第7話 寝不足の理由
同じ店舗の名前が、表に二度あった。
佳孝は送信する前の画面を拡大し、上からもう一度読んだ。二つめは別の店の分なのに、見出しだけが前のまま残っている。
水曜の午前だった。
彼は手元のメモを見比べ、直した後、岩崎へ確認を頼んだ。
「名前、一個、写したままになってた。数も、同じ店の方に入れてないか、見てもらっていい?」
「分かった。俺の方の質問文も、その後で見て」
岩崎が画面を寄せた。
二人で数字と名前を別々に追う。集計の中身は合っていたが、見出しが違えば、そのまま出してよい表ではなかった。
佳孝は直した所へ印を付け、確認の返事をもらってから共有した。
外へ出す前に止まれて、よかった。
その後、佳孝も岩崎の質問文を読んだ。返事をもらった後に誰が確認するかが、最後の欄だけ空いている。
彼がそこを示すと、岩崎は自分の名前を書き足した。急いで送った後に、どちらが引き取るのかをまた聞くより、今、決めた方がよかった。
二人で最終の共有先を確かめ、今日使うものだけを手元へ残した。
「昨日、寝るの遅かった?」
岩崎に聞かれ、佳孝は一度目をこすりかけた手を下ろした。
「少し。動画、一つだけ見るつもりで」
「それ、続いたやつだ」
「うん。三つ」
岩崎が笑った。
佳孝も苦笑した。昨日の朝、普段より早く起きたのに、夜はその分早く眠るどころか、続きの番組まで見た。
部長が来たから寝不足になったのではない。
自分が、そこで止めなかっただけだった。
午後の打合せで、透花は資料を一度閉じかけ、もう一度開いた。
佳孝はその動きに気づき、何か抜けがあったのかと手元を見る。自分が説明した分ではなく、次の担当へ渡す順番のところだった。
「すみません。ここ、私の認識が一つずれているかもしれません。先に確認させてください」
彼女はそう言い、担当へ問い直した。
曖昧なまま指示を続けなかった。相手の返事を聞き、一か所だけ書き換える。
その後は、いつもの速さで話が進んだ。
佳孝は見ていて、部長も、分からなくなったら一度止まるのだと思った。
最初から一つも迷わず、全部を見ている人だと考えていた頃には、気づかなかった動きだった。
会議を出るとき、透花が欠伸を抑えた。
昨日の朝と、同じような仕草だった。
佳孝は声を掛けるか迷い、その場では自分の席へ戻った。仕事中の姿だけを見て、私生活で何があったか決めることはできない。
自分も今朝、見出しを一つ直したばかりだった。
夕方、岩崎の質問文もまとまり、窓口へ渡せた。
佳孝は今日残す作業を一つだけ手帳へ書き、画面を閉じた。帰ったら、早めに食事をする。
昨日見かけた番組の続きは、今日中でなくてもよかった。
集合住宅へ着くと、ロビーの椅子に透花がいた。
コートを着たまま、スマートフォンへ短く返事を書いている。佳孝に気づくと、彼女の方から挨拶した。
「今、帰り?」
「はい。部長は、また現地の確認ですか」
「ええ。預けた分の連絡があって。今日は、それだけなので」
透花は端末を鞄へ戻した。
佳孝は少し離れた椅子の横で止まり、話してよいか聞いた。彼女が頷いたので、自分も荷物を足元へ置く。
「昨日から、少し、眠そうに見えたので。仕事のことで、何か増えたのかと」
彼が言うと、透花は一度だけ目を丸くした。
それから、少し笑った。
「顔に、出ていたのね。今週、妹の部屋で、いつもと眠る場所が違うので」
佳孝は頷いた。
彼女は仕事を一人で抱えて、毎晩机で眠っているのかもしれない。そんな想像を少ししていたが、本人の答えは別だった。
「ソファが悪いわけではないの。ただ、廊下の音とか、朝に起きる時刻が違って。つい、目が覚めるの」
透花はそう話した後、もう一つあると付け足した。
「昨日は、あの子の帰りを待って、少し話し込んだので。私の方も、早く寝るつもりでいたのに」
佳孝は少し笑った。
妹としばらく同じ場所で暮らすのは久しぶりで、話すことが増えたらしい。困ったことだけで眠りが遅くなっているのではなかった。
「部長も、止めるつもりで、続くんですね」
彼が言うと、透花はこちらを見る。
「篠原くんも?」
「昨日、動画を三つ。今日は、見出しを一個、直しました」
彼女は笑いかけ、どの資料かと一瞬、仕事の顔になった。
佳孝が共有前に岩崎と確認した分だと話すと、透花は頷いた。
「外へ出す前に、直せたのね」
「はい。そこは、確認を頼んでよかったです」
「ええ。眠いから、そのまま出してもよい、にはならないので」
いつもの声が返った。
佳孝は頷いた。相手も眠いと分かったから、自分の仕事が軽くなるわけではない。
ロビーの自動ドアが開き、別の住人が通った。
二人は少し声を落とす。佳孝は彼女が立ち上がる前に、今夜はどうするか尋ねた。
ここで長く話すより、妹宅へ戻って休む予定なのだろう。
「今日は、早く戻ります。妹にも、先に寝ると伝えたので」
透花は答えた。
佳孝は、自分も今夜は続きを見ないつもりだと返した。
そのとき、彼女が彼の顔をじっと見た。
「つもり、ね」
「今、そこを確認されるとは」
二人で笑った。
会議で未確定の条件を指摘されるときとは、少し違う笑いだった。
「では、一本見たら、その後は、明日にします」
佳孝が言い直すと、透花は、自分で選んでください、と少し笑った。
彼も、分かりました、と答え、そこで今夜の約束のように固めることはしなかった。
透花は鞄を持ち、立った。
今日、借りていた物を返しに来たのではないので、彼の部屋へ寄る用事はなかった。
佳孝も、よければコーヒーを、と続けて誘うのはやめた。
本人が早く戻ると言った、そのままを聞いていた。
「毛布は、金曜に、返せそうです。明日、妹の予定が分かったら、また、連絡します」
透花が話した。
佳孝は頷き、金曜の夕方なら今のところ自宅にいると答えた。仕事で変わる場合は、自分も先に伝える。
それで、次の用件は済んだ。
「では、お疲れさまでした」
彼が言うと、透花も返した。
歩き出す前、彼女は少しだけ顔を緩めた。
「今日は、篠原くんも、早く帰れたのね」
佳孝は、はい、と答えた。
仕事の進み具合へつける評価ではなく、今夜、自分の時間へ戻れる人への声だった。
部屋へ戻り、彼は食事を温めた。
テレビをつける前に、まず食卓へ座る。今日は自分の黒いマグだけがある。
金曜の夜に来た人は、ずっと強くて、部下の前では疲れない人ではなかった。
妹と話して眠るのが遅くなり、慣れない音で目を覚ますこともある。
それでも仕事へ来て、自分の認識がずれたら、確認し直していた。
佳孝は、それを見たことを覚えておこうと思った。
食後、見ていた番組の一つを流した。
終わると、続きへ進む案内が出る。彼は一瞬迷い、今日は止めた。
誰かへ報告するほどのことではないので、透花へも送らなかった。
代わりに、明日持っていく鞄の中を確かめた。
今夜、早く寝ると言って帰った彼女の声が、少しだけ頭へ残っていた。




