第6話 朝のコーヒー
玄関の鍵を確かめたところで、隣の扉が開いた。
佳孝は振り向き、少しだけ目を丸くした。透花も鍵を持っている。足元には、金曜より小さな鞄があった。
「おはようございます」
彼が先に言うと、彼女も返した。
火曜の朝、八時前だった。現地の立合いがあると聞いていたが、もう部屋の前へ来ているとは思わなかった。
「早いんですね」
「来る前に、妹の家で支度をしてきたので。こちらへ置いた物を、一つ、確かめたくて」
透花は自分の扉を閉めた。
管理側と話した範囲で、持ち出したい私物を確認したらしい。今日は九時に担当者が来て、一緒に状態を見る予定だという。
会社へは、その後、連絡した時刻に戻る。
佳孝は彼女の手元の時計を見て、自分の部屋の中へ目を向けた。
「まだ、一時間くらい、ありますよね」
「ええ。下で待とうと思っていたところ」
彼は自分の時計も見た。
出るまで、あと二十分ほどあった。今朝は少し早く起きたので、鞄の中も、持っていく物も揃っている。
「コーヒー、今から飲むところでした。俺が出るまでの十五分くらいなら、どうですか」
透花がこちらを見た。
金曜のように、冷えて立っているわけではない。断ったら今すぐ困る用事でもなかった。
彼女は少し考え、自分の時計を確かめた。
「では、一杯だけ。八時十五分には、出ます」
時間を決める声が、少し仕事の連絡に似ていた。
佳孝は笑い、頷いて扉を開けた。
朝の部屋には、窓から白い光が入っていた。
金曜の夜には、ほとんど照明の下しか見えていなかった。透花は入ってすぐ、窓の方へ一度目を向けた。
「朝は、明るいのね」
「はい。雨じゃなければ、結構」
彼は自分の鞄を玄関の近くへ置き、台所へ向かった。
透花は食卓の椅子へ座る。ソファへ毛布を探す動きはしなかった。まだ妹宅へ持っていったものが、そのまま借りられている。
佳孝は棚から二つのマグを出した。
黒と黄色。透花がそちらを見ると、彼は黄色い方を自然に手前へ置いてしまった。
「こちらで、よかったですか」
後から聞くと、彼女が頷いた。
「ええ。覚えていてくれたのね」
「二個しかないので。選ぶのも、半分ですし」
透花が少し笑った。
佳孝も笑い、コーヒーを用意した。豆に詳しいわけではないが、家で飲む分を少しずつ選ぶのは好きだった。
今日はいつものものだと伝えると、彼女は香りがよいと答えた。
「砂糖、入れますか」
「一つ、お願いします。ミルクは、あれば少し」
彼は小さい容器を出した。
透花は自分で量を選び、カップをゆっくり混ぜた。黄色い面へ、朝の光が当たる。
「カレーだけでなくて、コーヒーも、甘い方なんですね」
佳孝が言うと、彼女は顔を上げた。
「朝は、少し。仕事中は、何も入れない日もあります」
「あ、全部同じでは、ないんですね」
「篠原くんも、毎日同じカレーを食べるわけでは、ないでしょう」
彼は頷いた。
コーヒーを飲むと、透花は一度だけ目を閉じた。
眠いのかと思ったが、次に開いた目はカップを見ている。
「落ち着くわね。座って、温かい物を飲めると」
佳孝は自分の分を一口飲んだ。
普段も同じ物を飲んでいるのに、今日は向かいから別の人の感想が返る。
それだけで、出勤前の数分が少し長く使える気がした。
食卓の端には、彼が今朝使った皿が一枚あった。
透花はそれへ目を向け、もう朝食は済んだのかと尋ねる。
彼はパンを食べたと答えた。彼女も妹宅で食べてきている。
「妹さんとは、生活の時間、合いますか」
佳孝が聞くと、透花は少し笑った。
「同じではないわね。あの子は、帰るのが遅い日もあるので。でも、自分の用事を先にしてもらうことにしているから」
迎えに来てもらい、泊めてもらっているが、妹の夜の時間まで全部自分へ合わせてもらっているのではないらしかった。
透花は自分の分の買い物や食事も、できるところは自分でしているという。
佳孝はそれを聞き、金曜の夜も、彼女が自分で行き先へ連絡したことを思い出した。
「妹の部屋へ行ったら、私より先に、毛布の方を褒められたの」
彼女が付け足した。
佳孝は少し笑った。
「あれ、普通に買ったものなんですけど」
「ええ。でも、持っていったら、温かそう、と。どこで借りたのか、聞かれました」
佳孝は、それはそうだろうと思った。
姉が毛布を羽織って荷物と一緒に来たら、妹も理由を聞くだろう。透花は隣人に助けてもらったと、自分の言葉で話したらしい。
透花がカップを置き、一度だけ欠伸を抑えた。
すみません、と小さく言う。
佳孝は何か聞きかけたが、今朝はあと数分しかない。体調を決めつけて心配を重ねるより、ゆっくり飲める間を残すことにした。
彼女も、続きを無理に話さなかった。
二人で少し黙り、コーヒーを飲んだ。
八時十分になり、佳孝は自分のカップを流しへ置いた。
透花も時計を見て、もう出る時間ね、と立った。
「洗うの、ここへ置いてよい?」
空のマグを示されたので、彼は頷いた。
今、二人分を洗っていると、かえって時間がなくなる。帰宅してから自分で片づけるつもりだった。
「ごちそうさまでした」
透花は言った。
佳孝は、どういたしまして、と返す。
金曜の夜、何度も礼を言われたときより、そのやり取りが少し自然だった。
玄関で、彼が仕事の鞄を持つ。
透花が、あ、と短く声を出した。
「ネクタイ、少し、横へ寄っているわ」
佳孝は鏡を覗いた。急いでカップを出している間に、結び目がずれたらしい。彼が自分で直すと、透花は、そこ、と小さく頷いた。
「ありがとうございます。会社へ着くまで、気づかなかったかも」
「ええ。今、見えたので」
それだけの返事だった。彼はもう一度鏡で確かめ、鞄を掛けた。向かいに人がいる朝は、普段なら見落とす小さな所まで、言葉が一つ増えた。
透花は自分の小さい鞄を肩へ掛け、靴を履いた。外へ出ると、廊下の光は部屋の中より少し冷たかった。
二人でエレベーターへ向かう。
「今日の午後、資料の続きを見る予定でしたね」
透花が確認した。
佳孝は頷き、共有先へ出してあると答えた。
それ以上、今ここで説明はしなかった。
「会社で、お願いします」
彼が言うと、彼女も、ええ、と答えた。
一階へ着き、扉が開く。
佳孝は駅の方へ行き、透花はロビーで管理側の担当を待つ。今朝も、一緒に出勤するわけではなかった。
「では、行ってきます」
佳孝は自然に言った。
透花が一度目を丸くした後、いってらっしゃい、と返す。
それから、少し笑った。
「私も、後で、会社へ」
「はい。では、また午後に」
彼は頭を下げ、外へ出た。
歩きながら、今の言葉は少し変だったかもしれないと思った。彼女は自分の家で待っている人ではない。
だが、今朝、短く同じ食卓でコーヒーを飲んだ相手へ、先に出ると伝えた。
その返事として届いた声は、会議室のものより少し柔らかかった。
佳孝は鞄を持ち直し、いつもの時刻の電車へ向かった。




