、もし一緒に食べる話になったら、そのとき量を考えようと思った。
しばらくして、私用の画面へ短く連絡が来た。
自宅の確認を終え、妹宅へ戻るという文だった。
それと別に、日菜が返す物を入れる袋を、明日、自分へ渡すと言っているとある。
佳孝は、分かりましたと返した。
初めて聞いた声の相手にも、自分へ返す毛布以外に、今日、している用事がある。
金曜の夕方の時刻を手帳へ書いた。
会社の会議の予定と並ぶが、同じ種類の約束ではない。
借りたものを返しに、隣の人が来る。
佳孝はその一行を見て、受け取った後に何を言おうか、少し考えた。
夜、皿を洗っていると、岩崎から休日の予定を聞く文が来た。
来週の土曜、前に話した店へ行かないかという誘いだった。佳孝は自分の手帳を見て、空いていると返した。
仕事の同僚とも、部署の資料以外の話をする。
透花の妹にも、姉の外に会う人がいる。
そういう当たり前の生活の中で、自分は少しずつ、透花個人へ会う用事を持ち始めていた。
洗い物を終え、黄色いマグを棚の手前へ戻した。
明日、使うかどうかはまだ分からない。
彼女は受け渡しだけの予定だと言っていたし、自分も夕飯を作るつもりだった。
今夜から二人分を勝手に決めず、明日、会ってから聞けばよいと思った。




