第5話 会社では他人
「篠原くん。三店舗分の数字、先に聞かせてください」
月曜の会議室で、透花はそう言った。
毛布はなかった。
当たり前だ。ここは会社で、彼女は企画部長として席へ着いている。佳孝の前には、金曜の夜に二人で作ったカレーではなく、直した提案の資料があった。
朝、隣の部屋の前を通っても、扉は閉まったままだった。今日、彼女と顔を合わせたのは、いつもの会議の席だった。
「はい。今回の導入先へ範囲を分けると、こちらです」
佳孝は最初に集計の条件を説明した。
三店舗は大きさが違い、似た物を置く棚の幅も同じではない。全体の売上だけを使ったときには、見えていなかった差だった。
金曜に返事をもらえた分と、まだ確認中の分を分けて示す。
透花は途中で二つ質問し、佳孝は分かるところへ答えた。
「残っている部分は、今日、窓口へ確認します」
「お願いします。返事によって数が変わるなら、見積もりも一度分けておいてください」
短い指示が返った。
厳しさが減ったわけではない。
だが、今日は、何を尋ねられているかが前よりはっきり分かった。
透花は同じように、岩崎の資料も見た。
店舗へ聞く項目が、使う場面と販売する数で混じっている。そのままでは、誰へ聞けばよいか分からなくなるので、順番を分けた方がよいという。
岩崎が頷き、佳孝の方へメモを寄せた。
二人で引き取る作業が、一つ増えた。
会議の最後に、透花は今週の予定を共有した。
自宅の設備の不具合で、明日の午前に現地の確認がある。勤務の予定は調整し、その時間の連絡先も決めてあるという。
詳しい被害の中身や、どこで待ったかまでは話さなかった。
佳孝の名前も出なかった。
「午前の分は、岩崎くんに、一次の取りまとめをお願いします。判断が要るものは、戻ってから、私が確認します」
岩崎が返事をした。
同僚たちも自分の予定へ書き足す。
仕事が回るために必要な話として、それだけが会議へ残った。
席へ戻ると、岩崎が、今日の数字、分かりやすくなったな、と言った。
佳孝は頷き、自分でも三店舗へ絞ると考えやすくなったと答えた。
「俺も、聞く順番、逆だった。先に置く場所のこと、店へ聞かないと、数だけ出しても、向こう困るんだな」
岩崎は自分のメモを見た。
佳孝も隣で、確認先を一つずつ書き直す。
午前中、佳孝は窓口へ質問を送った。
返事が来るまでの間に、分かっている店舗の棚の資料を見直す。寸法だけでは、店頭でどのように説明するかが見えない。
岩崎へ、商品の大きさと、使う場所の図を同じ紙へ入れてみないかと話した。
「それ、聞かれることを減らせるかも。ただ、全部の棚へ合うようには描けないな」
「うん。これは例ですって分かる方がいい。実際の条件は、別に見てもらうように」
二人で大まかな形を作った。
まだ完成ではないが、午後に確認を頼むとき、文章だけより話しやすくなりそうだった。
佳孝はそれを見て、自分からやりたい修正が一つ増えたと思った。
昼前、透花が席の近くへ来た。
佳孝は一瞬、金曜の話をされるのかと考えた。
だが、彼女が見ていたのは、岩崎へ渡した図の方だった。
「こちら、今、作っているもの?」
「はい。置ける場所の例を、一つ。数を決める前に、同じ物を見ながら確認できればと」
佳孝が説明すると、透花は図へ目を落とした。
「分かりやすいと思います。ただ、実寸の図に見えないよう、そこだけ書いておいてください。今のままだと、紙の大きさで比べる人もいるので」
彼は頷いた。
よいところも、直すところも、一度に返ってきた。
透花は岩崎へ午後の確認の時間を伝え、別の席へ向かった。
足音が離れるまで、佳孝は紙を見ていた。
黄色いマグを選んだ人と、同じ人だった。
佳孝は図の端へ必要な言葉を足した。
昼休み、岩崎と近くで食事をした。
彼は週末、自転車を整えて少し遠くまで行ったと話した。帰りに雨へ当たり、結局、途中の店で長く休んだらしい。
「篠原は?」
尋ねられ、佳孝は、家でカレーを作っていたと答えた。
誰と食べたかまで聞かれたわけではない。自分から話してしまうと、本人がどこへ避難したかまで、同僚の昼食の話題にしてしまう。
彼はそこまで広げなかった。
「また二日分?」
「今回は、一日半くらい」
「何だ、その半分」
佳孝は、分けたから、とだけ答えた。
岩崎はそれ以上、深く聞かなかった。自分が雨宿りした店の話へ戻る。
佳孝も、その店の話を聞いた。
午後の確認は、予定どおり進んだ。
返事待ちだった一件も窓口から戻り、見積もりへ数字を入れ直せた。岩崎が聞き方を分けたことで、先方が答える相手も決めやすくなったらしい。
透花は最終の共有先を確認し、次の担当へ渡すよう指示した。
「今日の分は、ここまでで大丈夫です。残ったところは、明日、戻ってから見ます」
佳孝は頷いた。
週明けの仕事は、自分で直し、同僚と進め、いつもの経路で終えた。
退勤前、給湯室の前で透花と二人になった。
彼女は使ったカップを戻すところだった。黄色ではなく、飾りの少ない仕事用のものだ。
佳孝が通り過ぎようとすると、彼女が小さく名前を呼んだ。
「篠原くん。金曜は、ありがとうございました」
会社の連絡より、少しだけ小さい声だった。
佳孝は足を止め、妹さんのところへ着けたならよかったです、と返した。
「ええ。今週は、しばらくお世話になることにしたの。仕事への影響は、必要なところへ、自分で伝えています」
彼女はそう話した。
彼は頷き、毛布は急がなくてよいと伝えた。
「週末に、返せればと思っています。先に、連絡しますので」
透花は答えた。
そこへ別の社員が来たので、二人とも道を空ける。彼女はその社員の質問を聞き、すぐに仕事の声へ戻った。
佳孝は、失礼します、と頭を下げた。
帰宅すると、ソファはまだ毛布のないままだった。
佳孝は上着を掛け、昨日使った黒いマグを棚へ戻す。黄色い方も、もう乾いていた。
金曜と同じ部屋なのに、今日は一人だった。
少し静かだと思った後、彼は夕飯を考えるため冷蔵庫を開けた。
炊いておいたご飯を、冷凍庫から一つ出した。
スマートフォンへ短い文が来た。
透花から、明日の立合いで朝、自宅へ寄る予定だという連絡だった。毛布とタオルは週末に返すので、まだ預かると添えてある。
佳孝は、分かりました、と返した。
その後で、朝の廊下で会ったら、どんな声で挨拶するだろうと少し考えた。
仕事の資料は、明日の会社にある。
隣で生活している人へ言う、おはようございます、も、たぶん別にあってよかった。




